子供の幼い時の写真を見ると、なぜ胸が痛くなるのか

自分の息子や娘の幼い頃の写真を見て胸が痛くなった経験は、多くの人が持っていると思う。 私は長らくその原因が、ちゃんと子育てが出来なかった、という後悔から来ているものだと思っていた。 きちんと子育てできた人はこのような後悔を持つことがないのだろう、と思っていた。

ある時、子育てをきちんとできていた、と仮定したら、どういう気分になるか思考実験をしてみた。が、やはり胸が痛くなった。その時に分かったことは、どうしたって胸が痛くなるようだ、ということだった。

その原因を考えると、
1 100%完璧な子育てなどありえないから。 つまり後悔は必ず付きものなのだ。

2 後悔とは別のところも刺激されているから。

以下2について考えた。

幼い子供の笑顔や姿の向こうに、子供の無垢さを見ているのだと思う。 ではなぜ子供の無垢さを見ると胸が痛くなるのか。
子供の無垢さの向こうに、自分の中の幼い頃の無垢さ・純粋さを見ているのだと思う。 今はすでに失われてしまった無垢さを見て、胸が痛くなっているのだと思う。

付け加えれば、写真は、自分の子供でなければ何故か胸が痛くならない。 他人の子供の写真を見ても、そのような感慨が起こらないのだ。 また自分自身の子供時代の写真でもそれは起こらない。別の感情が立ち上がってしまうからだ。
ある人物の向こうに無垢な自分を見るためには、とても繊細な設定が必要なのだと思う。

話が飛ぶが、夕焼けを見て何とも言えない切ない気持ちになるのは、無垢だった子供の頃に見た夕焼けを思い出すからだと思う。その夕焼けの記憶が、今はすでに失われた自分の無垢さを呼び起こすのだと思う。

更に話を飛ばせば、自分の最も奥深いところにある、自分の核となっているもの、無意識に常に参照する原点は、無垢な自分だと思う。

今、合意できることを合意する

保守か革新か、右か左かではなく、今すぐ合意できることをさっさと合意して実行したい。

国家と国家
紛争はないほうがいいに決まってるでしょ。 ここ半年ほどのエチオピア政府軍とエリトリア軍によるティグレ地方での虐殺・強姦・略奪は市民が対象になっている。 これに賛成する人は誰もいないでしょ。 これは、中国が一帯一路政策でアジアやアフリカで投資を増やしてアメリカに対抗していることに対する評価よりも、明らかに国際的に合意を得やすいでしょ。 ならばさっさと国際的な与論を形成して制裁をかけたり、外交ルートを通じて軍の撤退を促せば良いと思う。
みんなが合意できて、しかも確実に不幸を減らすことができるでしょ。

紛争は兵隊だけではなく市民に被害を与える 非正規の部隊による紛争は止めづらいが、国家の軍隊による紛争は正規ルートを通せば圧力をかけやすい。

イスラエルによるパレスチナ侵略。 トルコ・シリア・イラクによるクルド人への弾圧。 中国によるチベット人ウイグル人・モンゴル人への弾圧。
これらに賛成する人も誰もいないでしょ。ならばさっさと合意を形成して不幸を減らしたほうがいいでしょ。

国内
ベトナムやフィリピンで高額の借金を負わされて、労働者として日本に働きに来る。 借金の返済のためどんな仕事でも拒むことができず、パスポートも取り上げられて逃げることもできない。 この状態に賛成する人は誰もいないでしょ。 ならば東京オリンピックを開催するか、しないかと言う議論に大きな労力をかけるよりも、さっさとこの奴隷労働を禁止する法律を制定すべきでしょ。 すでにその法律があるのなら、実行力を持たせるべきでしょ。
これは、みんなが合意できて、しかも確実に不幸を減らすことができるでしょ。

コミュニティ内
自分の立場を利用して、嫌がる他人を自分の思い通りに動かそうとするパワーハラスメントセクシャルハラスメント。 被害者がうける精神的ダメージを考えれば、誰もこれに賛成する人はいないでしょ。 全ての国民の同意が取れるのだから、後はいかにしてこれを減らしていくかを、国会やメディアを通して考えればいいでしょ。 これを減らすことは確実に不幸を減らすことになるでしょ。

相対
DVや子供への虐待に賛成する人は誰もいないでしょ。すべての国民の同意が取れるのだから、さっさと有効な対応策を考えれば良いでしょ。 これらを理性だけで止めるのは難しいから、どうしてそういうことをしてしまうのかを、国会やメディアを通して議論すればいいでしょ。

簡単に合意ができて、しかも確実に不幸を減らせることができるなら、さっさと実行に移せばいいでしょ。

個人
国会や地方議会ができることはたくさんあるけれど、私たち個人もすぐに出来ることがあるでしょ。
パワハラやセクハラや DV や虐待やマウンティングをしてしまうのは、結局は自己肯定感が足りないからだ。 自己肯定感の不足は、他者からの承認不足によって生じる。 だから私たちができることは、身の回りの大人や子供にたくさんの承認を与えることでしょ。お金もかからないし、時間もかからない。今すぐできることでしょ。 会う人すべてでなくて、もちろん良い。 一番身近なところから始めていけば良い。 一番大切な人から始めていけば良い。

苦は生き物の常態である

人は言語を生み出し、文字を発明して、知識を蓄積した。科学と技術を発展させ、 多くの苦い経験から、より快適な社会を創り出そうとしてきた。

今、世界を見渡せば、イスラエル国際法に違反して、パレスチナ人の家を壊してパレスチナに入植を続けている。パレスチナ人は合法に住んでいる家を壊され、追い出されている。
アメリカでは、丸腰の黒人が警察に殺され続けてきた。日常生活の中で、警察に呼び止められるだけで、極度の緊張を強いられる。
日本では、夜中にバス停の椅子に座っていたホームレスの女性が、石を入れたビニール袋で殴られて殺される。高架下で寝ていたホームレスが若者に石で殴られ殺される。
家賃が払えずアパートを出るなど、ネットカフェに泊まるその日暮らしの人は東京だけで4千人いる。明日がどうなるかわからない不安の中、住所不定で仕事を探す。

ネットでは誹謗中傷で人々は傷付けられている。相対では言えないことが、匿名の立場なら相手の気持を考えずに言えてしまう。朝の満員電車では、見ず知らずの人と押し合い、心を殺して通勤している。老後のために今を我慢して働いている。会社では嫌な人間と我慢して一緒にいる。友達とは、仲間外れにされないために言いたいことを言わずに我慢して相づちをうっている。

なぜ人の生は苦がこれほどに多いのか。そして周りを見渡してみる。

よく踏まれる地面ではオオバコが優先する。 踏み圧が強くて他の植物が生き残れないからだ。 もし人の行き来が変更され踏まれなくなると、たちまち背の高い植物に覆われて日陰になったオオバコは日光不足で枯れていく。
私達の目の前にある植物は、過酷な競争を勝ち残った結果の姿としてある。 多くの種子がそこで発芽したが、競争に負けて枯れていったのだ。

何年も地中で生きた後、盛夏に羽化したセミは、1ヶ月ほどあとに寿命を迎える。衰えて盛夏の草むらに落ちる。そして生きながらアリに群れられ、齧られていく。

ライオンは百獣の王と呼ばれるが、子供が大人に成長するのはとても厳しい。2歳児生存率は2割程度と言われる。 飢えや捕食者に食べられてしまうのだ。飢えて死ぬのは苦だ。 生きながら食べられるのも苦だ。

ホモサピエンスは30万年ほど前に出現したと言われる。 捕食獣に食われ、怪我をしても抗生物質は無く、体力が落ちると腐敗を止めれなかった。そして多くの場合飢えていた。


つまり全ての生き物の生は苦とともにある。
この世界で人を除くすべての生き物は、苦としての不快や痛み、恐怖をただ受け入れている。人だけが発達した大脳ゆえに苦しさや不幸、悲しみ、怒り、将来の不安を感じて鬱々と日々を生きている。
環境をコントロールできない彼ら生き物の生も苦、環境をコントロールしてきた私たちの生も苦だった。 大脳が発達し科学技術を進歩させてきたが、人生の苦はなくならなかった。

社会構造や行動の進化、心理の進化が分かってきても、日常の苦をなくすことができない。 しかし周りを見渡せば全ての生き物の生は苦に満ちている。 苦はすべての生き物の常態だ。

もやしをつくる 生き物を食べる

野菜の種子をまいて発芽させ、開花・結実・収穫する中で、最も心が動く瞬間は発芽した時だ。 黒い土の中から芽が出て、緑の双葉がすくっと展開する。 あんなに乾燥して、コロコロと転がっていたけれど、本当に生きてたんだな、と思う。

種子を見るととりあえず発芽させたくなる。 よく玄米を食べるのだけれど、1日水に浸してザルに上げ、数日置いて発芽させてから炊く。
玄米が発芽することが当たり前の感覚になってくると、スーパーで袋詰めで売られている玄米を見ても種子に見える。 こいつら生きてるのにパック詰めされて売られてるわ、と思う。
大豆ももちろん発芽させる。 一晩水につけてザルに上げ、数日置いて発芽させ蒸す。 発芽させると甘みが増し、かつ柔らかくなるので調理時間も短くなって便利だ。
今では全ての豆、つまりひよこ豆やレンズ豆や雁喰豆や、、は発芽させて食べている。発芽させた豆の何粒かは、植木鉢で育てている。

こうやって見みると私の台所に置いてある食材は、葉野菜・根菜は当然のこと、ほとんどのものが生きている。 動物性食材で置き換えれば、豚や鶏が食べられるのを待って台所でうろうろしているようなものだ。

大豆もやしを蒸し始めた当初は、何を感じることもなく鍋に火を入れていたが、大豆が生きていることを実感して以降、点火する時に何らかの感慨に襲われる。 こいつら、蒸し殺されるんかぁ、と。
玄米を茶碗に盛って発芽している米粒が目につくと、お前、茹で殺されたんか、と思う。

豆も玄米も古くなると発芽率が落ちる。 つまり人知れず死んでいる。 私が安らかに眠っている部屋で、保存ビニール袋の中で、一粒また一粒と力尽きて日毎に死んでいる。

冷蔵庫の野菜室に入れた人参は、非常にゆっくりと芽を出してくる。 私は人参を使う時、しなびやすい尻尾の方から切って使っていく。 昨日使った時より今日の方が少し芽を伸ばしている。 明日使う時の方が今日よりも芽を伸ばしているだろう。
人参からすれば何とか生き延びようとして芽を伸ばしているのだけれど、尻尾の方から少しずつ切断されていっているのだ。 自分に当てはめて考えれば恐ろしい事態だ。

やはり食材は丁寧に扱い、大切に食べなければと思う。


ここで言う生きているとは、個体として生きているということで、細胞が生きているということを意味しない。細胞レベルで見れば、生肉も生きているということになる。

マイブームの終わり

20年ほど前にマイブームという言葉が流行った。 確かに何かに取り憑かれたように、あることに熱中することがある。 そこまでいかなくとも、なんとなく毎日反復してしまう行為がある。 マイブームとはうまく表現したものだ。

私は、元来生野菜はほとんど食べないが、去年の秋頃からキャベツの繊切りを食べ始めた。 それが今年の2月まで続いた。 マイブームである。 このブームは食中毒によって終止符が打たれた。
平安文化に興味があって伊勢物語枕草子を、寝る前に布団の中で読んでいたことがあった。 マイブームである。 このブームは実家に帰った時、読む本が手元になくなって終わりを告げた。
数十年、朝起きるとまずコーヒーを飲むという習慣があった。 人生の半分を占めるマイブームである。 このブームも食中毒によって魅力のないものに変わってしまった。

振り返ってみると、マイブームが終わる原因は内発的なものではなく、外部からの要因によって強制的に終了したことが多かった。
マイブームが終わった時の感慨は、どうしてあんなことに固執し続けていたんだろう、である。 振り返ればそれほど価値があるとも思えないものに、昨日もやったからという理由だけで継続してきたのだ。

にもかかわらず自発的にマイブームを止めるのは難しい。 習慣化は不安要素を減らし、新しいことは不安要素を増やす。一度できてしまった世界は居心地がいいのだ。
大きな書店に行って覗く本棚の場所はいつも決まっている。 それ以外の本棚に行くことはまずない。
しかし意識して別の本棚の前に敢えて立つと、そこにもやはり興味深い本が並んでいるのだ。

日に3度の食事をするというのは終わりのないマイブームのようなものだ。 つまり日常生活、規則正しい生活はある意味終わらないマイブームだ。 強制的に終わらせるような外的要因があれば、どうしてあんなことに固執し続けていたんだろう、と思うに違いない。
全ての人にとって、終わりのないマイブームが強制的に終わる時とは臨終の時だ。 いまわの際で思うことは以下のような感慨になると思う。

どうしてあんなに人目を気にしていたんだろう。 人目を気にせずにもっとやりたいことをやってウキウキしたかった。
惰性で続けた日常生活から、どうして抜け出すことができなかったんだろう。 もっと新しいことにチャレンジしてワクワクしたかった。
将来に不安を感じてお金を貯めるために一生懸命に働いてきたが、収入を減らしてでも楽しく生きる時間を増やしておけばよかった。

13 jours en France パリの13日間

1968年2月、フランスでの冬のオリンピックのために作られた。 作曲はフランシスレイ。
日本語訳では『白い恋人たち』で、当初はザピーナッツがカバーした。 オリジナルの歌詞はフランスでのオリンピックを唄う歌詞だが、日本語では失恋の歌詞になっている。

1968年といえば先進国の間で同時多発的に反体制運動が盛り上がった年だ。 ベトナム反戦運動核兵器反対運動、プラハの春への共感,パリを中心とした5月革命。

第二次対戦後に経済的に地盤沈下して行くヨーロッパと、近代西洋の価値観の行き詰まりの中で、反権力運動を通しての自由への高揚感があった。

さて
YouTube でこの曲を見た。
Francis Lai - 13 jours en France
https://youtu.be/Qz6R9zEfzd0

歌詞はついていないが、印象的な絵画が映し出されている。
この動画を見て心に浮かんだことを書いてみたい。

心に沁みるメロディだ。 このメロディーに合わせて、印象的なパリの場面が印象派風の絵画で映し出されていく。
華やかなカフェ。 着飾った男女。 色とりどりの明かりが灯る夜の街。


1492年アメリカ大陸"発見"から始まるヨーロッパによる世界の植民地化は、莫大な富をヨーロッパにもたらした。 植民地化された国々が独立した後も、世界のルールを自分たちに有利なように設定して収奪してきた。
ヨーロッパを含む先進国の民主主義や自由は、そのような環境に支えられて花開いた。
この動画の賑やかなパリの風景はそれを象徴しているように見える。
しかし2021年の今から、このパリの風景を見ると虚しさに襲われてしまう。
現在のフランスの極右政党の支持率は20%を超える。 共同体が崩壊し鬱屈を抱えた、経済的にも貧しくなった個人が、社会的弱者を叩く排外主義で鬱憤ばらしをしているのだ。
途上国の人々を貧乏なままに据え置いて実現した豊かな社会。その社会が多くの幸せでない人たちを生み出している。
この動画の中の華やかなパリはなんだったんだろう。 途上国の収奪された人々の苦しみは何だったんだろう。

存在の不安について 何のために生きているのか 後半

存在の不安とは具体的には

1なぜ生まれてきたのか

2何のために生きているのか

これに尽きると思う。

向き合いかた

1 宗教の助けを借りる

宗教は世界の外側(文末参照)からの回答を提示できる。 故に、なぜ生まれたのか、何のために生きているのか、という答えを用意できる。 故に宗教は存在の不安を解消し得る。

2 科学の助けを借りる

科学は世界の内側(文末参照)しか提示し得ない。

宗教の助けを借りずに存在の不安に向き合えるか。以下科学の助けを借りた場合について考える。

1 なぜ私は生まれたのか

科学からの回答は、偶然、である。 ある恒星が爆発し、それが冷え固まった中の1つとして地球が誕生して、アミノ酸が宇宙から降ってきて、生命が生まれ、紆余曲折の進化があって、 隕石の衝突で恐竜の絶滅が起こり、その隙間に哺乳類が入り込み繁栄を始め、2度の出アフリカを経て、3万年ほど前に日本列島に人がたどり着き、紆余曲折の出会いがあって、私の両親が知り合った。 どこをどうひっくり返しても偶然という要素しかない。

2 何のために私は生きているのか

科学からの回答は、生きていることに理由はない、である。 目の前を歩いているこのアリの生に理由はない。生まれたから、ただ生きているだけだ。

以上、科学が提示する回答では、当然だが不安は解消しない。 荒涼とした風が吹いている。

しかし科学が提示したこの世界を、私たちは読み替えることができる。

1 なぜ私は生まれたのか、の読み替え

科学からの回答は、全くの偶然、である。 一億年前に戻って1億回やり直しても、今と全く同じ状態をここに再現できないだろう。それほどの偶然なのだ。 しかしそれは私から見れば奇跡である。 今の私が、今の人間関係のなかで、ここにいることは奇跡なのだ。奇跡の存在として今の私がある。つまり奇跡の存在として私は生まれたのだと読み替えるのだ。

2 何のために私は生きているのか、の読み替え

科学からの回答は、理由はない、である。しかし奇跡の存在としての私を知ってしまえば、私の成すこと全てが奇跡である。 私は日々奇跡を紡ぎ出しているのだ。もちろん私の死後も、私が紡ぎだした奇跡は奇跡を生み続けるだろう。

多くの紡がれた過去の奇跡によって私が生まれ、その私、が紡ぎだした奇跡は、私の死後も奇跡を生み続ける。もちろん私の目の前にいる人も奇跡の存在だ。

大きな奇跡の流れの中の一部として今の私があるのだ。つまり刻々と奇跡を生み出し、奇跡の後世を創っていくために私は生きているのだ。奇跡の橋渡し。

さらなる一歩

そもそも私が今ここにいること自体が奇跡だ、ということが分かれば、全く自由に生きていいと思う。 何に遠慮することなく奇跡を満喫していいのだと思う。



世界の内側と世界の外側

世界の内側とは知覚世界のことで、感覚器官を通して知ることができる世界のこと。科学で証明できる世界にほぼ相当する。

世界の外側とは、その隣りに予想される世界のこと。 具体的には、超常体験世界や非日常世界、超越的存在(神など) のことだ。科学で証明できない世界のこと。

社会とは世界の内側で、かつ人間関係のある領域のこと。

存在の不安について 何のために生きているのか 前半

普遍的な人生の悩みには、未来への不安と存在の不安の2つがあると思う。 今回は存在の不安について。

そもそもなぜ生きることは苦しいのか。
生物として摂食行為が必要、かつ社会的生物として他者承認が必要だからだ。
つまり食べ物を得るために、自己評価を下げる不快なこともしなけれなければならない。 狩猟採集時代は、捕食動物が徘徊する草原に、空腹を満たすために出かけなければならなかった。 現代では価値が保存できる貨幣のおかげで、蓄えのある人は労働を省略することができる。しかし承認欲求は全ての人が持っている。なので、相手の心的状態が分からないのに承認を得るために近づいて傷付いてしまうのだ。

しかし生きていくことが苦しくても、強い共同体があれば包摂されて心は安らぐ。狩猟採集時代に存在の不安はなかっただろう。
共同体からの支えがなくなった時、人はむき出しで世界と向き合うことになる。

嫌なことや悲しいことが、存在の不安を露出させるきっかけになる。
1仕事で失敗したり、友達に貶されたり、競争で負ける。 嫌なことを体験すると自分に価値を感じれない、自尊心が毀損される。つまり他者からの承認を感じれず、自分を承認できない。
2大切な人が死んだり、離別する。 悲しいことを体験すると孤独を感じる。関係が切断される。 世界にひとりぼっち。
他者承認不足も孤独も関係性に関わる。 つまり共同体が解体して関係から疎外されている時に、嫌なことや悲しみは更なる関係からの疎外を自覚させるのだ。

そこで姿を現すのが、存在の不安である。 社会の中での関係の希薄さが、置き替え不可能な、唯一の存在としての自分を求めてしまう。
人は社会の中で自分の固有の役割を求める。 置き替え可能な存在ではなく、唯一性を求める。
強固な共同体、例えば家族、には関係の唯一性がある。 親子や夫婦や兄弟だ。
共同体が解体して関係が切れていくと、存在が露出する。 関係の唯一性が切れていくと、存在の唯一性にすがるしかない。 それが存在の不安として意識されるのだと思う。
存在の不安に包まれたとしても、共同体に再包摂されれば、その不安は解消していくだろう。 しかし現代の自由市場主義のもとでは、共同体の解体の流れは止められない。 であるならば存在の不安に今後も向き合わざるを得ないだろう。

言葉の意味と事物の役割 生きる意味とは

辞書にも記載されているように、言葉には意味がある。 例えば“鉛筆”の意味は、字を書く道具だ。 しかし目の前にある“この鉛筆”の意味は答えれない。 なぜなら“この鉛筆”の存在の意味を問うことになってしまうからだ。 “この鉛筆”の存在自体には意味はない。 つまり抽象的に表現された言葉の意味には答えることができるが、特定の事物を表す言葉に対しての意味は答えれない。

人が関わったものにはすべて役割がある。 一般名詞としての“鉛筆”の役割は、文字を書くことだ。 目の前にある“この鉛筆”の役割は、風で紙が飛ばないための重しだ。同じように“私の人生”の役割も説明することができる。 例えば、子供を育てて幸せにすることや、夢を叶えることによって他人を幸せにすることなどだ。

一般名詞としての“人”の意味は説明できるが、“或る人”の意味は説明ができない。 存在を問うことになるからだ。 そもそも設問としても違和感がある。
同じように一般名詞としての“人生”の意味は説明できるが、“私の人生”の意味は説明できない。 “ 私の人生”の存在に意味はないからだ。

以上から、私が存在の不安を感じた時、“私の人生”の意味を考えても答えは出ない。 より正確に言えば世界の内側からの答えはない。
一つの系の内側(ここでは世界の内側)でそれぞれの要素の関係は規定できるが、或る要素が存在している意味を規定するのは不可能だと思う。 その系の外側(ここでは世界の外側)の価値体系からでしか、ある要素の存在の意味を規定できないと思う。


世界の内側と外側

世界の内側とは知覚世界のことで、感覚器官を通して知ることができる世界のことだ。科学で証明できる世界にほぼ相当する。

世界の外側とは、その隣りに予想される世界のことだ。 具体的には、超常体験世界や非日常世界、超越的存在(神など) のことだ。

社会とは世界の内側で、かつ人間関係がある領域のことだ。

同じ反応をしてしまうこと 同一刺激同一反応

喋っていると時々あるのだけれど、ある話題になると必ず同じ反応をする人たちがいる。 人は全体として統合された一つの人格を持っているのだから、同じ刺激に対して同じ反応をするのは当たり前なのだが、その時々によって前提が違っている。にもかかわらず同じ反応をするのはどういうことだろう。

幼稚園や小学生の頃を思い出すと、とにかく目の前のことに対応しなければならなかった。 それが自分にとって納得のいく正しいと思われる反応でなかったとしても、どうにかしてその場をやり過ごさなければならなかった。反応の内容を吟味している余裕はなかったし、能力もなかった。 その場で苦境に陥らないために、嫌な思いをしない為に手に入れた反応は、その後も条件反射的に使うようになっていっただろう。
特段の困難を経験しない限り、その条件反射を変更することはない。 故に何も考えていなければ、長じてもその条件反射に頼ることになる。
つまり大人が人と対面して反応している時の根拠が、子供の頃に何とかその場をやり過ごすために手に入れた条件反射に頼っていることになる。
これが、前提が異なっているにもかかわらず、同一刺激同一反応になってしまう理由だと思う。子供の頃からの繰り返しによって無意識の領域に太い回路が出来上がっているのだと思う。