imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

生成AIと有料化 貧富の格差が知識の格差を生む 2024年7月10日

スマホやパソコンを使っていて、ウェブブラウザ、具体的には、グーグルクロムやマイクロソフトエッジ、を使っていない人はいないと思う。検索窓に、調べたい単語を入れて検索できるソフトである。

 

ほとんどすべてのウェブブラウザは無料で提供されている。だからみんな気軽に使えるのだ。なぜ無料で提供されているかと言うと、画面に表示される商品の広告主がお金を払ってくれているからである。ではなぜ広告主がお金をウェブブラウザ会社に払うのかと言えば、ウェブブラウザ利用者である私たちが表示された商品を買うからだ。

 

つまり私たちが買った商品の代金の一部がウェブブラウザ会社に払われ、それ故にウェブブラウザ会社は私たちにそれを無料で使わせる。更に言えば、ウェブブラウザ会社はそれで商売をしているのである。

 

この構造はテレビ局とコマーシャル会社の関係と基本同じである。テレビ視聴者の私たちが、コマーシャルを見て商品を買う。コマーシャル会社はその商品の代金の一部をテレビ局に支払う。故にテレビ局は無料で放送を流す。

 

つまり無料使用の源泉は、私たちの購買力である。逆に言うと、私たちの購買力が発揮されなければ、無料使用は成り立たない。誰かが広告を見て商品を買ってくれるから、私たちはテレビ放送やウェブブラウザという便利な道具を無料で利用できるのだ。

 

ここ1‐2年、生成AIの普及が激烈である。質問するとそのまま答えが返ってくるので、非常に便利である。ウェブブラウザで調べるより、ほとんどの場合、求めた答えに辿り着くのが圧倒的に早い。もう戻れない変化だと思う。よく言われるように、ハルシネイション(幻覚、間違い)の可能性はあるけれど。

 

ところで、私はチャットGPTを使っているが、広告は一切出ない。にもかかわらずチャットGPT3.5はいまのところ無料である。つまりopen AI(チャットGPTを作った会社)は、3.5利用者からはお金を徴収していないのである。この生成AIを作るのに膨大な資金を投入しただろうし、今後維持するのにも資金が必要である。またこの生成AIが参照する膨大なデータベースはいまのところすべて無料で利用させてもらっていると思うが、今後どうなるか分からない。

 

つまりこの商売モデルは維持不可能だと思う。解決法は2つしかない。

1 利用者から利用料を徴収する。つまり有料化である。

2 ウェブブラウザと同じように利用者の情報を収集し、プロファイリングして広告主を募集し、ページに広告を表示する。つまり広告主から資金を回収する。

 

もし有料化された場合、低所得者層は使えないだろうから、貧富の格差による更なる知識の格差が広がるだろう。もちろん知識の格差は貧富の格差を生み出す。

この便利な道具を使えない人は、例えば情報収集するのにカメのように進むことになるだろう。

 

江戸時代、江戸から京に行くには、一ヶ月ほどかけてみんな歩いて行った。今、東京から京都に行くのに、お金のある人は2時間ほどで京都に行く。かたや、貧しいからと言って歩いていく人はいないが(歩いていくと飲食宿泊費で余計にお金がかさんでしまう)、JRの普通を乗り継いでいっても一日では行けない。生成AI利用の可・不可にはそのぐらいの差があると思う。

かつては当たり前だったからと、以前のままの方法(歩く)を違和感なく当たり前のように踏襲していると、とんでもない差(新幹線)が生じていることに気が付かない。ウェブブラウザしか使わないとそういうことになると思う。

 

チャットGPT4の個人利用の月額料金は20ドル、約3000円である。低所得層にとってはかなりの出費だと思う。

 

追記

 

以上のことを前提にすると、生成AIは間違いなくウェブブラウザから利用者を奪うことになる。つまりウェブブラウザに広告を載せても以前よりは集客力が落ちる。ではその浮いた広告料はどこに行くのだろうか。相変わらず効率の悪いウェブブラウザに使われるのだろうか。

 

もしかしたら、もしくはすでに試みられているかもしれないが、ウェブブラウザに生成AIを内装して、ウェブブラウザを使うと自動的に生成AIが作動するようにすれば、ウェブブラウザから客を流出させなくて済む。

それぞれのウェブブラウザ会社が独自に生成AIを作っているのはそういうことかもしれない。だとしたら生成AIの有料化は免れるかも知れない。

エッセイ 所帯じみる 2024年7月10日

近所に一人暮らしのおばさんがいるのだけれど、先日話をしていると、成人した子供が2人いるということであった。それを聞いて私は少し意外な気がしていた。

そのおばさんには所帯じみたところが全く無かったので、子供はいないものだと思っていたのだ。

 

最近はあまり、所帯じみる、という言葉を聞かなくなった。30年以上前なら普通に使われていたと思う。どちらかと言うと、悪いニュアンスを持っていた。結婚して子供が産まれ、子育てが忙しくなって、生活に疲れている、とか、身だしなみがおろそかになっている、というイメージだ。結婚生活に疲れた、かつてはきれいだった女を、男が揶揄して使っていたとも思う。

 

最近のお母さんはオシャレな服を着ているし、化粧にも、髪形にも気を使っていて、まるで独身のように若々しいと思う。子育て女性のイメージは、この30年ですっかり変わったと思う。

 

で、所帯じみる、って結局どういうことなのかな、と、そのおばさんの件のあとに考えていたが、今日こんなことを思った。

 

所帯じみる、とは、大切な人の為に自分のことが2番目以降になることを受容することではないか。つまり覚悟を決めた利他行為の結果として表現されてしまった状態のことではないか、と。

 

大切な子供の為に、化粧や服にかまっている余裕がない、髪の毛を振り乱して子育てをしている、とはそういうことだと思う。

 

30年以上前に私が所帯じみたおばさんたちから感じていたのは、そういう覚悟の決まった生き方だったような気がする。

雑感 能力としあわせ 2024年7月8日

それぞれの時代に、それぞれに新しい知見が得られ、「最近は科学が発達してこんなことが分かってきた」ということが繰り返し語られているのだろうが、現代を生きている私も同じことをしてしまう。

 

IQで表現される種類の知的能力の半分ほどは先天的に決定されていて、後天的な努力では大きく能力を上げるのが難しいようだ。

 

IQとは、具体的には、言語理解、空間認識、ワーキングメモリー、情報処理速度、数量推測などの能力だ。

重要な能力が目白押しだが、この能力の半分ほどが先天的に決定されているというのである。

 

他にEQという指標もあり、こちらは後天的な努力によって向上できる知的能力である。具体的には、相手の感情を知覚し、かつ自分の感情を抑制できる能力のことだ。

 

他にも人の能力を表現する指標に、運動能力、体力、創造力などがある。

 

IQは努力によって向上させることが難しいようだが、運動能力も、体力も、遺伝が影響を与える。

そして容姿も変えられない。

 

つまり、

 

何だ、俺の人生は生まれた時からすでに半分は決められているのか、まじめに努力するのが馬鹿らしいな、

 

ということになりかねない。

 

しかし言うまでもないことだが、そしてしばしば忘れられがちなことではあるが、生きていくうえで一番大切なのは、しあわせであることだ。仕事が出来ることや、運動が出来ることや、資産があることや、容姿がよいことではない。

 

なので、IQが低いから、運動神経が良くないから、見栄えが悪いから、ああだこうだと悪い評価を自分に添付して、人生を暗いものにするのは、本筋から外れている。ただただ自己評価を下げ、人生を生きづらくしている。それこそが悲劇である。

 

どの時代の、どの場所に生まれた人も制約の中で生きている。制約のない人生を生きる人はいない。その制約の一つが、IQであり、運動能力であり、容姿であり、家族であり、友達であり、社会状況であり、科学の発展具合である。

大切なのは、そうした制約の中で、どこまで人生を楽しめるか、どこまで人生に幸せを感じられるか、であると思う。

エッセイ グーグルレンズで種を同定する 2024年7月7日

私は蛾の羽根模様に惹かれる。なのできれいな羽根の蛾を見かけると、保存したくてつい写真に撮ってしまう。もちろん、いつか種を同定してやろう、とも思っていた。

 

1年ほど前に書店で「くらべてわかる蛾」山と渓谷社という、よく見かける蛾だけを載せたお手軽な写真図鑑を見つけ、これなら同定できるのではないか、と購入した。

 

結果、明らかな特徴のある蛾はページをめくっていくと辿り着くのだけれど、個体差の大きな種や、科をまたいで同じような形の蛾はお手上げであった。何度もページをめくりながら時間だけが過ぎていく。

 

10年程前、植物の同定にグーグルレンズを使ったことがあった。全く役に立たなかった。植物検索アプリも試したが同じであった。似たような技術を使っていたのだから当然であろう。

 

今日、ふと思い立って、蛾の写真をグーグルレンズにかけてみた。即座に答えが分かった。で、次々と試したのである。結果ほとんどすべての種が同定できた。もちろん検索サイトでも確認しながら種を決めていくのだけれど、個体差の大きな種は決して図鑑では分からないな、と思った。

 

グーグルの生成AI「gemini」に、グーグルレンズに生成AIが内装されているか、を尋ねてみると、内装されているという。少しずつバージョンアップして行ってるようなので、いつから精度が上がったのか分からないが、現段階で、きれいに蛾の写真が撮れていれば、かなりの確率で正解に辿り着けると思う。

 

種を同定できた、と言うのは、その個体に記号を振りつけたの同じなので、特に理解が深まったわけではない。

 

大切なのは、その種の生態や、更には周囲の生き物との関係だろう。

 

が、やはり名前が分かるのは正直嬉しい。

小さな損得へのこだわりが、殺し合いを招く 2024年7月5日

旅行をしたとき、行く先々の地域の歴史を調べて当時のことに思いを馳せるのが好きだ。

関東を旅行すると、上杉氏の名前がよく出てくる。それも山内上杉氏とか、扇谷上杉氏とか、犬懸上杉氏とか。有名な上杉謙信は、越後守護の上杉氏の家宰(守護代)だった長尾家が下剋上で上杉氏を乗っ取った子孫である。

 

先日図書館で「山内上杉氏と扇谷上杉氏」木下聡著を見つけた。以前から区別できず、気になっていたので、早速借りて読んでみた。

 

鎌倉幕府時代、もともとは京都で公家四条家の下で働いていたが、1252年、宗尊親王が鎌倉6代将軍になるために関東に下向する時に上杉重房が供奉し、そこで関東の足利氏と関係を持つようになった。それが関東での上杉氏の繁栄の始まりである。そこから山内上杉、扇谷上杉、犬懸上杉、越後守護の上杉などが分岐した。

 

本書は、15世紀の各上杉氏の変遷を描いている。時には協力し、時には殺し合う。

 

で、しみじみ思うのだけど、始まりは小さな損得だったと思う。あちらのほうが取り分が多いではないか、こちらはあれだけ頑張ったのに、たったこれだけか、とか。または、不当に見下されたとか、軽んじられたとかの、面子の話だったと思う。

 

それがどんどん膨らんでいって、殺し合いである。もし最初にその結果を知っていたなら、始まりの小さな損得にはこだわらなかったと思う。

 

それは、上杉氏と鎌倉公方の足利氏との間でもそうだし、上杉氏と関東の有力領主との間でもそうだ。

 

少しでも得をしよう、と軽い気持ちで始めた結果、最後は殺し合いである。

 

勝った側は領土も増えて、収入も増えて、贅沢な暮らしができただろう。が、人を殺すほどの価値があったのか。

 

現代でも、ことは同じだろう。第一次大戦も、第二次大戦も、少しでも得をしようとした結果、大量の人たちが死んだ。

 

ロシアとウクライナも同じだと思う。いろんな見方がこの戦争にもあると思うが、2022年2月24日を起点にすると、ロシアが一方的に侵略したように見える。が、起点をもっともっと手前に持ってくると全く違う風景が見えてくる。

 

それぞれの人が自分の取り分を少しでも増やして快感情を得ようとした結果、また、それぞれの人が自分の取り分が奪われて怒り続けた結果、予想もつかない悲惨なことが起こってしまう。

 

人は前頭葉を使って感情を自制できるのだから、前頭葉を使ってそのあとの可能性を予測し、感情を自制するのが良いと思う。

 

このままではただのワニである。

自分の欠点を気にする必要はない 2024年7月5日

振り返ってみれば、私の性質について周囲からあれこれ言われ続けてきたが、結局大した問題ではなかった、と思う。

 

内向的だ、とか、友達が少ない、とか、ひとつのことにこだわり過ぎる、とか、こじんまりと生き過ぎる、とか、神経質すぎる、とか、先のことを考えてない、とか、いろいろ言われてきた。

 

そのそれぞれが的を得ていたとは思うが、そしてその時どきにそれを気にしていたが、今から振り返ってみれば、どれも大したことではなかったと思う。

 

何か問題が起こったわけではなかった。ただ周囲の言葉を私が気にしていただけである。

 

なので自分の性質について、人から、ああだこうだ、と言われても、気にする必要がないと思う。

 

人は自分を基準にして他者を評価する。つまり、あなたは私と違いますよ、と言っているのである。ただそれだけである。

Will not は Can not を含意する 諦めていたものの発見 2024年6月28日

先日、益田祐介と言う精神科医のユーチューブを見ていると、Will not=Can not であると、精神科界隈では言われている、という話をしていた。

つまり、したくない、は、出来ない、の言い換えである、という意味だ。

もう身もふたもない話だが、その通りだと思う。

 

出来ない、とは言いにくいので、したくない、ということにしている。自尊心が傷つくからである。これは人に言い訳をするときだけでなく、自分に対しても意識せずに使っている可能性がある。

 

自分を守るために、認めたくないことを意識に上げないようにしている、つまり抑圧している。ディフェンス メカニズムの一つである。認知の歪みが生じているのだ。

 

これは、以下の集合で表示できる。

左の円はwill not の集合、右の円はcan not の集合

つまり

Aは、出来るけどしたくない。

Bは、出来ないし、したくない。

Cは、したいけどできない。

 

さて、Cの、「したいけどできない」、は、自尊心に関わるので、そもそも意識に上げたくない。

 

すると集合Cは、Bの「出来ないし、したくないこと」に吸収されるので、

結果、A⊃Bになり、BはAの部分集合になる。

Aは、「したくない」集合で、Bは、「出来ないし、したくない」集合。

 

ところが、「出来ないし、したくない」というのも心に引っかかる可能性がある。どのみちしたくないのだから、出来ない、ことを意識に上げる必要がない。

 

となると、Bも消滅して、残るはAの「したくない」集合だけになる。

これが私たちが意識する「したくない」の実態ではないか、と思う。

 

ということが分かれば、逆に辿って、「したくない」ことのなかから「出来ないから、したくない」を探し出し、その中から更に「出来ないけど、したい」をより分け、「出来ないかも知れないが、やってみよう」と意識的に書き換えることが出来ると思う。

自己肯定感が高くなれば、もちろんそれに挑戦できるが、たとえ低くても、挑戦すること自体が自己肯定感を高めていく、という相乗効果が期待できる、と思う。

 

実際、「できるから、する」、と言うのでは当たり前すぎて全くつまらない。人生から見れば、意味不明である。「出来ないかも知れない」からこそ、ワクワクして楽しいのだと思う。

 

もっといえば、「出来ないけど、やりたいからやってみる」というのでも良いのだと思う。出来なくて、時間とお金を大量に使ったとしても、挑戦している間は、ワクワクしぱなしであろう。

 

更に言えば、人生、他に何をするのか、とも思う。人生、どれだけ成功しても、どれだけ思い通りになったとしても、どのみち大したことはない。ただ生きて、死ぬだけである。人生など、楽しんだもの勝ちである。

 

追記

 

以上の考察から、本当にしたいことは、”したくないこと"、実は、諦めていることの中にあると思う。

例えば私は、若い頃、トライアスロンに出場してみたかったが、泳ぐのが苦手なので、結局何の努力もしないまま年を取り、終わってしまった。今でもやり残した感がくすぶっている。本気を出せば、スタートラインに立てたと思う。

道徳と倫理の重ならない場所 2024年6月24日

道徳とは、共同体を維持するための約束事。

倫理とは、個人の規範。

 

簡単に言えば、道徳とは共同体の価値、倫理とは個人の価値である。当たり前だが、両者は全くは一致しない。例えば、家族の結婚式への出席と、贔屓の歌手のコンサート観覧のどちらを選ぶか。

左が道徳の集合  右が倫理の集合

道徳 ∩ 倫理以外=A

道徳 ∩ 倫理=B

道徳以外 ∩ 倫理=C

 

つまり

Aは、自分にとって価値を感じないが、共同体にとって大事なこと。義理と人情で言えば、義理に相当する。

Bは、自分にも、共同体にも大事なこと。多くの人はここを選択して心のバランスをとっている。

Cは、共同体にとっては価値が無いが、自分にとっては大事なこと。義理と人情で言えば、人情に相当する。

 

日常、多くの行動はBに属している。自分も納得できるし、周囲も納得してくれている。しあわせの領域である。

 

ではAはどのような時に生じるのか。

周囲の関係に縛られて、徐々に選択の幅が狭くなり、ついには、にっちもさっちも行かなくなり、選択の余地なく不本意な行動をとるときだ。予想以上の譲歩を迫られる。

つまり記号で表現すると、B→A への移行である。

 

ではCはどのような時に生じるのか。

共同体の意向も尊重し、自分でも納得した選択だったが、考えれば考えるほど、共同体の価値が馬鹿らしく思えてきて、翻意して選択を変更する。B→ Cへの移行である。

 

実際には、ほとんどの行為はBに納まる。自分も納得できて、共同体にも迷惑をかけない選択である。共同体の価値の中で育ってきたのだから当然であろう。多くの場合、人が最初にする選択はBである。

 

ところが、先を見通せていなかったために、関係に身動きが取れなくなっていき、不本意にも周囲に合わせるのがAの領域である。。

 

ではCはどうか。そもそもCの領域は世間から後ろ指を指される領域である。非難される領域である。つまり何となく選ぶのではなく、覚悟の結果に行きつく領域である。どう考えても納得できない。已むに已まれず、自分を信じて辿り着く領域である。

故にそこにはビビドな感覚が生じる。生きている実感があるだろう。

 

釈迦もイエスガリレオも、ある一つの課題でB→ Cに移行した人である。

 

以上、まとめると、

 

始まりはBである。

その後、予想外の関係の展開に導かれて、にっちもさっちも行かなくなり不本意にも移動する領域がAである。

もうひとつは、予想外の出来事が起こり、利他と利己を天秤にかけて、已むに已まれず利己を選択するのがCである。

 

さてここで注意が必要なのは、Cの領域は、利他行為(A)を含まない利己行為の領域だということだ。もう少し詳しく言うと、Aとは、共同体構成員が想像できる範囲内での共同体の為になる価値である。イエスが生きた共同体は、選民思想ユダヤ教社会だった。故に選民思想を持たないイエスの言説はその共同体の為になる言説ではなかった。故に共同体の破壊者として非難された。

 

もっと利己である動機の可能性もある。

 

結婚式よりプラモデルを組み立てたい、ということもあり得る。

家族を捨てて、放浪の旅に出たい、ということもあり得る。

夫と子を捨てて、別の男と暮らす、ということもあり得る。

例えそうであっても、その選択は、已むに已まれぬものであり、それはビビドを生じさせる。

もし初めから、プラモデルを組み立てたい、放浪の旅に出たい、別の男と暮す、ということが分かっていれば、結婚式の予定も入れず、家族も作らず、夫と子も作らなかったであろう。偶然が人をCへ押し出すのである。

 

こんなものが倫理なのか、という疑問もあるが、倫理を、個人の行動規範、とすれば、倫理であり得ると私は思う。




能登田舎暮らし 2024年6月24日

石川県の被災者の生活再建支援金をホームページで見ると、世帯で最大300万円、ひとり世帯だとその3/4が支給されるようだ。

 

https://www.pref.ishikawa.lg.jp/saigai/hisaisyasaikenshienkin.html

 

これでは倒壊、半壊した住宅を再建するのは全く不十分だから、子供たちの住む都市部に引っ越す世帯が多くなるのではないか、と思う。

 

つまり被災地は今以上に過疎地になるだろう。ということは土地の値段が下がるだろう。耕作放棄地もさらに増えるだろう。

 

ということは雪国で田舎暮らしをしたい人にとっては、有力な選択肢の一つになるのではないかと思う。

 

天災に見舞われることは不幸なことだが、選択の余地がない。しかしその後の行政の支援次第で、更に人災の要素が付け加わる。

 

5月末の時点で3300人程が避難所で生活をしている。避難者数のピークは1月4日の34000人ほどなので、約半年かけて1/10に減ったことになる。これが速いのか、遅いのか、私には分からないが、被災地域を考えると、高齢者が多いと思うが、5か月の一時的な住居ぐらしはストレスが多いことだろう。

 

こういう地域に若い世帯が入居するのは、ウィンウィンの関係になるのではないかと思う。

 

ただ上下水道などのライフラインを行政がどのくらい復旧・整備するつもりなのか、地域によって差があるだろうが、注意が必要である。

 

余談

 

今から40年以上前の高校生の夏休み、大阪から能登半島をサイクリングで8日かけて一周したことがある。鉱物採集が趣味で、能登には、珠洲市能登鉱山と言う石膏を掘り出していた、1969年に閉山した鉱山があった。私が訪ねた時もまだズリが大量に残っていて、繊維状の石膏を採集できた。途中、場所が分からず、道を尋ねたおばさんが、原付の荷台に乗せてくれて、鉱山まで連れて行ってくれた。重いリュックを背負っていたので、うだるような暑さにバテ気味だったが、風がとても心地よく、荷台でニコニコしてしまったのをよく覚えている。

皆とても親切で、能登半島ほぼ先端の珠洲市の郵便局から記念に自宅にはがきを送ったのだけれど、ここが郵便局か、と言うほど親切であった。

エッセイ しあわせな勘違い 生き物に手間をかけるということ 2024年6月22日

7月から数か月ほど旅行に出ようと思っている。

私には植物を育てる趣味がある。サボテンやランだ。旅行中、誰かに預けなければならない。

 

家に戻ったら返してもらうのだが、もし私が相手だったら、返すときどう思うかな、と考えた。

きっと預かったときは手間なので、面倒だな、と思うだろうが、いざ返すときは、手間をかけた分、愛着を感じて、返すのが少し惜しくなるのではないか、と思った。

 

どうしてそう感じるのだろうか。掛けた手間が愛着を生むのだろうか。

 

手間をかける、とは、相手の反応、状態を観察することを含む。生き物である限り状態は変化していくが、手間をかけた時は、その変化を相手からの応答と感じるのだと思う。そして自分の手間に報いてくれた、と錯覚し、愛着が湧く。

つまり、手間をかける→相手が変化する→応答があった、つまりこちらの期待に応えてくれた→愛着が湧く。そして愛着が湧くから更に手間をかける、という循環が起こる。

 

植物は相手の反応が見えるまでに数日から数週間かかるが、動物だと数秒で相手の反応が見える。つまり僅かの時間で圧倒的な循環が起こり、結果、強固な愛着が生じると思う。

 

しかし実際は、こちらの掛けた手間が、意図したとおりに作用して相手を変化させているかどうかは不明である。その時々に証明のしようが無いし、多分にこちらのしあわせな勘違いの可能性がある。

つまりそもそも、まずこちらにしあわせに勘違いしたい、都合よく解釈したい、という志向がある、と思う。

 

抽象化すると、まず都合よく解釈したい私の志向がある。次に、相手に作用を及ぼし、そこに変化を見つけると、私の期待に応えてくれたと、その変化を格好の対象として愛着を添付する。そしてそれを繰り返す。

人はあらゆるものにこれを試みているのではないか、と思う。

 

ではなぜ幸せな勘違いをするのか。都合よく解釈をするのか。それによってストレスが減るからだと思う。ストレスが減り、メンタルの状態が良くなり、生き残るのに有利になり、結果としてその遺伝子を残したのだと思う。

 

ということは、この志向を利用して、よりストレスの少ない生き方が意図的に出来ると思う。

 

フロイトが創設した精神分析学にディフェンス メカニズム(防衛機制)という概念がある。ストレスに晒されたとき、その不安を軽減しようとする無意識のメカニズムのことで、このしあわせな勘違いもそれ、またはそれの応用にあたると思う。