一切れのパンは、光村図書の中学校「国語一年」教科書に、1972年から1980年まで掲載されていたお話である。
第二次大戦中、ドイツに拘束されたユダヤ人が、同じく拘束されたユダヤ教の僧侶から「このパンを持って脱出して、家に帰れ、本当に困ったとき以外は絶対に開けるな」と言われて渡された、布に巻かれた一切れのパンをポケットに入れて何日もの苦難を乗り越えて、その時々にポケットのパンを触り勇気づけられながらようやく家に戻り、手渡された布を開けると木片が出てきた、というお話である。
最後の最後、どうしようもなくなった時にこのパンを食べよう。それまでは出来る限り我慢しよう、と、とうとう困難を乗り切ってしまったお話だ。
この話は人の心に引っかかるようで、今でも私の弟は時々これを話題にする。
今日、茂木健一郎氏の動画を見て、一切れのパンは安全基地だったのだということに気が付いた。
安全基地は決定的に重要である。よく言われることだけれど、安全基地があるからこそ、新しいことに挑戦できる。それは子供でも大人でも同じである。
ではどんなものが安全基地になるのだろうか。
大人もそうだが、特に子供にとっては、自分を大切にしてくれる親や周囲の人たちの存在だろう。こういう人たちが自己肯定感を涵養してくれる。一般的には、関係こそが安全基地を提供できる最大の資源である。
他に無形文化財に成り得るものは、過去の経験だ。今まで大きな不幸は何も起こらなかったから、これからも起こらないだろう、と思えれば、それは安全基地になる。
仏教的な世界観、すべては自分の脳の中での出来事に過ぎない、とか、すべては関係によって生じ、そして滅しているという世界観も安全基地に成り得る。
有形文化財的なもので考えれば、誰からも侵害されないプライベートな個室は安全基地になる。
更には、携帯可能な物として、一切れのパンが挙げられると思う。もう少し時間継続性がある物としては、神社のお守りもその性格を持っているだろう。
つまり信じれば何でも安全基地になるのだ。自分の中に安全基地を持てれば最強であるが、次善の策として外部のものを利用すればよい。
験(げん)は担いだもの勝ち、である。利用できるものは何でも利用して、安全基地にして、自己肯定感を高めればいい。