imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

書評「行人」夏目漱石1914年 2025年1月19日

漱石後期3部作の一つで、主人公である次郎、の兄一郎の苦悩のお話である。

あらすじは省略する。

 

漱石の主題

 

物語後半の主題は明らかだと思う。

両親が属する江戸時代からの価値観が当たり前だった時代に、西洋からの新しい考え方、科学が流入してきた。知識階級に属していた一郎は、新しい知識の一つ一つを自分の頭で考え、突き詰めて、今までの考えと折り合いをつけていった。結果周囲とは異なった独自の価値観を持つにいたる。それが孤独感をもたらし、生きるのが苦しく感じてしまう。かといって自立した人格を求める一郎は妥協することが出来ない。

つまり自分の頭で考え、かつ自立することの難しさを表現していると思う。考え、自立する人は、孤独に耐えなければならない、という主題である。

 

では物語前半の次郎への、自分の嫁の浮気心を疑う一郎や、女中の嫁入りの斡旋は何が言いたいのだろうか。後半と共有する主題を敢えて上げれば、自分の頭で考え、自立しようと心掛けている一郎でさえも、身近な出来事に執着的に翻弄されるのだ、ということだろうか。

 

しかしもしそうなら、私だったら、前半と後半を分けずに、後半部分の中に、前半部分をバラバラにして挿入すると思う。

 

可能性の高い解釈は以下のようであると思う。

 

前半の一郎の執着的言動は、次郎からすると非常に不可解で不愉快なものであったが、後半を読んだことによって、曖昧な状態を許さず、何事も明晰に裁断しなければ気の済まない知識人として兄の当然の帰結であった、ということが分かるようになっている。

 

漱石の主題に対する私の感想

 

漱石の時代は、西欧列強と伍するためには何よりもまず新しい知識を取り入れ、そして個人が自立することが大切であった。そのような個人は、家庭に於いても曖昧さを許さず上記のような態度をとらなければならない、と考えたのだと思う。そのことによってたとえ家庭が不和になっても、それが知識人に課された義務だと考えたのだ。

 

しかし現代から見ると、学問に対する厳格で厳密な態度で、家庭生活を送る人はむしろ非典型だろう。学問に対する態度で家庭生活を送らなくても十分に学問を追求できる。

 

しかしこれは今から見れば、の話であって、漱石の時代は、知識人であることは日常生活を犠牲にする覚悟が必要だったのだと思う。気高い覚悟だと思う。

 

追記

 

・病院には私設看護婦、一昔前の家政婦がいて、それぞれの患者に一人ついていたようだ。それはつまりかなりお金持ちじゃないと入院できなかったということだろう。つい30年ほど前までは、完全看護体制、と制度で保証しておきながら、実態は看護師不足で、家政婦をつけないと満足な入院生活が送れなかった。

 

・宿の下女に郵便の投函や、列車の切符を駅に買わせに走らせている。チップは渡したのだろうか。下女の仕事にはそれも含まれていた、と言えばそれまでだが、上層と下層の仕事が厳格に分かれている印象を受ける。

 

・次郎の家には貞という下女がいて、10年ほど住み込んでいる。結婚することになっているので、二十歳前後だろうか。だとすると10歳の時から親元を離れて他所の家で住んでいることになる。貧しい親族なのだろうか、それとも同郷の貧しい知人なのだろうか。1910年代にはこういうことは特に珍しくもなかったのだろう。

1990年ごろネパールのカトマンズの軽食屋には小僧が住み込みで普通に働いていた。客が使う椅子の上で寝ていた。山から来た、と言っていた。食い扶持を減らすために親が子供を町へ送り出すのだ。

子供が見知らぬ家で一人で寝るのはどんな気持ちだったろう。

雑感 書評「ナイロビの蜂」ジョン・ル・カレ2001年 2025年1月17日

スパイものを得意とするイギリスの小説家で、晩年の作品に当たる。1930年生まれ、2020年没。

1963年から1977年の間にスマイリー3部作と呼ばれる有名なスパイ小説を書いた。

国家の為の冷徹なスパイの役割と、倫理や感情を持つ生活者との葛藤を描いてきた著者が晩年どの様な境地に達したのだろうか。

 

あらすじ

 

ケニアイギリス大使館職員のジャスティンの妻は製薬会社の治験データの過小評価や、アフリカの難民を使っての人体実験を批判し続け、ケニアトゥルカナ湖で殺害される。腐敗した地元警察も、ケニア政府も、そして2国間の友好を重視し、多くの巨大製薬会社の治験結果の前提を崩しかねない治験批判に同意できないイギリス政府、具体的にはジャスティンの所属する外務省と、妻の死亡の調査に関わるロンドン警視庁、そしてもちろん巨大製薬会社とアフリカの製薬販売会社も全て敵である。妻が残した資料を奪って処分しようとする。その中で僅かな仲間を頼りに、妻が辿り着いた事実を復元し公表していく。

 

感想

 

今回の主人公ジャスティンは、ケニアイギリス大使館の職員ではあるがスパイではない。そしてジャスティンの敵は巨大である。仲間はほぼ誰もいない。

つまりクライマックスに、実は仲間は2重スパイだった、という大どんでん返しがない。全員が敵だからそのようなプロットを作れない。故に盛り上がりもない。

 

著者の初期の作品では、冷戦時代の2大陣営が息詰まるスパイ戦をお互いに仕掛け、国家の論理と生活者の感情との中でスパイが苦しむ、という設定が多かったが、本作では、グローバル企業が政府をも抱き込んで、弱者を犠牲にしてさえも利益を得ようとする姿勢を前提にして、超人的な力など持たないただのイギリス人が妻の復讐ではなく、妻の遺志を達成する為にすべてを賭ける姿を描く。ここには矛盾に板挟みになって苦悩する人間の姿は描かれていない。私には、告発もののように読める。




追記

 

・原題は「The Constant Gardener」で、妻が、製薬会社のデータ捏造やアフリカの難民を使っての人体実験を批判し続け、ついに殺される時まで、われ関せずとジャスティンは庭の花いじりを最大の趣味としていたところから来る。また邦訳では書かれていないが、wikipediaによると、妻はアムネスティ インターナショナルの関係者の設定のようだ。

 

・著者はあとがきで、実際のケニアイギリス大使館が作品のような態度をとった事実はない、と断りながら、製薬会社の実態はこの作品の描写では全く追いつかない、と書き残している。

 

・作品中の「高等弁務官」(High Commissioner)とは、イギリス連邦内(少しずつ脱退国が出始めているが、かつてのイギリスの植民地の、イギリスを含めた連合体 the Common Wealth of Countries)での大使の呼び名である。例えば在ケニアのイギリス大使を指す。また高等弁務事務所(High Commission)とは大使館のことである。

 

・著者は実際にケニアの僻地に滞在して取材したはずである。具体的な風景が描かれていて、それが臨場感を上げる。途上国への旅行が好きなのだろう。小説家の篠田節子を思い出させる。

 

・邦訳は文中での句の並びに難があって少し読みづらい。

雑感 映画評「サンクチュアリ 聖域』2023年ネットフリックス公開 2025年1月15日

聖域とは土俵のことである。相撲部屋に入門した型破りな新人の猿桜が成長していくお話である。

強さも弱さも含めた猿桜の本気が周囲の人々に感染していく。お互いぞんざいな言葉を使っていても、繋がった感が生まれていく。

型破りな主人公のテーマは多くの場合これである。本作の制作者の主題もここにあると思う。

 

私がしみじみと心動いたのは、以下である。

ドラマの最後に猿桜とライバルの静内が本場所で対戦するとき、それぞれの過去が瞬間流される。

そうなのである。どちらもそこに至る一生懸命な選択の連続の物語がある。一生懸命に生きた結果としての今があり、それを前提にして向かい合っている。

お楽しみという前提で、どちらかを応援するのはよいが、本気で贔屓を勝たせるために、対戦相手の怪我や病気や家庭の不幸を願うのはあまりにもおバカさんだと思う。

 

追記

 

・猿桜の先輩への話し方、女性記者の上司への話し方は、日本人なら誇張されているとすぐに分かるが、外国人が見るとリアルか誇張か判断しにくいだろう。先日「ライ麦畑で捕まえて」を読んだときも16歳の主人公がニューヨークのホテルに一人で宿泊したり、バーに入って女性客に酒をおごろうとする描写があるが、これがリアルのか誇張なのか判断に迷った。

 

・日本人には角界の内実も、力士の日常生活もおおよその想像がつくが、外国人にはお尻を出した裸の男達の本場所での取り組みこそ動画でおなじみになってきているが、それ以外の部分はベールに包まれているだろう。この作品は相撲の世界を紹介する良い作品になっていると思う。

イスラム教では、男も乳首を公共の場で出してはいけない。故に世俗国家は別にして、公共電波で相撲は放映出来ない。

エッセイ 雑感 他国への武力行使が容易になった 2025年1月11日

アメリカとロシア(かつてのソ連)は超大国として20世紀半ば以降、他国への武力行使が公然と認められていた。アメリカのパナマアフガニスタンイラク然り、ソ連アフガニスタン、そしてロシアになってからの、かつてのソ連邦内のジョージアウクライナ然り。

 

それ以外の国でも超法規としての諜報戦は非人道的に行われていただろうが、公然と他国に武力行使することは国境紛争を除いてほとんどなかった。

 

今回、ロシアがウクライナに侵攻して武力行使のハードルが少し下がったことを利用して、イスラエルがガザ侵攻だけでなく、レバノンやシリアに空爆・侵攻をしただけでなく、イエメンを空爆をしている。

 

イスラエルにも理由がある。ロケット弾やドローン攻撃をされたから、自衛のために基地を攻撃した。これは目に見える力の行使である。

 

国連での合意に違反して、イスラエルパレスチナに武力を背景にして入植すること自体がアラブの恨みを買う行為だが、目に見えない力の行使、つまり諜報戦でもイスラエルは圧倒的に優位である。ポケベル爆弾によるヒズボラ幹部の壊滅、イランの軍幹部や核開発技術者の暗殺。故に財力と科学技術を背景にした非人道的な諜報戦でもアラブの恨みを買っている。

 

アラブ諸国が核を持たない限り、この圧倒的な差は埋まらない。イスラエルは自国に優位に国際関係、軍事、諜報戦を進め、アラブは恨みを募らせ続けている。イスラエルへのテロはアラブの中で正当化され続ける。そしてテロが起これば、イスラエルはそれを口実にして他国を攻撃する。

 

イスラエルは建国以来、建国の事情によって近隣諸国を武力攻撃してきた。しかし今回のイスラエルがガザでやっていることは民間人の大量虐殺である。ネタニヤフが本当にこれを支持しているかは不明だが、イスラエル国内も御多分に漏れず格差が拡大して、貧困層が右傾化している。彼らを取り込まなければ政権を維持できない。

 

つまり基本の構造は以下である。

1 格差の拡大。

1) グローバル化によって製造業が途上国に移転し、先進国の製造業が空洞化して工場労働者が減少した。そして移転先の途上国では中間層が増大した。つまりそれぞれの側で格差が拡大した。

2) AIの隆盛に見られるようにハイテク産業、知的産業によって、富裕層が増大し、より富裕化して格差が拡大した。

 

2 相対的な貧困を意識した層が、不満を募らせ、鬱憤晴らしとして排外主義化、右傾化している。

 

3 政治家は彼らを取り込んで多数派を形成しようとする。故に政策が右傾化する。

 

4 右傾化した国家が増える。

 

アメリカ、ロシア、イスラエルの他国への公然の武力行使が、他の国も含めて武力行使の敷居を下げている。

 

以上4までは構造的問題なので解消しない。AIを使うのが誰か、ということを考えれば、AIも失業者を増やすことこそすれ、格差解消の役に立たない。

そこに武力行使の敷居が下がってしまったので、より公然とした他国への武力行使が増える可能性が高い。



追記

 

・シリアは大国の思惑によって支援された勢力が衝突して、今後も内戦が続く可能性がある。イスラエルとアラブは不安定化したままだろう。これらの国で武力行使がしやすくなる。

 

・中国、インド、パキスタンは核保有国なので、イスラエルとアラブのような大規模な武力衝突は起こらない。

 

武力行使が起これば起こるほど、負けた側の核兵器の渇望頻度は高くなる。故に核兵器は拡散圧力をかけられ続ける。10年か50年かは別にして、核兵器が拡散していくのは時間の問題である。拡散すればするほど核兵器の使用可能性は上昇する。

長い目で見ると、核兵器の使用は避けられないと思う。

 

・私が世界情勢に興味のある一つの理由は、外国旅行が好きだからである。私には行きたい国々がある。イエメンはとても行きたい国だったが、私が生きているうちには平和にならないだろうと絶望的に諦めている。ほかにもイラクとシリアには行ってみたい。が、ここも無理かもしれない。

世界を不安定化させる勢力に対して、自分の損得から来る強い怒りが私にはあるのだ。

「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(ライ麦畑でつかまえて)サリンジャー 1951年 村上春樹訳 雑感 2025年1月7日

書かれた時期は1940年代半ばである。が、戦争の話は出てこない。

 

主人公ホールデンは、世の中の全ての常識に反抗したくなる16歳である。全ての権威に盾つき、通らなければ自分が傷つかない言い訳を見つけて避けて通る。自分が非力なことを重々承知だが、批判・批評し、結果徐々に状況は悪くなっていく。若き頃、誰もが身に覚えのある経験であろう。

本書はこの脈絡のない惨めな出来事で埋め尽くされている。盛り上がりも、盛り下がりもない。

 

さて雑感

 

ホールデンが通っていたのはボーディングスクール(寄宿学校)で、お金持ちの子息が行く学校である。彼は18歳の生徒と同室である。驚くのはその対等なことである。日本だと先輩がのさばって、先輩が卒業するまで後輩は小さくなって過ごさなければならないだろう。そういうところが全くない。日本でボーディングスクールが流行らないのは、上下関係が無意味に強いからだろう。エマニュエル・トッド氏によると、アングロサクソンは兄弟間が対等らしいので、その影響を受けているのかも知れない。

 

・16歳のホールデンはニューヨークで一人でホテルに泊まり、タクシーに乗って移動し、バーで酒を飲む。バーでは、遠くに座っている女性客にバーテンダーを通して酒をおごろうと声をかける。本書は数字にはコメディー的な誇張が多いが、それ以外は正確な描写だと思う。だとするとこれは日本とはかけ離れた文化だと思う。

 

軽妙な訳文は村上春樹氏によるもので、楽しく読める。

書評「こころ」夏目漱石1914年 2025年1月7日

非常に有名な作品で、漱石後期3部作の一つである。

 

あらすじは省略する。主な登場人物は、学生である私と、私が湘南で出会った先生、その親友であるK、先生の下宿先の主である未亡人と、同居するその娘(のちの先生の妻)の5人だ。

 

前半は私がストーリーテラーで、私の心理が描写される。先生はどこか理解できないところがあるが、人格者として描かれる。

 

後半は先生からの手紙の掲載という形をとり、先生がストーリーテラー、先生の心理が描写される。自分(先生)は価値のない人間として描かれる。

 

◎Kの自殺の理由

1 恋敵である先生に娘への恋心を打ち合あけた間抜けな自分に対して。

2 先生を恋敵と承知の上で機先を制するつもりで打ち明けたが、破れてしまった。そんな情けない手段をとってしまった自分に対して。

3 騙した先生への当てつけに。

4 己を抑制して理性的に生きようとしたにも拘らず、恋情に流された情けない自分に対して。

 

私の見立て

2については、Kが先生に緊張した面持ちで告白したことを考えると、かつ駆け引きを嫌うKの性格から推測すると、可能性は低い。

3については、もし騙した先生への当てつけの自殺なら、先生を困らせる遺書を書いてもよかったし、自殺場所も先生の部屋にしてもよかった。故に、この可能性も低い。

4については、理性を重んじ、それに対して誠実に生きようとするKの性格に最も合致する。だとしたら先生の裏切りが無くてもKは自殺したかもしれない。

 

◎先生の自殺の理由

1 娘が欲しいばかりに、Kを騙して自殺に追い込んだ。そんな利己な自分に対して。

2 Kの自殺の真相を妻(かつての下宿の娘)に話して自分(先生)が悪く思われたくないが故に告げられなかった。そんな利己な自分に対して。

3 Kの自殺の真相を話して、妻の人生を汚したくなかった。しかしKを騙した卑怯な自分のまま生きるのも苦しかった。

 

私の見立て

3については、妻の人生を汚したくなかった、と言うのは、真相を話して自分が悪く思われるのを避けるための言い訳であろう。ここに来てもまだ利己に振る舞っているように見える。少し考えれば明らかだが、妻からすれば、身近な人が2人も自殺して、その理由が分からなければ、今後、妻がどれだけ悩み、自分を責め、傷つくか分からない。それはもっとも避けるべきことだろう。

手紙の中で、先生が私に、今後も決して妻に真相を言わないように、と口止めしていることから、死してなお妻を傷つけても、自分は悪く思われたくないようである。

 

◎2つの自殺から

読んでいるときは、2つの自殺は相似形なのか、と思っていた。どちらも自分の信じる価値を全うできなかった、つまり理性的に生きようとして、情緒に流されてしまったことによる自殺であると思った。しかしそれぞれの自殺を考えてみると、Kはそれに合致するが、先生は、良く解釈しても利己に振る舞った自分に対する嫌悪からだろう。

 

しかし2人に共通の部分もある。それは自分に誠実に生きようとして苦しんだことである。Kは言うまでもないが、先生も利己ではあったが、そのことに向き合い、苦しんだのである。誠実に向き合った結果、苦しみ続け、自殺を選んだ。利己と誠実さがせめぎ合っていたのである。

 

漱石が言いたかったこと

妻に真相を話さずに先生が自殺することが、妻にとって良いと漱石が思っていた可能性がある。現代とは道徳観も習慣も違うので、当時はこんな真相を女に話さないことが良しとされたのかも知れない。もしくは残された妻が苦しむとは、漱石はただ思い及ばなかっただけなのかもしれない。

もし妻に話さないことをよしとするなら、先生の利己行為はKに対してだけであり、Kの死後はそのことに向き合い、理性的に生きれなかった自分に対して、苦しみ続けたことになる。

結果、その部分では先生とKの死が相似形になる。

それは小説としてすっきりした形になるので、漱石がそのように布石した可能性があると思う。

 

漱石は伝統的、封建的社会と近代社会のはざまを生きた人である。西欧社会に触れて、前近代的な日本社会を意識した人である。ということを考えれば、漱石の意図は以下のようになると思う。

 

先生もKも、あれこれに翻弄されたが、自分の価値に忠実であろうと努力し、苦しんだ。個と言うものがほとんど確立していなかった当時の日本で、個人として生きることが、いかに苦しく、そして凄惨なことに成り得るか、その覚悟の必要性をこの作品で表現しようとしたのだと思う。

 

◎私が受け取ったこと

利己に流れてしまう自分とあるべき自分とのせめぎ合いは相変わらず現代でも日常的に存在する。小は、満員電車の中での自分のふるまいから、大は、他国での戦争が自分の懐を温めるなどの、人の死に関わることまで。

快を追求してしまう人間は、どれだけ自分の価値に誠実に生きていけるか、という命題に、常に試されることになると思う。

 

余談

 

・明治の学生は特権階級であったようだ。実家からの仕送りで下宿し、上げ膳据え膳で洗濯もしてもらえた。まだ階級意識が強かっただろうから、庄屋などが武士の地位を引き継いだのだろう。だとしたら若造であっても、反発なく世間に受け入れられたのかも知れない。

また房総半島へあてどなく旅行もしている。江戸時代も富裕な町人は旅行をしただろうが、彼らは働いている大人か引退した大人である。

 

・先生の下宿にも、私の実家にも女中がいた。女中は貧困層への生活扶助の役割があったろうが、現代の日本ではほぼ消滅した習慣である。家族の中に、知り合いからの紹介とはいえ他人が入るとどんな感じになるのか想像できない。小説を読むたびに不思議に思う。

 

・本筋とは関係のないところでの細かい描写は、当時の雰囲気、習慣を知らない私には興味深かったが、漱石は100年前の読者に向けて書いているのだから、そんな目的はなかっただろう。だとしたら冗長だと私は思う。当時は時間がもっとゆっくりと流れていて、雰囲気づくりの回り道を楽しみ、目的に直線に進むストーリーを求めてなかったのかも知れない。

「15時17分 パリ行き」クリントイーストウッド監督 2018年公開 2025年1月5日

しばらく家でゆっくりできそうなので、ネットフリックスを契約した。

 

幼馴染みの3人が成長して、それぞれに米軍に入隊し、軍の休暇を利用してのヨーロッパ旅行中のアムステルダム発パリ行きの特急列車に乗車した時、無差別殺人を決行しようとした一人の男を制圧するお話である。

 

以下は鑑賞中に感じたことである。

 

◎ 主人公らが中学生の時、軍事オタクっぽい教師が"正しい時に、正しい決断をすることが大切だ” と授業の終わりに言った。これが映画の主題につながっている。パラシュート兵志願の主人公の一人スペンサーは、肉体的理由で不本意にも不合格になり、やむなく看護兵として入隊する。しかしその結果、特急列車で負傷した乗客の命を救うこととなる。思ったようにならない人生の中で、「right time、 right decision」をしたのである。

right time にright decision をすることは難しいだろう。日頃から心の準備が出来ていることが大切だと思う。別言すれば、覚悟を決めて生きている必要があると思う。そしてスペンサーは覚悟が決まっていたのである。

 

◎ 母子家庭のスペンサーら2人は中学生の時、問題児でしばしば校長室に呼ばれた。ある時に校長が、障害があるから、と薬を勧めた。統計的に見ると、今後薬が必要になるだろう、と言って。

その時の母親の言葉はこうである。

 

私の神はあなたの統計より大きい

 

これに限らず母親は学校の、つまり世間の価値から子供を徹底的に守るのである。子供を信じているのである。文化が違う、と言えばそれまでだが、世間の価値から自分の子供を守れる親が日本にどれだけいるのだろう。その多くは、世間の目を気にして自分の価値を曲げるのである。

 

◎ 旅行中の3人の行動を見ると、日本人と違うな、と思う。英語が通じて当然、という意識があるからだろう、どこに行っても何の物怖じもなくやり取りしている。

またローマのバーでも、アムステルダムのクラブでも、行き慣れた場所のようにリラックスして楽しんでいる。高校生の時からこういう場所に出入りしているのだろう。

私が特別なのかも知れないが、あー、文化が違うんだなぁ、としみじみ思うのである。トルコの男たちが薄暗い部屋でシーシャを回し飲みしているのと同じ印象を持つのである。そこに行って自分が楽しめるとはとても思えない。

 

◎ スペンサーが入隊後の座学の時、非常警報が鳴って机の下に隠れるように教官から指示される。が、スペンサーは教室の入り口でボールペンをナイフのように構えて、闖入者に備えたのである。警報解除後に教官が、なぜ机の下に隠れなかったのか、と聞いた時、スペンサーの答えはこうである。

 

“机の下に隠れて死んだら、家族に顔向けができない"

 

自分の格率を持っているのである。社会の価値より自分の価値を優先させる。母親と同じである。これは私にスノーデンを思い出させる。

もちろん状況次第では厄介なことにもなろうが、私はこういう生き方に一目置く。

エッセイ ジョン・ル・カレのスパイ小説 2024年12月31日

佐藤優氏がジョン・ル・カレのスマイリー3部作を推していたので、読んでみた。

「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」1974年と、3部作ではないが「寒い国から帰ってきたスパイ」1963年

著者はMI5 (国内対象の諜報活動部門)とMI6 (国外対象の諜報活動部門)での勤務経験がある。

 

著者の作品の特徴は、仕事としてのスパイと、日常を生きる生活者との間の主人公の中での混沌を描写していることだと思うが、ジェームズボンドのようなスーパーマンが実在不可能なことを考えれば、それがスパイの現実だと思う。

別の言葉で言えば、生活世界とシステムのせめぎ合い、関係を重視することと目的合理性を重視することのせめぎ合いである。



さて、

 

私が上記の小説を読んで気付いたのは、こんなところにパワーポリティックスの最前線があったのか、ということである。

 

諜報活動は超法規(違法)の活動である。別の言い方をすれば、犯罪を常套手段にする。偽造パスポートを使い、盗聴を仕掛け、最後の手段として都合の悪い人間を殺す。現代なら個人や国家の通信を傍受・閲覧する。情報を書き換えもするだろう。

本国から来た諜報職員が生き延びるためには、現地採用の従事者、情報提供者を見殺しにもする。

敵国の諜報従事者との関係もあるので、互恵、つまりしてはいけないルールと言うものはあるはずだ。なのでやりたい放題ではないだろう。

にもかかわらず、それぞれの国の国力(経済力、人材資源)の差、技術力の差は諜報活動に圧倒的な差をつける。弱い国はやられっぱなしであろう。

 

イスラエルは外国であるイラク、イラン、シリアでハマス、イランの指導層を暗殺しているが、諜報活動でも同じこと、つまり国際社会から非難されない範囲で最大限の犯罪行為を行っているだろう。もしくは明るみに出ないという確信があれば、スパイ活動で互恵関係のない国に対しては何でもありの可能性がある。

イスラエルパレスチナ国際法に違反して占領・入植したり、レバノンやシリアを空爆・侵入することが、目に見えるパワーポリティックスの結果だとしたら、そこに至るまでの目に見えないパワーポリティックスの活動が諜報活動である。

小説「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」で言えば、チェコで見殺しにされた、イギリスへの情報提供者として寝返らされたチェコ職員である。彼らの死はパワーポリティックス遂行途上で起こった負の出来事である。それはイギリスの諜報活動の汚点として記憶されたとしても、内部通報者の育成を廃止する方向には向かわない。

国家間の利害が衝突したとき、国際警察は存在せず、力の強い国の主張が通るのなら、できる限りのことをして強い国にならなければならないからである。

国家の為に、国民の為に、少数の個人が犠牲になるのはやむを得ないのである。これがパワーポリティックスの現実の姿だと思う。

 

そんなことを考えながらこの小説を読んだ。

 

追記

 

「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」で、イギリス諜報部門内にソ連のスパイの存在が最後に特定されたとき、ソ連に収監されているイギリスのスパイとの交換要員としてそのスパイをソ連に放出することになるが、それは論理的に変だと思う。

そのスパイがソ連に行けば、イギリスの重要な情報を伝えた優秀な同志として優遇されるだろう。イギリス諜報部門の人がこれを見たら、スパイになるインセンティブを与えることになる。裏切ったことで得をするからである。

ソ連に内通したらこんな目に合う、という激烈な罰則が実際には適用されているはずである。殺されるとか、廃人にされるとか。

この小説では、東側は冷血な行動をとり、イギリスは冷血ではないように描かれているが、実際はどちらも同じくらい冷血だろう。片方が冷血で、もう片方が温情であれば、最後の最後の時に勝負にならないからである。

エッセイ 沈没 外国でひきこもる 2024年12月30日

イギリス人の書いた1970年代の小説を読んでいたら、マレーシアやラオスの話が出てきた。主人公たちはアジアを見下しているなぁ、と感じた。

私が初めて東南アジアを旅行したのは、1980年代後半である。開発独裁と呼べるような国があり、物価も安く、私も彼らを見下していたと思う。

 

その時、ふと思い出したのが、沈没という言葉であった。日本社会に馴染めず、物価の安い東南アジアに逃避して、何もせずに長期滞在することを、沈没する、と当時は表現した。多少の非難が含まれていた。この言葉は1990年代には市民権を得ていたと思う。

 

私は1980年代から90年代にかけてアジアをよく旅行していたので、しばしば彼らを見かけた。彼らも私もお金の節約のため、同じような安宿を利用したからである。彼らは例えばバンコクチェンマイで数人の仲良しグループを作って毎日お喋りをしていた。

 

当時は訪問国を出国さえすれば再入国時に簡単に観光ビザを取得できた。なので観光ビザ期限の3か月ごとに陸路で隣国に、例えばラオスに出国し、翌日タイに再入国して3か月ビザをとる、ということを繰り返して、年単位で気に入った国に滞在できたのである。

 

沈没を可能にしていたのは、物価の安さであった。実感で言うと、タイの場合で日本の5分の1程であった。タイでは5か月の生活費が日本の1ヶ月程度だったのである。日本での1ヶ月の引きこもりは、タイでの5か月の引きこもりと経済的に同等だったのである。経済合理性を考えれば、タイで沈没するのは不思議ではなかった。

ただ活力のより低かった引きこもりの人たちにとっては外国に行くこと自体が高い障壁になってはいたのだが。

 

グローバル化によって製造業が海外に移転して国内の仕事が減少し貧しくなっていった日本と、工場を誘致して仕事が増えて豊かになっていった東南アジアとの間に、かつてのような物価の格差は無くなっていった。平均的な日本人が外国で沈没できる時代は終わったのである。

2010年代後半に東南アジアを旅行したが、マスとして沈没している人たちを私は確認できなかった。

 

彼らからすれば、ざまを見ろ、という気分だろう。ただ生まれた国が違うだけで、かたや若造が昼間から働きもせずに、高級な店に入り浸っていた。金を持っているので娘も近寄った。

かたや汚れた服を着て毎日働いていたのだ。

 

かつて沈没していた人たちは今どうしているのだろう。

 

日本は経済的に没落していったが、欧米諸国は苦しみながらも相変わらず成長を続けており、国を選ばなければ沈没することが今でも可能だろう。

欧米人にとっては、東南アジアは相変らず物価の安い、滞在しやすい国である。沈没とは違うが、例えばマレーシアは、アメリカの年金生活者の外国移住先の最上位に常にランクされている。

 

そんなことを小説本を伏せて、腕を組みながら回想した。

自分も得をするから まあいいか 覇権国と周辺国 2024年12月13日

覇権国とは同盟国に対して経済や文化といったソフトパワーで支配する国のことである。アメリカは間違いなく覇権国であろう。そして同盟国の外に対しては武力で現状を変更するという帝国としての性格も持ち合わせている。

 

アメリカは民主主義国家である。しかしその民主主義は国内に対してしか働かない。

例えばアメリカは他国を空爆して要人を殺害するが、被害国がアメリカのその政策を変更させることはできない。他国には参政権がないからである。

 

だとしても アメリカは民主主義国家である。“民主主義を世界に広める”とも言っている。“民主主義の擁護者だ”とも言っていた。その“民主主義”は他国を都合よく扱っていいということを含んでいないだろう。

 

 

アメリカ人 一人一人はそのことをどう思っているのだろう。

互恵性は民主政の市民感覚の前提の1つだと思うが、互恵性を前提にすれば、他国がアメリカの要人をアメリカで空爆で殺害することを認めるということになる。

もちろんそんなことをアメリカ人は認めないだろう。

 

 

これはどう考えれば 辻褄が合うのだろう。

 

自分も得をするから まあいいか、と“小さな”不条理を見逃すのだ、と私は思う。

 

これはアメリカ人だけの特性ではない。1つ前の大英帝国では、インドの植民地支配が不条理であるということを教育を受けたイギリス人は知りながら反対することができなかった。都合の良い就職先だったのである。

 

自分も得をするから まあいいか、が集積して巨大な悲劇を生んでしまう。

 

小は趣味の会の本部と支部の間で、大は覇権国と周辺国との間で同じ力学が働く。

 

この感覚をなくすことは難しい、というか不可能だろう。

 

私はキノコ採りで山の斜面を踏み荒らしてしまうが、まあいいか、と思ってしまう。

 

とういうことは、今後も強大国の変遷はあろうが、強大国は覇権国にならざるを得ないということだろう。

それを前提に国際政治を考えていかなければならないと思う。