ここでは差別を以下の概念として使う。
ある人をある集団に帰属させて、その集団にマイナス評価を与え、その結果ある人にマイナス評価を与えること。
もしくはその逆でもよく、マイナス評価されているある集団に、ある人を帰属させ、ある人をマイナス評価すること。
例えばある民族の特徴が日本人より自己主張が強い場合、それ自体が民族的劣性になるはずはない。と言うのも環境に対して何らかの優位性があったから獲得された特徴だからだ。
例えば日本人のマジョリティーが同調圧力が強い場合、それ自体が民族的劣性になるはずはない。それは存続するのに有利に働いたからこそ獲得されたからだ。
ある一つの特徴が常に優位に働くということはない。逆もまたしかりである。ある特徴は、ある局面では優位に働き、別のある局面では不利に働く。
例えば日本人の同調圧力の強さは、非常時には優位に働くはずである。一致団結して事に当たれるからである。しかし平時にはお互い足を引っ張り合って、創造性を発揮しにくい。
これは個人の性格についても同様のことが言える。ある性格は、ある場面では優位に働き、ある場面では不利に働く。
ではある集団がみすぼらしい場合はどうか。みすぼらしい、不潔、臭いなどは、価値としてプラス評価しにくい。そういう集団は差別されても仕方がないのか。
少し考えれば分かるが、ある集団が好んでみすぼらしいことを選択するはずはない。それには何か事情があるのである。例えば敗戦して間がない日本はダニ・シラミが蔓延していたようだけれど、日本を訪れたアメリカ人はそこに非常にみすぼらしく不潔な日本人を見たはずである。しかしもちろんこれは日本人がそもそもみすぼらしく、不潔が好きなのではない。事情があったのである。
同じようにある国のあるマイノリティーグループがみすぼらしい、つまり貧しいことがよくある。これも彼らが貧しいことが好きなのではなく、条件の良い職場に就職できないからである。
ではある人が不潔な場合はどうか。もちろんそこにも事情があるだろう。例えば両親が家庭の維持を半ば放棄した家で育ち、衛生感覚を身に付けられなかった。
また、あまり衛生的であることを気にしない、気にならない、障害も含めた性格・個性なのかも知れない。本人にはどうしようもないことである。であるならば大きく変わるのは難しいだろう。もしそれが自分だったら、と考えれば明らかである。
つまり人を見下す正当な理由を見つけるのは難しいと思う。にもかかわらず差別は日常的に存在する。それはなぜか。
以上の例を踏まえて、その理由を抽象化すると、以下のようになると思う。
人にマイナス評価を添付するのは、人を見下したいからだ。そういう心の傾きがある。
ではなぜ人を見下したいのか。
1 ある人の中に見たくない自分を見て、自分はそんなではない、と感情的に否定してしまい、その手段として相手にマイナス評価を添付する。いじめでは、よくある構図だと思う。