imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

今後の予想あれこれ 2025年5月15日

◎先進国

現状=グローバル化→製造業が外国に移転して→国内製造業が空洞化→国内雇用減少→所得減少→貧困層増大→格差拡大

 

・本来なら→選挙によって多数派である貧困層優遇の政策採用→具体的には→

法人税率上げる→しかし企業が海外移転してしまう→故にできない

貧困層を対象にした財政出動→しかし財政赤字のため十分には出来ない

累進課税強化→富裕層海外移動してしまう→故にできない

 

・理想=労働生産性を上げる→既得権益を旧産業から新産業に移す→しかし旧産業が与党と強く結びついているので、旧産業保護政策を政府が採用してしまう。→故に労働生産性が上がらない。

 

・現実=ネット社会化→孤立した個人が鬱憤晴らしの為に弱者を叩いて憂さ晴らしをする→例えば外国人叩き→排外主義、ナショナリズム

 

◎途上国

現状=グローバル化→国内に工場を誘致→先進国の資本投下→工場増加→労働者増加→所得増加→農民との格差拡大→相対的貧困層増大→不満増大

 

・本来なら→パイ自体が大きくなっているのだから財政出動がし易い→貧困層にも再分配すれば不満は減少する→しかし富裕層を基盤とした政府なので→下層に不利な税制を施行する→貧富の差拡大

 

・現実=資本主義浸透のため村落共同体解体→孤立し貧困化した個人が増加→(ネット社会化)→不満を抱えた個人が弱者叩きをして憂さを晴らす→少数派、異民族、異宗教叩き→排外主義、ナショナリズム

 

以上のことを前提にすると先進国の自衛手段は

 

1 途上国に作れない製品を開発し続ける。例えばかつてのインテルのCPU。→しかしある分野ではトップを維持できるかもしれないが、国内製造業全般で維持するのは不可能。→故に輸入品に押され国内工場が減少する。

2 物の移動を先進国に有利にする。=安全保障や購買力を武器に途上国の関税を下げさせる。→しかし先進国の関税を下げると途上国の安い製品が入ってくるので、下げれない。→故に不公平感があって持続的でない。

3 資本、人の移動を制限する。=自国、またはブロック圏の経済圏の市場を前提に商品を売買する。→効率が悪くなって成長率は落ちるが、貧富の格差はあまり拡大しない。→世界市場で優位だった企業は市場縮小のため減速する。

 

4 自衛手段ではないが=グローバリズムの現状を認めて、自由化を推し進めて、効率の良い市場を作り、科学技術の発展を加速させて快適な社会を作る。→しかし貧富の格差は拡大する。

 

基本的に今までの世界システムは2であった。つまり先進国に有利なルールを世界標準に設定してきた。例えば、体力の差があるときに、自由競争をすれば、体力があるほうが有利である。→しかし中国という大国が台頭してきて、不平等さに不満を持つ途上国のもう一つの選択肢になっている。→先進国は今までのような自国優位のルール作りが設定しづらくなっている。

 

古き良きアメリカ志向の副大統領のJ.D.バンスは3の方向をイメージしているだろう。E.マスクは4を指向しているはずである。

 

5 もう一つの方法は、法人税の課税を強化しても企業が外国に逃げれないように資本の移動を制限することが考えられるが、資本移動の制限はいろんなところに影響を与えるので、今の私にはよく分からない。グローバリズム全盛期の2000ゼロ年代には全く相手にされない考え方だった。



雑感 書評「坑夫」夏目漱石 1908年刊 2025年5月15日

先日、柄谷行人氏の「漱石論集成」を読んでいると、「坑夫」のことが書いてあった。興味を持ったので読んでみた。

 

虞美人草」に続く専業小説家として書いた2作目。実際の体験者から聞いた話を加工したようだ。朝日新聞に連載された。

 

功成り名を遂げた語り手が19歳の時の体験を振り返る形式をとっている。結婚を約束していた娘と、好きになってしまった娘との間で進退窮まってしまい、自殺を目的とした逃避行の途中で、手配師の長蔵に連れられて鉱山の坑夫として働くまでのお話である。読者は功成り名を遂げた語り手を漱石自身、主人公を若き日の漱石と想定して読んだ可能性がある。

 

おおよそのあらすじは

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%91%E5%A4%AB

 

長蔵と出会ってからの丸一日と、鉱山の坑道に潜る最初の一日だけでほぼすべての紙数を割いている。よくこれだけ引き延ばせるものだと思う。主人公の感情の生起を、メタ認知の手法を使って、中年の話し手から時間を遡って19歳当時を見返したり、出奔する前の学生の目線で見たり、上空から見たり、常識から見たり、また逃避時から常識を見返したり。手を変え品を変えて視点が動く。その内容もそれほど陳腐ではなく、興味を持って読み続けられる。日頃から内省していなければ、これほどの密度で書き詰めることは出来ないと思う。神経衰弱、現代で言うとうつ病とか不安障害、に漱石は苦しんだらしいが、外界が不安だったのでそれを乗り越えるために不安を分析して正体を明らかにしようとした結果、内省志向になったのかも知れない。

内省を作品に表現するところは鴎外とは明確に違う。内省は反常識、反社会的認識に到達する可能性が高い。何故なら常識という出発点に内省を加えて操作するのだから、当然常識から離れた答えが出てくる。つまり漱石の作品はそれを必要とした。具体的に言うと、当時の知識人社会の常識に異議を唱えるために、主人公に内省をさせて社会の常識を揺さぶろうとしたのだと思う。つまり社会の常識を揺さぶる手段として主人公の内省を使った。小さな常識から大きな常識まで。小さな常識を揺さぶって笑いを誘い、大きな常識を揺さぶって社会に刺激を与えようとした。

この作品での大きな刺激とは、一人の人間の人格はその時々で変化する、一貫性などない、ということだと思う。

 

新聞を購読するような当時の知的階級の人たちは新興産業であった炭鉱の労働条件が悪いことは知っていただろうが、具体的な姿を知らなかっただろう。体験記を呈したこの作品はそれだけで読者の興味を引いたはずである。それを、極悪の環境であるにもかかわらず、視点の移動を使って面白く表現した。ここには山出しの青年が何とかプライドを保とうとして四苦八苦する内面が面白く描かれている。

漱石の主眼は鉱山の環境ではなく、全く異なる環境に無欲の人が遭遇した時、どのような心的反応が生じるか、のように私には見える。死ぬつもりの人間が、予期もせず死ぬような環境に放り込まれたとき、逆に生きようとする反発力が生じてくる。




追記

 

・前作の長編小説「虞美人草」は、内田樹氏によると、二人の娘がそれぞれ在来的価値と西洋的価値を代表させていて、すでに漱石の中では両者の対立が強く意識されていた、とのことであるが、本作「坑夫」では両者の対立はない。すべての作品でそれが表現されなければならないとは思わないが、「虞美人草」もただの控えめな娘と我の強い娘との対比である、とも考えられる。私はそのように受け取った。

ただ大切なのは、漱石がどう思ったかではなく、結局は私たちがどう思ったか、何を感じたか、だと思う。

私自身は、手配師長蔵に連れられて鉱山に着くまでの描写が、その情景が頭の中にイメージとして浮かび上がってきて、自分も追体験したような印象を持った。表現が上手だな、と思った。

 

・当時の鉱山の様子や、坑夫がどのような社会的存在であるかが分かって興味深い。1900ゼロ年代の鉱山の話だが、一日三交代制を管理する事務所兼見張り小屋が坑内の中にあって、意外に無茶に坑夫をこき使ってなかったのは意外だった。こき使いすぎて既に問題が起こり、対策が講じられた後の鉱山経営なのだろう。場所や経営主体が匿名になっていたのは、当時の基幹産業に遠慮したのかも知れない。足尾銅山かな、と思う。だとすると、赤城駅から鉱山までは山道を40キロほど歩くことになる。主人公は下駄で歩いている。当時の人たちはとんでもなく体力があった。

それにしても一番深い坑道では腰まで水に浸かって8時間も働く描写がある。。うーん、ちょっと考えられない。しかも掘り出した鉱石をどうやって水中から拾うのだろう。実は採鉱していたのではなく、排水溝を掘っていたのではないか。




・私はこの小説を文字で読んだのではなく、実はオーディブルで聴いた。読書よりオーディブルのほうが敷居が低い。サクサクと耳に入ってくるので取っ付き易かった。文字で読むと少しまだるっこしかったかもしれない。歯を磨きながら聴けるのもよい。

 

今のところ私は「青空 朗読」kumao.works(android用) という無料アプリを使っている。AIに読ませているので漢字の読み間違いが多いが、画面を見ていればそこまで気にならない。とにかく手軽に読み始められるので読書が進む。欠点は、すべてのe-bookに共通するが、読み返したい箇所にすぐに戻れないことである。

 

「坑夫」は素直に面白い。お薦めである。

雑感 書評「渋江抽斎」森鴎外 1916年刊 2025年5月8日

蒐集した多くの資料を駆使して事実に沿って書き上げた鴎外最初の長編歴史小説である。「興津弥五右衛門」「阿部一族」など史実をもとにした短編小説を経て、晩年に書いた長編歴史小説3部作のうちの最初の作品である。

 

内容は、江戸末期の津軽藩藩医儒学者でもあった渋江抽斎生前から死後迄の周囲の出来事を記す。

 

おおよそのあらすじは、

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B1%9F%E6%8A%BD%E6%96%8E_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)

 

鴎外の語りで物語は進む。できる限り感情表現を排して、事実で構成して物語を進める。ルポルタージュの手法である。出来事とその日付を羅列する。出来事とは、出産、結婚、離婚、疾病、死去、弟子入り、就職、昇進、退職、引越しなどである。この羅列を抽斎周辺の人々にも同様に適用する。結果重層的に物語が立ち上がってくる。

 

このように物語に臨場感を与えて鴎外は何を表現したかったのか。もしくは資料を蒐集した時、鴎外は何に目を奪われたのか。それは瞠目すべき人物の存在だったと思う。幕末に実在した心揺さぶる立派な人達の存在だったと思う。抽斎然り、その妻五百然り。

特に五百は、本当にこんな人物が実在し得たのか、と思うほどの傑物である。鴎外は本作を書き進めながら、抽斎を心から羨ましく思ったであろう。抽斎の中に自分を見ていただろうから、尚更である。

 

これらの立派な人々、立派な行為を大正時代に生きる人々に鴎外は示したかったのだと思う。この志向は鴎外の作品に一貫して流れている。

 

鴎外は多くの表現者と同じく自分の感動したことを表現しようとした。漱石は内面を掘り進み、その悩んだことを具象化して表現しようとした。その意味で両者は大きく異なる。



追記

 

・所属階級に依るのかも知れないが、結婚破棄、再婚、独身のまま、など離婚後の様態が多様である。離婚した娘が実家に戻ってそのまま高齢化している。また養子に出したり、出した養子を引き戻したりと、家への付け替えが頻繁である。吉原で遊ぶことが生活の一部のようでもある。私が思っているよりも少なくとも江戸末期は人間関係が自由、かつ多様であったようだ。

 

・後半の多くは、資料からではなく、息子の保の話に頼っている。つまり保の主観的な記憶が事実として記述されている。その中には、保が母の五百から聞いた抽斎の話が含まれる。

一般に、書かれた内容(資料)のほうが話された内容よりもより事実であると高く評価されるが、実は差がない。

直接の体験者の話が最も事実に近いだろう。その人が書いた体験記が最も事実に近い資料になる。しかし多くの資料は体験記ではない。体験者からの聞き書きか、更には体験者から話を聞いた人からの聞き書きである。

保がする抽斎の話は間に母一人が入っているだけである。もし保自身が書き下せば十分に資料的価値を持つ。であるなら、鴎外が保から聞いて書いても価値は変わらないだろう。

雑感 評論「武蔵野」国木田独歩1898年刊 2025年5月2日

心象風景それ自体を対象にして描写された日本最初の文学作品ということを知ったので読んでみた。簡単に言うと初めて内面が書かれた作品のことである。

 

ただただ武蔵野の美しい風景を作者の感じたままに書き連ねているのである。今日から見ると、盛り上がりもなく、序章だけで終わってしまったような作品である。歴史的価値はあるが、観賞する価値はなさそうである。

感じたままに、とは、古典からの引用なしに、ということである。江戸時代までの知識人にとって、教養とは古典を熟知していることであった。和歌や紀行文を書くとき、古典からの引用をいかに言いたいことにひきつけて表現できるかが大切であった。ある単語、ある表現は、それが使われた過去の作品のイメージを想起させるので、そのイメージを利用して簡潔に表現できた。短い言葉の中に複数のイメージを添付できた。つまり古典を知らなければ、表現された意味をくみ取れなかった。

 

独歩の「武蔵野」はそんな知識は一切不要である。日本語が分かれば作者の意図が理解できる。

 

別の見方をすれば、有閑階級にしか獲得できなかった古典知識、それ無しでも作品が読め、作品を書けるようになった。そういう意味でも明治時代は四民平等になったのだと思う。時代の流れに叶っていた。二葉亭四迷が口火を切った言文一致もそれを加速した。

 

内面について、または外界の現象に対する接し方

 

現象の対して

1 印象でとらえる。「それはどんな感じか」

2 観察する。事実を見る。「それは何か」 科学の前提

3 因果を考察する。「それは何故か」  科学の始まり

 

1の「印象でとらえる」、は更に2つに分けられる。

 1)独自に価値づける。ロマン主義印象主義

 2)世間の価値を借りて表現する。短歌、世俗的表現

 

独歩の「武蔵野」は、無教養だと思われていた「独自の表現」を価値のあるものだとして初めて社会に提出したのである。それはヨーロッパの権威を借りて可能だった。

以後多くの表現者が独創性を競うことを可能にした。

 

雑感 森鴎外の短編小説 2025年5月2日

鴎外の作品をいくつか読んだ。「興津弥五右衛門の遺書」1912年、「阿部一族」1913年、「山椒大夫」1915年、「最後の一句」1915年、「高瀬舟」1916年、「寒山拾得」1916年である。

これら作品に共通するのは、読後に明白な感情が実感されることである。その感情は誰でも同じ種類のものだろうと思う。具体的にいうと、作品を読むと道徳感情が刺激される。つまり教育的内容なのである。

なぜ鴎外が道徳を目的としたのか。当時は、数百年続いた江戸時代の封建的価値が急激に崩れた時代であった。それは道徳観の変化をもたらした。変化は乱れとして意識される。それが鴎外の心を刺激したのかも知れない。

しかしまた別の見方もできる。人生に降りかかってきた避けようの無い不運に対して、精一杯生きようとする姿を描いているともいえる。必然に縛られた人生の中で苦しみながらも精一杯生きる姿である。こちらの解釈は鴎外のより多くの作品に適応できる。

鴎外は多くのことを達成したように見える。医師としても社会的地位を上りつめた。小説家、翻訳家としても社会に知られた。「三田文学」を創刊して多くの表現者と交流した。が、鴎外もただの人間である。全く別の自己評価があったのだろう。

 

付記

 

寒山拾得」について

 

天台宗国清寺の僧侶たちは、寒山と拾得とを見た目で判断して粗末に扱っていた。背が高く、トラに乗っていた豊干という僧から寒山と拾得が立派な聖人だということを聞かされた高官の閭は、みすぼらしい身なりをした彼らに会いに行き、丁寧な挨拶を述べた。そして鴎外は、敬う対象が正鵠を得ていても、その理由を知らなければ何にもならぬのである、と書いた。

 

寒山は寺の本尊に自分が供えた物を、本尊と差し向かいで食べているところを見つかり僧房の皿洗い役にさせれられた。洞窟に住んでいる拾得は、寒山が皿を洗う時に捨てる残飯を貰いに寺にやって来る。やつした聖人の身の先が何ともユーモラスである。それが、文殊菩薩普賢菩薩の化身だった。日本なら、乞食に身をやつしそうなところが、もっと卑近なイメージである。

 

それにしても、相手の正体を教えられ、正しくも仰々しく挨拶をしたにもかかわらず、理由を知らなければだめだ、とはどういうことだろう。普段の私たちの生活はこの程度で成り立っている。役職に付いている校長先生なのだからそのように接する。鴎外はそれではダメだと言っているのである。実際に内実の伴った校長かどうかを見極めて接しろと言う。その名に値するか確かめろ、と。鴎外に引き付けて考えると、将軍に任官されているからと言って敬うのではなく、まず内実を確認せよ。その名に値しなければ、敬う必要はない。かなり過激である。

 

鴎外はもともと沸々と湧いてくる怒りを抱えていた人のように見える。その怒りが大量の作品を書くエネルギーになったとも思える。本人にとっては不幸だが、社会にとっては幸いであった。

雑感 書評「山椒大夫」「最後の一句」森鴎外1915年刊 2025年5月2日

山椒大夫」は中世に成立した説教節という語り芸能の中のひとつ「さんせうだゆう」をもとにして書かれたもの。「最後の一句」は太田南畝(魯山人)が書いた随筆「一話一言」の中の一話をもとにして書かれた。どちらも実在の出来事である。もちろん鴎外の装飾が加わる。

 

山椒大夫」のあらすじは

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%A4%92%E5%A4%A7%E5%A4%AB#%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%9B%E3%81%86%E5%A4%AA%E5%A4%AB

 

「さんせうだゆう」は

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AF%BF%E3%81%A8%E5%8E%A8%E5%AD%90%E7%8E%8B%E4%B8%B8

 

主な改変は残虐さの除去である。読者の意識をそこから外して、鴎外の主題に目を向けさせたかったのだろう。

 

最後の一句」のあらすじは

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E4%B8%80%E5%8F%A5

 

物語自体を理解するのに役立つ解説は

 

https://booktimes.jp/saigonoikku/

 

 鴎外の書いたこれらの短編は読後に深い感慨を残す。心を引き付けるのに十分だと思う。両者に共通する特徴は、自分の命をなげうって他人を助けようとする意志の強い娘の存在である。乃木希典の殉死以来、鴎外がこだわってきた他者のための死が形を変えてここにもある。違いは主体が町人階級出身で、しかも女ということである。本作の死は少なくとも否定的には書かれていない。上司のためにする死はたぶん嫌悪感、危機感を持った鴎外だが、家族のような大切な人のためにする死を賭した行為は肯定的である。軍人や藩士天皇や藩主のために死ぬのは忠で、娘が父親のために死ぬのは孝だが、姉が弟の為に死ぬのはどちらでもない。敢えて言えば、義か。

最後の一句」にあるように、もともと原文にない、役人への娘の反抗的な最後の一句を書き加えているところからすると、死を覚悟した娘の強い意志が鴎外の主題だったと思う。

どちらの作品も娘が死を賭した目的を持ったときから佇まいが美しくなる。身近な軍人にもそういう人たちがいたのではないか、と思うし、鴎外自身そうありたいと願っていたのかも知れない。




追記

 

・「山椒大夫」の原本のさんせうだゆうとは、今の舞鶴市由良にあった平安時代の荘園の在地領主のことのようだ。領主が、人買いから人を買って拉致してこき使ったのである。その稼ぎを京都に住んでいる荘園の所有者である貴族が華美な生活の為に消費した。ロックもルソーも存在しない遥か以前、庇護を持たない人間は家畜のように扱われたのだ。

 

・上に挙げた「最後の一句」の解説では、恩赦があったので、娘の行動は父の減刑とは関りが無かった、と書いている。私の解釈では、娘の申し出があったので、沙汰伺いのため、死刑が延期になった。その期間に恩赦があったので、減刑になったのでは、と思う。少なくとも鴎外はそう解釈したはずである。でないと、この物語は意味をなさない。

雑感 書評「阿部一族」1913年刊 2025年4月28日

1912年の乃木希典の殉死に触発されて書かれた小説である。江戸時代の殉死の記録を小説の形で再現している。つまり記録に残る実在の人物達を描いた歴史小説である。もちろん登場人物の感情は鴎外の想像である。

 

あらすじ

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E4%B8%80%E6%97%8F

 

阿部一族」を読むと、悲惨だと素直に思う。愚昧な藩主がもたらした悲劇である。さて、藩士にとって藩主が愚昧かどうかは偶然による。であるならば、愚昧であることを前提に行動するのが適応的だろう。名藩主の跡取りが名藩主であるかは不明である。

 

阿部一族成敗に参加した藩士たちは、与えられた役割を真摯に果たした。つまり家に籠もった一族を皆殺しにした。選択の余地はなかっただろう。だとすれば、この悲劇の責任は、責任を問われることのない藩主に帰するしかない。つまり制度として欠陥がある。

 

この作品を読むと、江戸時代前期の殉死を取り巻く状況がよく分かる。恩を着た直参は殉死するのが当然なのだ。問題は、その境界にいる人たちである。殉死を申し出るか、出ないか迷いがある。申し出をしなくて周囲から命が惜しいと思われると一族の恥になる。子孫の冷遇にもつながりかねない。本人は申し出る必要を感じていなくても、周囲にどう思われるかを予想すれば、殉死を申し出たほうが、さっぱりとする。以上のような経緯をたどって境界線上の人たちも殉死をすることになる。本人も、一族も、藩主も望んでいない殉死である。

 

小説リテラシーのある現代の私たちは、歴史小説が事実と違うことを問題視する必要はない。小説は作者が主張したいことが都合よく書かれている読みものである。

 

乃木希典は陸軍大将である。森鴎外は当時陸軍中将相当であった。乃木は上位官であり、国民の英雄であった。乃木が殉死した時、肯定的評価が国民の大勢であった。もし鴎外が乃木の殉死に肯定的であったなら敢えて何も言う必要が無かった。何か表現したのなら、それは批判的な気持ちから発していると考えざるを得ない。そしてもちろん立場上批判はできない。ただ事実を淡々と描くしかない。それが「興津弥五右衛門の遺書」や「阿部一族」だと思う。

では鴎外の目的は何だったか。殉死をする乃木の覚悟や心構えを評価したかもしれないが、ヨーロッパ、ドイツにとても馴染んだ鴎外である。ヨーロッパでは人命重視のキリスト教が普及して以降、生贄も殉死も存在しない。殉死自体には違和感を持ったと思う。乃木希典殉死後すぐに「興津弥五右衛門の遺書」を書いたのは、実際の殉死はこのような痛ましいものだ、ということを多くの人に知らせることによって、殉死賞賛の大波に注意喚起したかった、また後を追うことを余儀なくされる行為軍人の殉死を思いとどまらせたかったのではないか、と思う。皇位継承順位のように、順番は思い描かれていただろう。

 

しかし現代の私たちが、鴎外が乃木の殉死をどう考えていたかを詮索しても実はあまり意味がない。

鴎外が生き生きと描写してくれた殉死前後の物語は、現代から見ると、数千年前の古代エジプト王国のファラオの葬儀を思い出させるし、その習慣に異様なものを感じるが、果たして自分がその中に埋め込まれたら、拒否できるのだろうか。境界の内側で殉死が避けられない場合はどうしようもないが、選択可能な境界線上にいたら、果たしてだんまりを決め込むことが出来るのか。

 

抗生物質が無く、もともと病気や怪我がもとで簡単に人が死んでいった、死が身近にあった時代ではあるが、当主だけでなく、妻や家族までが時間を措かずに死を受け入れることに驚く。まさに死と隣り合わせに生きていたのだろう。死ぬことさえ覚悟が決まってるにもかかわらず、周囲の目を気にして殉死を申し出る、と言うのはどういうことだろう。死さえ覚悟が出来ているのだから、自分が考えて、自分で決めて、自分で責任をとる覚悟も決まるのではないか。ここで問題になるのが連帯責任である。大切な家族、一族にまで責任が及ぶのである。これが、自分で決めたことを自分で責任をとる覚悟を鈍らせる最大の要因だと思う。周囲の目を気にする最大の要因だと思う。つまりこの場合、自己決定権を確立させない最大の原因は連帯責任である。

だとすると、それは現代の私たちと直接のかかわりのある問題になる。犯罪者の家族は犯罪者だろうか。犯罪者の家族は非難されて当たり前なのだろうか。誰かがルールを破ったら全員が丸坊主にしなければならないのだろうか。連帯責任は支配する側には都合が良いが、個人の自由を奪う。

 

追記

 

・「興津弥五右衛門の遺書」に書かれていたと思うが、

 

すべて功利の念をもって見れば世に尊きもの無し

 

という表現があった。経済学用語で言うと、交換価値と使用価値は別である、ということだ。例えて言うと、大切な人の形見を売っても高く売れないからと言って、自分にとって価値がないわけではない、ということである。こういう表現を見ると、学問の装いをとって難しい表現を使っているが、昔から知られていたことが色々あるんだなぁ、と思う。

 

・殉死は1683年の武家諸法度による2度目の禁止の布告が出て以降、ほぼ途絶した。禁止の主な理由は、優秀人材の喪失による藩政の停滞、殉死者達の大規模な葬儀と、遺族の扶養による支出増大の藩財政への悪影響などのようである。人命は問題ではなかったようだ。

 

・乃木の殉死は漱石の「こころ」にも引用されている。身近に感じる人の存在の自殺は無条件に衝撃を与える。その衝撃を和らげるためにその理由を考えたり、その人の気持ちを思い遣ったりと各人それぞれが独自のやり方でその衝撃と折り合いをつけようとする。小説への乃木の引用は、殉死に対して漱石が考え獲得したものを小説に応用したのだろう。軍人である鴎外が小説にしたのとは決定的に書く動機が違うと思う。鴎外は我がこととして受け取り、我がこととして書いた。

 

・「興津...」以降、鴎外は歴史小説を晩年まで断続的に書き続ける。何故ストーリーの自由に展開できる現代小説ではなく、展開の外形が決められている歴史小説を好んだのか。それは歴史的に実在した人物であるが故により強く臨場感をもって鴎外が共感できたから、そして読者も共感できると考えたからだと思う。歴史資料を読み込んで強く共感した時、それを小説の形で表現したいと思ったのだろう。ある時代、ある家庭環境の制約の下で一生懸命に生きた人物に共感したのだと思う。もちろん自分を重ね合わせてである。つまり歴史の中に自分を見つけ出して無意識に慰撫していた、のだと思う。

もう一つの理由は、舞台を現代から離すと、舞台に馴染みがないゆえに表現した情報に付随する雑多な情報が読者から剥脱するからだと思う。つまり書かれたものがかなり純粋な形で読者の中で映像化される、と思ったのではないか。時代ものを読むとき、読者は“居住まいを正し”て読書に取り掛かると思う。

雑感 書評「浮雲」二葉亭四迷 1889年連載 2025年4月26日

初めて言文一致で書かれた、日本の近代小説始まりの作品である。著者は1864年生まれである。

 

あらすじ

 

公務員を解職された優柔不断な主人公の文三と上司にゴマを擦って昇進した軽薄でお調子者の同僚の昇、文三が居候している親戚で、向こうっ気の強い美人のお勢、その母で腹の座ったお政で物語は進んでいく。解職されるまでは仲の良かったお勢、機嫌のよかったお政が、解職後に手を返したように冷淡になり、お勢は昇と仲が良くなっていく。文三は、昇とお勢に翻弄されてお勢の本意が見通せず、あれこれと想像するが何も決定できずに事態を悪化させていく。

 

講談風と言うのだろうか、前半は書き手が一人語りしている文体である。後半も体言止めが多く、不自然に感じた。それぞれの人物は強調されたキャラクターで分かり易く、主人公文三の内面も上手く表現されている。

 

お勢のことを勤勉で理性的な女だと思っていた文三は、それが全くの勘違いだったのではないか、と物語後半に気が付く。文三の内面は大展開するのだが、一人で黙然と考えているうちに再び迷いが出てくる。で、希望的観測が幅を利かせて判断を先送りにしてしまう。

 

口八丁手八丁の昇との間でもすぐに反駁できない文三はやられっぱなしである。しっかり者のお政にも上司にご機嫌伺いもせず退職させられたことに小言を言われっぱなしである。四面楚歌なのだけれど、お勢への想いを諦めきれずズルズルと居候を続けている。

 

自信がないから自分の判断に自信を持てない、ともいえるし、視野狭窄に陥っていて、外側から見るとつまらない意地の張り合いだ、というのが分からない。

 

特定の人間関係に執着して事態を概観できない、という経験は誰にでもあるものである。その普遍的な経験を微に入り際に穿って表現したのが本作である。外から見ればつまらぬ意地の張り合いでも、当事者にとっては泥沼に足を取られて動けない、ということを四迷は表現したかったのだと思う。この内面表現によって、日本文学史に新しい記念を立てようとした。

 

四迷には日本で最初に口語で書かれた小説を書く、という決意があっただろう。で、選ばれた舞台はある家庭内で、表現の中心はある男の内面の嫉妬の詳細である。それは矮小な出来事で、普遍的経験ではあったが、今までの日本の文学では表現されてこなかったものである。ということを考えれば、日本文学にとって言文一致が大切なのではなく、個人の内面が細かく描写されたことが画期的だったのだと思う。この潮流は外国から取り入れられたものだが、日本側にもその必要性があった。GDP成長率が0.1%あたりの江戸時代から、身分社会の崩壊、明治半ば以降の3%への経済環境の激変、植民地の危機を感じながらの西洋の思想、技術の強制的な導入は、日本人の自我を大きく揺すぶっただろう。その揺すぶられた内面を注視し、自覚する作業が必要だったのである。



追記

 

・日本最初の近代小説と言われている割には十分に楽しんで読める。ストーリーは単調だが、違和感なく読み進められる。とても素人が書いたとは思えない。江戸時代から続く文学の蓄積が十分にあったのだろう。二葉亭四迷1864年生まれで、鴎外より2歳若い。ウィキペディアによると、イワン・ゴンチャロフオブローモフ」を参考にしたようだが、当時翻訳が出ていないので、ロシア語の原典で読んだのだろう。作者は今の東京外国語大学ロシア語学科に入学している。少なくとも1860年代生まれの小説家はすべて高学歴である。そもそも庶民は小説を書こうという時間も無かったろうし、動機も持たなかっただろうが、初等教育を終えたくらいだと小説を書く技量が無かっただろう。当時は経済的だけでなく、知識の格差も圧倒的だったのだと思う。

 

・それまでの庶民が親しんだ読みものと言えば「滑稽本」や「御伽草子」などであった。滑稽本とは町人の日常生活をユーモアや風刺で表現したもので、例えば「東海道中膝栗毛」(1802年出版)。御伽草子とは子供にも読み聞かせる教訓的なお話だった。系譜から言えば「南総里見八犬伝」(1814年連載開始)がそれにあたると思う。また瞬間の心の動きを表現する和歌や俳句も小説の心理描写に寄与しただろう。これらの蓄積があったから、ヨーロッパの内面を重視した小説を短期で模倣できたのだと思う。

雑感 書評「雁」森鴎外1911~1913年連載 2025年4月24日

鴎外は1862年生まれ、漱石は1867年生まれで、同じ世代である。1868年の明治維新の時、6歳位なので、江戸時代の空気を吸っている。

1907年に軍医の最高階級である陸軍軍医総監(中将相当)に任命される。軍人と小説家、翻訳家の二つの人生を生きた。

 

作品の内容

 

学生である私と友人で美男子の岡田、学生寮で下男として働き、高利貸しもする末造、その妾のお玉が物語を進める。

岡田を想うお玉だが、偶然が重なって想いを告げられずに終わってしまう。

 

短いあらすじ

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%81_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)

 

この話の中心は以下である。

たまたま釘一本が抜けただけの台車が実際使うと非常な苦労をした、という引用がまずある。次に私の下宿のその日の夕食がたまたまサバの味噌煮だったので食べる気がせず、隣室の岡田を誘って外出する。夕方一人で外出するつもりだった岡田は私の誘いに乗り一緒に外出することにする。二人で散歩をしていると、上野の池之端でたまたま学友の石原がいて、池の雁に向かって石を投げろと言う。岡田が何気なく石を投げると、本当に当たって死んでしまう。鴨鍋にしようと石原が池に入って持ってくると、岡田の服の下に隠して石原の下宿に戻ることになった。岡田のいつもの散歩コース、それはお玉の家の前を通るのだが、そしてその日お玉は岡田に想いを伝えようと家の前で待っていたのだが、岡田一人ではなかったので何も言えずに終わってしまう。翌日、岡田はドイツ留学のため下宿を出た。

 

偶然の重なりで人生は進んでいく、と言うのが主題である。それを浪漫派的な恋の詩情で表現し。

 

もし岡田の留学がなくて、もしあの日岡田が一人で散歩をして、お玉が想いを伝えられたならどうなっていたのだろう。仲良くなったかもしれないし、岡田が避けて疎遠になったかもしれない。しかし精神的に追い詰められていたお玉は告げること自体が大切だったのだと思う。しかしこれは鴎外の関心外だったろう。

 

偶然の重なりで人生は進む、という本作の主題を敷衍すれば、

外界の出来事は私の力の範囲外である。つまり偶然に任せるしかない。では私の内面は、と言うと、外界の出来事との接触によって経験は積み重なっていく。経験は判断の基準になる。つまり内面の判断でさえ偶然が大きく影響する。そして遺伝的要素はもちろん私の選択の範囲外である。つまり人生のほとんどは偶然に左右されていることになる。しかし自分の人生が偶然の集積である、ということを受け入れるのは自分の努力、存在を否定するように感じる。故に自己選択の結果、今があると思いたい。そして選択の結果、望まざる事態に遭遇した時、それを運命(必然)として受け入れようとする。人は状況を都合よく解釈する生き物であるが、そもそも人生は偶然の積み重なりなのである。

それはお玉の告白の成就も、岡田の洋行の有無も、私の大学入学の可否も同じである。



追記

 

・この作品が書かれたとき、漱石の前期三部作「三四郎」「それから」「門」は既に書かれており、当然鴎外は既読していたと思われる。対抗意識があったと思う。本作「雁」は漱石に比べると情景が浮かび上がってくる力が弱く、ストーリーも重層さがないと思う。

 

・お玉の父親は飴を売る飴職人だったが、母親はおらず、貧しかった。老いた父親のことを思って妾になることをお玉は決める。近所に父親の住む家を用意してもらい、生活費も出させた。

しかしお玉が中年になって愛想を尽かされたら、また末造が死んだらどうなるのだろう。妾は法的に何の保護もされていない。世間の目があるから末造もあまり無責任なこともできないかも知れないが、基本、末造の温情が終われば、あとは何も期待できない。産んだ子供が末造に認知されれば、子に相続権が発生するが、そうでなければ子供の稼ぎか自分の稼ぎで生きていかなければならない。調べてみると、一般には再婚するか、無理なら家事使用人、宿屋の女中、芸者など、不安定な後半生を生きたようだ。現代ならスキルの無い一人暮らしの中年女性が働いて自活するのは珍しくないが、健康保険もなく、年金もなく、生活保護もなく、女性の社会進出もほとんどなかった時代に一人で暮らしていくのは大変だっただろう。悲惨だったと思う。妾の後半生がどんなものかは世間で知られていただろう。にもかかわらず妾になる人たちがいた。

 

妾は1882年(明治15年)までは特別何の権利も与えられてはいなかったが、戸籍にも記載されていたようである。広く普及した公認の習慣だったようだ。

社会保障制度が未整備だった時代ゆえのセーフティーネットの役割の一部を果たしていたともいえる。

 

鴎外自身、妾がいて寵愛したようである。鴎外は2度結婚しているが、どちらも家格を上げるための家同士の、もしくは上司からの断れない結婚のように見える。当時のほぼすべての結婚がそうであったように、好きになってから結婚したのではない。一緒に暮らすうちに好きになるということも多かったであろうが、そうでなかったことも多かっただろう。家のための結婚とは別に、自分のための恋愛があっても不思議ではない。それが鴎外の場合は妾を持つことに当たるのかも知れない。

 

・鴎外については、利己的な私たちと同じように、ただの人間であったとする諸々の評伝があるが、今を生きる私たちにとって大切なのはそこではないだろう。