imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

考えると不自由になる 思考と実践の憂鬱な循環 2023年8月

考えれば、自由になる、という話はよく聞く。考えることによって、世の中の因習、つまり時代遅れの習俗から解放されて、自由になる、という意味だと思う。確かに考えることによって、自分が持っていた常識、実は偏見、を打ち破っていけるだろう。より自由になれると思う。目の前の現象を考えることによってその背景を知り抽象度を上げて見れるようになれば、より自由な物の見方が出来るようになるだろう。

 

さて

考える目的は、よりよく生きるためである。よりよく、とは、より自分の価値に合った、という意味だ。より合理的に、より利己的に、より節約的に、より禁欲的に、より享楽的に、より他者承認を得るために、など方向は何でもよい。

具体的に意識されるのは、生活を向上させよう、という至極まっとうな気持ちである。

その具体的作業は次のようだろう。

よりよく生きるために考え、考えた結果を実践する。つまり日々の生活を微修正する。その微修正した結果に対して、再思考する。その再思考したことを実践する。つまり日々の生活を微修正する。そしてその微修正した結果に対して、さらに再思考する。と言うように思考と実践が循環し続ける。

ところで、生活を微修正するのは精神的に負担が掛かる。かつ思考するのも負担が掛かる。これを日常生活で循環させ続けると、負担が掛かり続け、ゆったりとした気持ちで過ごせない。

 

結局、日々何となく負担が掛かり続ける。何となく重しがかかった毎日が続く。することが何もなく、解放された、自由な気分になれない。

つまり生活を向上させようという至極まっとうな動機が、思考と実践の憂鬱な循環を作り出しているのである。

 

何も考えず、ただ3度の食事をして、ぶらぶら散歩をして暮らせたら抑鬱的な気分から解放されるのではないか、と夢想する。

 

ヒトは長い時間をかけて大脳を大きくしてきた。大脳を使うほど欲望が達成されやすくなった。合理的に対処できるからだ。今では大脳を使うこと、ものを考えることが習い癖になっている。放っておくと、自分の損得を考え続けてしまう。つまり負担が掛かり続ける。

 

では狩猟採集生活をしている人たちは、この思考と実践の憂鬱な循環から解放されているのだろうか。所有物がほとんどなく、技術の進歩も殆どなく、つまり生活の変化がほとんどないのだから、この憂鬱な循環を抜け出しているような気がしてしまうが、多分実際は、考える対象がすべて人間関係になっていて、相変らず隣人との人間関係について憂鬱な循環を繰り返していると思う。なぜなら大脳が大きくなってしまったので、強く意図しない限り、それを使ってしまうからだ。

 

他の生物はもっとスカッとした時間を送っているのではないかと想像する。

多くの人たちは、人間が最も優越した生物だと思っているが、とんでもない勘違いだと思う。

進化生物学的に見ても、与えられた部分的環境にただ最も適応したに過ぎない。