エッセイ 和歌 天の川から見る人の想像力 2022年12月

古今集に収められている以下の和歌がある。

 

わが上に 露ぞ置くなる 天の河 門(と)渡る舟の かいのしずくか  詠み人知らず

 

大意は、

まさに露を私に置いたようだ  天の川よ  その川を渡る舟の櫂から雫が落ちてきたのか

である。

 

平安時代の作であろう。読み人はもちろん貴族なはずだ。

 

初めてこの歌を見た時、そのメルヘンチックさに驚いた。いくら自然科学が今より未発達であった当時でも、これを本気で信じているとは思えない。(まぁ、雨が降る原理も分からなかったから一概には言えないが)風流・雅(みやび)で表現したと思う。だとしてもあまりにも風流・雅すぎだ。こちらが恥ずかしくなるほどである。

 

天の川と言っても川だから、渡し舟が走っているだろう。その舟を漕ぐためには櫂が必要だろう。櫂を漕いだからには天の川の水をはねるだろう。そのはねた水が地上に落ちてくるかもしれない、という発想である。

 

天の川がただ天上を流れている、という認識から、そこに舟が渡っていて、漕いだ櫂から雫が落ちてくるかもしれない、という認識まではとても距離があると思う。

そこに私は平安貴族の想像力を見る。食べることに困らなければ、雅という目を通して、人はここまで到達することが出来る。

現代から見るとメルヘンチックに過ぎる部分はあるけれど、人の想像力のすばらしさを感じる和歌である。

 

私には到達できそうもない。

 

このブログでは発想・認識という言葉を使ったが、もし本気で信じていれば、世界観という言葉のほうがふさわしいだろう。

 

夜歩いているときに袖口にかかった夜露を、天の川に浮かんでいる舟の櫂からこぼれ落ちてきたものだ、と本気で思えたら、私なら、とても穏やかな気持ちになると思う。この夜空に素晴らしい世界が広がっているように感じると思う。そういう世界に一度は住んでみたいと思う。

 

余談

 

天の川から落ちてきた水が雨である、という発想はいかにもありそうである。天の川は中国由来の発想なので、この雨の解釈も中国由来かも知れない。

 

エッセイ 他人を評価するときには 2022年12月

他人が何か不可解なことや不快なことをしたとき、それをどう評価したらよいのだろうか。もしくはどう評価したらストレスを最小限に抑えられるのだろうか。

 

1 過去の経験を思い遣る

人にはいろいろ事情があるものである。私たちは対面した相手を無意識に自分と同じ人間だと思い込んでいる。しかし実際は生まれ育った家庭が違い、今まで経験したことが違い、能力とそれを伸ばせた環境も違っている。つまり全く違う人間なのである。

その人が冷淡であっても、よくうそをついたとしても、よく言い訳をしたとしても、よく失敗をしたとしても、よく人の悪口を言ったとしても、よく暴力をふるったとしても、そうなるだけの事情があった可能性が高いと思う。少なくとも、もし自分が同じ環境で育ってきたなら、同じようにならなかったか、と自問するだけの余裕は欲しいと思う。

 

2 今の気分を思い遣る。

1)まず大前提として、100点満点の人はいない。当たり前のことである。誰でも良い部分もあれば、そこはどうかな、と思う部分もある。そして「良い」と評価した部分でさえも、状況が変われば評価は変わってくる。例えば、熟考することは、時間があるときには良く評価されるだろうが、時間がないときには手足まといに感じられるだろう。

2)その人のその時の気分によっても対応は変わってくるだろう。私には関係のないところで、つまり直前に何らかの経緯があって、その時の相手の気分が良ければ、私の気持ちを大切にして対応してくれるだろう。その時気分が悪ければ、そんな余裕は持てないだろう。自分の体験を思い返せば、誰でも納得するだろう。

3)私と対面しているとき、私の対応の仕方で、相手の反応は変わってくるだろう。私が見下した態度をとっているときと、大切に思っていると分かる態度をとっているときでは、相手からの反応が違うのは当たり前だろう。

相手の反応はこちらの合わせ鏡であることがよくある。相手のことを、生意気だ、と非難している人は、しばしば相手に対して生意気な態度をとっている。

よくあるのは、挨拶をしたときに、たまたま聞こえなくて挨拶を返さなければ、あいつは俺を馬鹿にしているのではないか、と悪意が首をもたげ、次に会ったとき相手に挨拶をしない。すると相手も同じことを思い始め、次回は両者ともに挨拶をしない確信犯になっていく。隙間は広がるばかりである。小さな勘違いが小さな疑念を生み、小さな疑念が大きな疑念に成長し、大きな疑念が悪意に変わる。増幅する合わせ鏡である。

 

以上、他人と接するときは、人にはいろいろ事情があること、つまり過去を思い遣ることと、完璧な人はいない、今は気分が悪かったのかもしれない、こちらの対応が悪かったのかもしれない、といろいろの可能性を考えることが大切だと思う。

もちろんそのような人、多くは自己評価が低い人、と親しくなる必要はないが、こちらからきつく対応して相手をさらに傷付ける必要もないと思う。自己評価の低い人はえてしてとても傷つきやすい。

 

で、大切なことは、ここからである。

相手にそれなりの事情があって私に不可解な、または不快な対応をしたのだ、と言うことが分かれば、私もストレスを感じたり、傷つく必要もなくなるだろう。その瞬間は、そもそもその人はそういう人だったのである。

 

以上のように考えると、むやみにストレスをため込む必要が無くなると思う。

 

そもそも人の対応をそれほど気にする必要がないと思う。その瞬間は悪意のある対応にギョッ、とするが、次の瞬間に、世の中にはいろんな人がいるものだ、いちいち反応しているとこちらの身が持たない、と思い出せば、ストレスを感じることもないだろう、と思う。

 

なんだか道徳めいた話になってしまった。

エッセイ ながらえば またこの頃や しのばれむ 2022年12月

先日高齢の知人が2週間ほど入院した。

 

その時に以下の和歌が浮かんできた。

 

ながらへば  またこのごろや  しのばれむ  憂しと見し世ぞ  今は恋しき

 

その人の心境を思い遣ったのである。

 

小学生のころ、かるた取りとしての百人一首に親しんでいて、おおよその意味も知っているつもりでいたが、今回改めて調べて見ると、全く取り違えていることを知った。

私の認識では、年をとった今となっては、かっては憂しと思っていたこの世が大切に思えるようになったよ、だったが、実際は、更に長生きすれば、今の苦しいことも懐かしく思い出されるのだろうな。かって苦しいと思っていた世の中も、今では懐かしく思い出されるのだから、である。

小学生だったから仕方ないが、しのばれむ、の「む」が未来の推定だということを知らなかった。

 

で、改めてこの歌を気に入ったのである。

 

と言うのも、現在から見た過去の評価をもとにして、未来から見た現在の自分を評価しているからである。これは時間軸でのメタ認知の表現である。一度だけだが、入れ子の構造になっている。

メタ認知にはもう一つ別の認知方法があって、空間軸のメタ認知である。よくあるのは、天井あたりから自分のやっていることを見る、だろう。

 

常々私は人の認識獲得には幾つかの原型があって、それらを当て嵌めることによって、知識を獲得している、と思っている。ある一つの原型を繰り返して認識すると、例えばメタ認知を獲得することになる、と思う。

そういう意味で、入れ子構造は私には興味深い。

 

メタ認知に話を戻せば、千年前の人もメタ認知能力があったのか、という当たり前のことだが、それがしみじみ感慨深い。今も昔も人の能力に変わりはないのだ。にもかかわらず、多くの人のしあわせを確立するのに、膨大な時間をかけてきた。もっと早く理性的な考えが普及してもよかったのにと思う。もちろん今でも確立していないが。

 

私のことに関して言えば、メタ認知は私を何とも切ない気分にさせる。人によっては虚しいと感じるのかもしれない。自分の人生を外から見ることは、生きることの意味を問うてくるし、私が持っている価値観の正当性をも問うてきて、何ともしびれた様な麻痺したような気分にさせる。それは悪い気分ではないのである。

目的と手段 5 番外 2022年12月

1 例えば仕事で疲れた時、不快回避として、疲れを癒したい、ということを目標とする。で、帰宅して眠る、をそれを達成するための手段とする。で、その時の心構えは、効率重視の最短コースを選ぶことになるだろう。つまり最寄り駅で降りて、最短コースを歩いて帰る。楽しいと楽のあいだのグラデーションの、楽がわの重視である。

思うに不快回避の心構えは、効率重視しかないと思う。不快を回避することが、とりあえずの目標になるからである。そうなるのは心に余裕がないからである。

心に余裕がないときは思考力が落ちる。多くの人は思考力によって自己肯定感を維持しているので、思考力が低下すると、自己肯定感も低下する。自己肯定感が低いときに将来のことを考えても明るい展望は持てない。ダメな自分に支配されているからである。

ということを考えれば、夢を設定するときは、心に余裕があるときに決定するほうが、良い夢を設定できると思う。当たり前だけれど、夢は明るいものだからである。

 

2 楽しい目的を効率重視の、つまり楽しいより楽を、具体的に言えば、つまらない方法を重視する手段で達成しようとすることは矛盾が生じると思う。

例えば、以前チョモランマ(エベレスト)を見に、チョモランマが真正面に見えるネパールのカラパタールを目指したことがある。結局ふもとまで行って、最後のがれきを登らずに終えたのだけれど、私が興味のあったのは、植生や昆虫や人々の暮らしであったのに、カラパタールに行く、ということを目標にしてしまったため、その道中を楽しまず、異常な速さで工程を進めてしまった。これは、目的の選定の不十分さと相まって、今でもしばしば思い返す出来事である。何故それを目的にしたのか、というその上の目的を意識しなかったが故の苦い思い出である。達成した直後は非常に後悔したが、今ではよい経験になっている。

 

3 もう一つ向こう側

目的と手段のブログで私が求めていたのは、今まで書いてきた論理的帰結を崩すような、もう一つ向こう側の認識を得たいと思って書き始めたのだった、が私の力不足で今のところそこに辿り着けなかった。

目的と手段が統合するような、境界が無くなるような何かがあるような気がする。

いつかこれを崩してみたい。

目的と手段 4 手段は目的にフィードバックする 2022年12月

論理的には今まで書いてきたように、目的が決まらなければ、手段は決まらない。

しかし実際は手段が目的に影響を与えてしまう。なぜなら手段を実行するときに未知・偶然に遭遇してしまい、遭遇した未知が自分の知識体系に影響を与えて、世界認識を書き換え、目的の決定に影響を与えるからである。

目的の達成を諦めたり、変更するとはそういうことである。生きていくこと、という最終目的でさえ、変更されることがある。

 

生きる上で、手段の実行中に偶然は必然的に起こり、私たちの目的を書き換え続ける。その新しい目的に応じて手段も必然的に変化する。その繰り返しである。

 

人生とはそういうものだと思う。確かなことは何もない。

目的と手段 3目的と生きること、の関係 2022年12月

例えば大目的が、夢の達成、だとする。人生の目的と言えるような最終目的である。しかしこの大目的も実は手段なのである。

普段は意識していないかも知れないが、最終的な目的は、生きていくことである。ここがすべての出発点である。

そして生きていくときに、何を大切にして、どのように生きていくのか、がその手段になり、どのように、という問いの答えが、例えば夢の実現という大目的になる。

 

何を大切にして、という問いの答えは何か。私のブログ、目的と手段 2 心構えの2で書いたとおり、自分の気持ち、つまり楽しさか、便利さ、つまり快適さかである。もちろん答えはそのグラデーションの中にある。その中にあってどちらに傾くのか、が目的を決めるときに大切になるのだと思う。

楽しさと快適さが一致している間はよいが、必ず分岐点が訪れて、決断を迫られる時が来る。分かり易い例を挙げれば仕事を選ぶときである。好きな仕事を選ぶのか、収入の高い仕事を選ぶのか。そのグラデーションの中で、どちらに傾くのか。その時に、何を大切にして生きていくのか、という価値の選択が、生きていくという目的を左右することになる。

 

繰り返せば、人生の最終目的は、生きていくこと、である。そして何を大切にして、どうやって生きていくか、がその手段になり、以下入れ子の構造が繰り返される。

機会損失と人生 2022年11月

ネットで動画を見ていると、ある人が経済学の概念である機会損失を人生に当てはめて話していた。違和感があったので考えてみた。

 

機会損失とは、知識や経験不足によって本来得れたはずの利益の喪失のことである。例えば製造者が、需要の拡大を見通せず、商品を用意できなかったために、本来商品を準備していれば、売り上げられていたであろう売り上げと本当の売り上げの差額である。

 

人生に応用すれば、

知識の泉のようなスマホが、価格が高いからといって購入を遅らせれば遅らせるほど世界の知を利用できずに機会損失が増える、といったような場合である。

 

この動画を見た当初は、経済学の概念は人生に馴染まないのではないか、と思った。

 

機会損失と似た概念に、やはり経済学の概念で機会費用というのがあって、こちらの意味は、

ある一つのことを選択した時、選ばなかったもう一つを選択した場合に得れたであろう利益のことである。つまり同時に二つのことを実行できないので、もし選択したら得れたであろうもう一方の利益のことだ。別の言い方をすれば、選択しなかったので得れなかった損失のことである。

 

これを人生に応用すると、

今日久しぶりの休日だった。ハイキングに行くか、家でゆっくり過ごすか迷ったが、結局家でゆっくりした。ハイキングに行けばもっと気分が良かっただろうが、家で過ごして自分のことを見つめられたのでそれはそれで良かったかな、というような場合である。

 

この機会費用の例は私には違和感がない。日常生活で二者択一するとき、効用のより大きいほうを評価する、というのはよくある態度だと思う。

 

ではなぜ機会損失の例には違和感を感じるのだろうか。

 

それは過去の判断を全的な失敗だとみなしているからだと思う。

上記の機会損失の例で言えば、スマホの購入が遅れれば遅れるほど、人生の損失が積み上がっていくことになる。しかしスマホが無ければ無いなりに、どこかから、例えば図書館から知識を仕入れていた。もちろん効率は悪かったが、その途中でいろいろなことが起こり、いろいろな体験をしただろう。

つまり効率が悪い、というマイナス面もあれば、予想外も含めたいろいろな体験ができたというプラスの面もあったのだ。



ところで、機会費用の時は、家でゆっくりするという効用のより大きなほうの選択を肯定しておきながら、機会損失の時はスマホの早期購入という効用のより大きなほうの選択を手放しでは肯定していないのは、矛盾するのではないか。

 

結局繰り返しになるが、否定の範囲が違うのである。

つまり機会損失は過去の選択の全否定である。ただただ機会が失われていった。損失が増大していった。

機会費用は、もうひとつの選択のほうが効用が大きいようだが、こちらもそれなりの効用があるな、という部分否定である。

 

人生において、丸ごと否定されるような体験はない。経済学が対象にしている企業は利益獲得が第一の目的であるから、利益を損失させた選択が丸ごと否定されることもあるだろうが、人生の第一の目的は利益獲得ではない。

 

驚いたことに結論は当たり前のことになってしまった。

 

以下が私の言いたかったことです。

 

これは人生の目的を何とするかで考え方が違ってくると思うが、過去の事実は変更できない。変更できないことについて、全否定して、過去の自分の選択を否定しても何もプラスにならない。自己評価を下げるだけである。よく言われることだけれど、過去の事実は変えられないが、事実への評価は変更可能である。

悪いこともあったけど、良いこともあったなぁ、というのが自己評価を下げない認識方法だろう。更に言えば、あの事があったから、今の素晴らしい自分があるのだ、まで行けば、いうことはない、と思う。

エッセイ あの時は若かったのだ、という感慨 2022年11月

あの頃は若かったなぁ、という今の体力や気力の低下を嘆く感慨とは別に、あの時は若かったのだ、という過去の失敗に対する感慨がある。具体的に言えば、対応を間違えて人を傷つけてしまったときなどだ。

 

しかし我がことを振り返ってみると、若かったから間違えたのではなく、単に未熟だったからであり、考えてなかったからであり、相手の気持ちに共感できなかったからに過ぎない。

 

つまり若さのせいにして、自分の責任を認めたくないのだろうと思う。認知的不協和という不快を避けるために、つまり自分の責任を認めるという不愉快なことの代わりに、若さのせいにしてそれを回避しているだけなのだ。若かったから仕方がなかったのだ、と。

 

もし私が傷つけられた側だったら、若さのせい等にされてはたまったものではないと思う。

 

人は自分に都合の悪いことは、出来る限り直視せず、何とか自分の都合の良い解釈を見つけてしまうものだが、あの頃は若かったのだ、という都合のよい言葉はその典型だと思う。

目的と手段 2 手段を遂行するときの心構え 2022年11月

 

目的が決まって、そこに到達するための手段を選択するとき、途中で目的追求をあきらめないために、2つの心構えが必要だと思う。

 

1  100発10中  

 

100発100中ではなく、100発10中である。ある目的を達成するためにある手段を選択した時、目的が未知の場合、その手段が最も効率的かどうかは不明である。手段の選択がよくない可能性があり、たとえその選択がベストであっても、何がベストかは基本永遠に分からないだろうけど、そのベストの手段がそもそも遅行性であるのかもしれない。つまり思ったように目的にたどり着かなくてもがっかりする必要がないと思う。100発10中のつもりで気楽に手段に取り掛かり、そして手段遂行中にフィードバックを効かせて、つまり試行錯誤を繰り返して進めばいいと思う。そしてその試行錯誤自体を楽しめればなお良いと思う。また100発100中のつもりで取り掛かると、効果が出なかったとき、やる気を無くしてしまうだろう。

脱線するが、そもそも人生自体が100発10中の気分で過ごすのがちょうど良いと思う。100発10中で始めて、試行錯誤を楽しむのである。

 

2  効率と楽しむの兼ね合い

 

手段を選択するとき、効率のみを追求すると、目的を達成する過程がつまらなくなる可能性がある。例えば、最寄駅から家まで帰るとき、つまり、家に帰る、という目的があって、効率を重視すると最短距離を辿ることになる。しかし毎回同じ道で帰るのはつまらないと思う時があるだろう。心に余裕があれば、偶有性を楽しむために、道草するのも大切だと思う。

もちろん効率を重視して、どんどん目的に近づいている、とワクワクしながら実行するのが基本の姿勢だと思うが、楽しめなくなった時の補助手段として意識しておくのは大切だと思う。

まるで機械のように効率性のみを重視している人を見かけることがあるが、ロボットのようで不気味である。その人が自分の感情を抑えすぎているように見えるからそう感じるのだろう。

効率と楽しむは必ずしも相反するものではないが、しばしばトレードオフの関係、同時に成立しない関係にあるので、両者のグラデーションの中のどの位置にいるかを意識しておくことは、効率的手段を選んでつまらなくなってしまい、結局目的に辿り着かない、といった悲劇を避けるために必要だと思う。



余談

 

1  世に多く出回っているハウツーものの本やブログ、ユーチューブは手段について解説したものだ。ハウツーとは手段のことだからだが、それらに接するとき、何故その手段が必要なのか、と目的を常に意識しておく必要がある。何となく読み始めてしまうと、見始めてしまうと、知らず知らずのうちに自分のものではない、発信者の目的・価値を心ならずも共有してしまうことになる。

 

以下はお遊びである。

2  目的と目標について

 

このブログでは、目標、という表現を混乱を避けるため、かつ必ずしも必要ではないと思い、使わなかったが、概念の違いは、

目的はどちらかというと抽象的なゴールで、目標はその抽象的なゴールを達成するための具体的ゴール、というイメージだと思う。

試しに英語ではどのような単語が使われているかグーグル翻訳を使って調べてみると、

目的  purpose  objective  aim  goal   intention  が出てくる。

目標は  target  objective  mark  である。

 

目的の英語  purpose  を同じく英英辞書で引くと  

何かがなされた理由、何かが存在している理由

あたりの説明である。

objective  は

目指したこと、求めたこと、ゴール

である。

intention  は

意図したこと 

である。

goal  は

野心や努力の対象

で、これが日本語の概念にかなり近い。

 

目標の英語  target  は

攻撃目標として選ばれた人・対象・場所

である。

objective  は前述した。

目指したこと、求めたこと、ゴール

である。

mark  は

周囲とは異なった色が表面に付いた狭い領域

である。

 

イメージでは

目的はgoal 、 目標はobjecive 、goal  あたりか。

 

まあネイティブが実際にどんな概念で使い分けているか知らないが、両者の意味が結構重なっているのである。

 

で日本語で、目的、をコトバンクで引いてみると、目当て・目標・理想と書かれてあって、目標を引くと、目印・目当て、とある。

やはり意味がダブっているのである。

 

よく使われる言葉の概念とはそういうものなのだろう。両者の違いを調べるためにネットで検索をかけたが、目的と目標の違いを重要なこととして解説しているサイトがいくつか見つかった。何処から見るか、その視座によって、見えるものが違ってくるのだろう。

目的と手段 1目的と手段の関係 2022年11月

当たり前だけれど、目的が決まらなければ、手段は決めようがない。例えば富士山の頂上に立つ、と言う目的があるから、富士吉田まで電車で行って、駅から歩いて頂上を目指す、という手段が決まる。目的が決まっていなければ、あれっ、俺なんで今ここを歩いているんだろう、と言うことになってしまう。しかし世間では手段自体がプラス価値を持ってしまい、つまり自己目的化してしまい、前段の目的を問わずに手段を絶対視することがよくある。

例えば読書、例えばスポーツ、例えばパソコン上達法。

本来ならまず目的があって、その目的を達成するために、手段としての読書やスポーツやパソコン上達法があるはずである。

 

と言うような疑問を持って、目的と手段の関係について考えてみた。

 

私を例にすると、私の最終目的は、

1今を楽しむことである。

ではその目的を達成するための手段は、と言うと

1) 仲間づくり、2) 夢の実現、である。

では例えば2)夢の実現を達成するための手段はと言うと、

1)) 健康維持、2)) 生活維持である。

では例えば1))の健康維持を達成するための手段はと言うと、1))) 懸垂20回、2)))アブローラー20回、等々である。

 

つまり大目的を達成するために幾つかの手段があり、次にその幾つかの手段がそれぞれに中目的になり、その中目的を達成するために更なる幾つかの手段がある。更にその幾つかの手段がそれぞれに小目的になり、その小目的を達成するために更なる幾つかの手段がある。

と言うように幾つもの目的と手段が入れ子状態に重なっているのである。手段がその下の手段を達成するための目的になっていて、逆から見ると目的がその上の目的を達成するための手段になっているのである。そしてその過程の自分に近い側に、読書やスポーツやパソコン上達法などの具体的実践がある。

 

何が言いたいかと言うと、大目標が決まらないと、それ以下の入れ子構造の手段が決まらないということだ。

例えば読書をする、という目的があったとすると、では何のために読書をするのか、つまり目的が必要になる。知識を得て偏差値の高い大学に入学するため、と言う目的ならば、自ずと読書をする内容が決まってくる。次に、大学に入学する目的は何か、が更に問われる。と言うように順々に上に上がっていき、最後に大目的にたどり着く。というか実際はまず大目的を決めて、順々に降りてきて、最後に、だからこれこれの読書をするのだ、という流れになるだろう。

 

と言うことを考えると、お金持ちになる、とか、総理大臣になる、とか、医者になる、というのは大目的になりえない。

何かがしたいからお金が必要で、その為にお金持ちになりたいのだろう。日本をこんなふうに変えたい、と思うから総理大臣になりたいのだろう。患者の苦しみを少しでも減らしたいなどと思うから医者になりたいのだろう。

何かしたいことがあって、それを達成するためにそれほどお金がかからない手段があるのなら、お金持ちになる必要はないだろう。

総理大臣も医者も同じである。目的を達成するためにより効率のいい手段が見つかれば、さっさと変更すべきである。

また同じように、政党が選挙の時にマニフェストを発表する時、そこにはまず何よりも大目的、例えば、皆が幸せを感じる社会の実現、などが書かれていて、その次にはそれを達成するための手段、別の見方をすれば、中目的が書かれていなければならないと思う。で、いろいろ入れ子を通った後の最後に、だから増税が必要なのだ、とか、減税が必要なのだ、という順番であるはずだろう、と思う。目的が決まらなければ、手段は決まらないのだから。

 

余談

 

1  感情から見た目的の設定は2種類あって、ひとつは、快への追求、もうひとつは不快からの逃避である。

例えば、ここは陽が当たらなくて寒いから陽の当たる場所に移動しよう、は不快からの逃避である。そしてそれだけで目的と手段が完結している。非常に短い目的から手段に至る過程である。

例えば夢の実現は快追求である。

過程が短ければ短いほど、情動に支配されている。例えば、腹が立ったから怒鳴る、のは、不快になったので怒鳴って解消し目的を達成した、という非常に短い過程で完結している。前頭葉がほとんど介入していない。爬虫類脳と言われる所以だろう。

逆に過程が長ければ長いほど理性、つまり前頭葉を使っていることになる。例えば、叶えたい夢は通常長い過程を持っている。

 

2  目的にいざなうおおもとの快には2種類あると思う。ひとつはワクワク系の快感で、もうひとつはしみじみ系のしあわせ感である。

私の偏見かも知れないが、人生の最終的な大目標は、しみじみ系になっていくと思う。我田引水すれば、今ここパラダイスは典型的なしみじみ系である。