imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 勘違い「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」高村光太郎? 2024年4月24日

この歌を長らく高村光太郎の歌だと思っていた。光太郎が、精神疾患になった智恵子と房総半島に療養、滞在した時、すっかり変わってしまった智恵子を嘆き悲しんだのだ、と思っていたのである。実際は石川啄木であった。

 

人生勘違いだらけである。勘違いとはミスコネクティング、2つの情報を間違って接続してしまうことだが、間違う、とはすべてミスコネクティングだと言っていいと思う。

なぜミスコネクティングしてしまうかと言えば、2つの情報がある概念で共有されてしまうからだ。

今回の例で言うと、上記の歌の言葉のイメージと、高村光太郎と智恵子の房総旅行のイメージが一致、重複したのだろう。われ泣きぬれて蟹とたはむる、と、智恵子が千鳥と遊ぶ、のイメージが重複した。別の言葉で言えば、親和性が高かった。または同じ集合に括ってしまった。

 

ここ数年、しばしば人の話の内容をミスコネクティングして間違った解釈をしてしまうのだが、上記の解釈を敷衍してその理由を予想すると、

 

1  会話中の節(ひとつの主語と述語の塊)や語の文脈が抜けおちて、語自体の概念だけが残っている。別の言い方をすれば、コンテクストが抜け落ちて、テクストだけが残っている。結果、語自体の普遍的概念だけが残って、文脈をわきまえられなくなり、より広い概念と接続しやすくなっている。故にミスコネクティングが起きやすくなる。

 

だとすると、なぜコンテクストが失われるのだろう。

予想されるのは、老化のため、短期記憶が失われて、その場で生成、獲得されるコンテクストが不明瞭になってしまった。故に、長期記憶に保存されている語の普遍的概念だけが残っているので、ミスコネクティングが起こりやすくなっている。短期記憶原因説である。

 

2  また別の解釈もあり得る。

会話中の節や語の私のイメージ、それは過去の体験に依存しているが、そのイメージに引っ張られている可能性がある。「泣きぬれて蟹とたわむる」が、『智恵子抄』の悲しい気持で浜辺で千鳥と遊ぶ、という過去の記憶を刺激して二つの情報が共有されてしまったのがその一例である。

 

改めて思い返してみると、この種の記憶違いは若い頃からあったと思う。子供の頃、かるた取りとしての百人一首をしてよく遊んだが、大人になって歌の記憶が薄れていき、上の句と下の句が一致しなくなった。例えば、「月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ」 の後、「悲しけれ」の意味に引っ張られて、涙を連想してしまい、「わがころもでは 露にぬれつつ」がミスコネクティングしてしまう。しかも実際の歌では、袖を濡らすのは露なのだが、掛詞(かけことば)として涙が連想されているのである。正解は「わが身ひとつの 秋にはあらねど」で、出だしの「わが」が同じなので親和性がより高くなっている。

また例えば、手に鍵を持っていて、目の前に小さな穴があったので、何となく差し込んでしまった、というのもこの種のミスコネクティングだろう。長期記憶原因説である。

 

以上をまとめると、年齢に限らずに起こるのは、長期記憶由来のミスコネクティングで、それに加えて、人生の後半に短期記憶力が衰えてくると、短期記憶力の低下故に文脈を失ってしまったミスコネクティングが起こる。

 

経験的に言うと、60歳を過ぎると、日常的に短期記憶由来のミスコネクティングを経験しているように思う。後から考えると、どうしてこんな信じられない勘違いをしたんだろう、と思うことがしばしばである。不思議なのだが、そのときは何の疑問もなくミスコネクティングしてしまうのである。