imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ よもやま話 ここはお国の何百里 2023年1月

今から30年以上前のことだ。老人病院でヘルパーをしていたことがあった。当時はまだ国のヘルパー制度が無く、病院が患者側からお金を取ってヘルパーを雇っていた。当時でも病院は完全看護が建前だったが、看護師(当時は看護婦と呼んでいた)が患者の介護をするほどの余裕のあるお金が行政から出なかったので、暗黙に家政婦を患者個人で雇い、病院に同居することが許されていた。病院が雇ったヘルパーは24時間勤務ではなく、2交代または3交代制だった。そういう病院を老人病院と呼んでいた。

 

そこで働いているとき、3人部屋の病室があって、80歳前後の夫婦1組と1人の男性老人が入居していた。夫は失語症なのか一度も喋ったことが無かった。3人とも1人では生活できない程度の認知症があった。

 

その病室からよく歌声が聞こえてきた。その部屋で掃除をしているときも歌が始まる。まず最初はおばあさんが突然歌いだす。歌はいつも同じで「戦友」という軍歌である。

 

ここはお国の何百里  離れて遠き満州の  敵を散々懲らしたる

 

すると同室の別のおじいさんも声を合わせて歌いだす。2人とも力強く歌うのである。

その歌を聴きながら私は、日本が中国に侵略したのに、「懲らしめる」はないよなぁ、と思ったものである。

 

ざっと計算すると、彼らは1910年あたりに生まれている。満州事変があった1931年の時に二十歳前後である。大正デモクラシーの空気も経験したが、青年時代は軍国主義を生きた人たちだ。歌詞の内容を本気で信じている、というよりも、青春時代の懐メロとして、青春時代を思い出させる懐かしい歌として記憶しているのだろう。中国人としては、たまったものではないだろうが。

 

最近ふとそんなことを思い出した。で、こんなことも思ったのである。

 

数年前、クリントイーストウッド監督の「硫黄島」を見た。硫黄島は激戦地だったが、アメリカ軍もきっとこんな歌を歌っていたんだろうな、と。

 

ここはお国の何百里  離れて遠き太平洋  敵を散々懲らしたる

 

まあ、こちらは今でも正当化できるのだろう。ファッショ体制の悪の枢軸国を懲らしめたのだ、と。

 

話は変わるが、数年前、イスラム教徒の多い国々を旅行したことがあった。そこで時々言われたのである。

日本の神風(特攻隊)は素晴らしい、と。

またこんなことを聞かれることもたまにあった。日本はアメリカに原爆を落とされて、悔しくないのか、と。

またこんなことを言う人にも会った。東京大空襲をうけて、悔しくないのか、仕返しをしないのか、と。

で、私が、日本も中国に同じことをした、と答えると、黙ってしまったが。

 

これは私の印象だが、ムスリムは基本的にアメリカが嫌いである。もし私がムスリムでも、嫌いになっただろう。これだけイスラム教、イスラム教徒を目の敵にして、一方的にアフガニスタンを攻撃し、イラクを攻撃し、ソマリアに軍事介入し、シリアを攻撃し、イラクでは体制を転覆させ、時の大統領を処刑に導き、アフガニスタンとシリア(ソマリアもか)ではその後10年以上にわたる混乱に陥れた。好きになれ、というほうが無理だろう。

 

アメリカのこのような行為がアメリカへの憎しみを生み、次のテロを醸成してしまう。アメリカが分かっているのか分かっていないのか、知らないが。

 

で、また話は飛ぶが、私はアメリカンハードボイルドが好きである。1990年代ごろまでに書かれた主人公は超人的であった。超人的にタフで、超人的に喧嘩が強く、そして武器の扱いが上手かった。その主人公の経歴になくてはならないものが、ベトナム帰りだった。ベトナム戦争アメリカ社会と経済を疲弊させ、若者たちのサブカルチャー文化に駆動力を提供し、ドルショック(ドルと金の交換停止)を導いた。

そしてハードボイルド小説におあつらえ向きの経歴も提供したのである。

 

ではベトナム戦争が始まる前の小説の主人公は超人の根拠づけを何に頼ったのか。沖縄戦である。1950年代のハードボイルドを読むと、主人公のタフさは沖縄戦を経験したことに由来していることが多かった。

それを読んで、へー、っと思ったのである。沖縄に旅行した時、こんな話を聞いたことがあった。

アメリカ兵が沖縄戦で最も恐れたのは、日本兵ではなく、ハブだった、と言うものである。

日本兵をなめた話だが、やはりアメリカでは激戦地として認識されていたのだ。まあ、本土で唯一地上戦が行われた場所だから、当然かもしれないが。

 

で、話はまた老人病院に戻るが、1990年ごろに経験したあの仕事は私の仕事観を変えた。楽しくて仕方なかったのである。朝起きた瞬間から、行くのが楽しみだったのである。何が楽しみかというと、お爺ちゃんやお婆ちゃんと話すのが楽しかったのである。それまで、仕事とはつまらなくて、我慢するものだった。そして、こんな仕事があったのか、と思った。

休憩時間にお爺ちゃんのところに行って、若い頃の話を聞くのが楽しかった。お婆ちゃんから地元の料理の話を聞くのが楽しかった。

今でも時々、ベットに横たわった姿を名前とともに思い出すことがある。

 

なぜあんなに楽しかったのか、を考えると、あることに私は気づく。それは、ヘルパーのほうが患者さんより身分が高かったのである。

「ヘルパーさん、売店でお菓子を買ってきてください」「ヘルパーさん、おむつを交換してください」

あの頃の患者はまだ権利が低く、ヘルパーにお願いする立場にあった。

つまりそれほど気を遣って接しなくても良かったのである。もっと言えば、上から目線で良かったのである。気分が良くて当然であった。その上に胡坐をかいて、私は良い気分になっていたのである。

 

少年老い易く、学成り難し、か。意味が分からないが。