imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 教育や学習について思うこと 2022年11月

私は子供たちを預かる施設と関りがあるのだけれど、大人たちが子供のことを思って接しても、当の子供たちはその意味を理解していない。もしくは反発して理解したくないのだろう、と言う場面を時々見かける。

自分が子供のときを振り返ってみると、父親に、世界にたった3人しかいない兄弟なのだから、もっと大切にしろ、とよく言われた。その時はもうひとつピンと来なかったし、しばしば兄弟げんかをしていたので、相手憎しの気持ちが強くて、素直にその言葉を聞けなかった。

大人になってからその言葉を時々思い出すのだけれど、世界にたった3人しかいない、と言う意味をしみじみ実感できるようになった。また父親がどういう気持ちでそれを言っていたかも想像できるようになった。

別の言葉で言えば、学習したのだと思う。

 

そこから類推すると、子供がその意味を理解していないからと言って、子供がその言葉に反応していないからと言って、働きかけるのをやめないほうが良いと思う。その時はその働きかけを受け入れられなくとも、時期が来た時にその意味を理解し、受け入れるようになるかもしれないからだ。可能性から言えば、受け入れられるようになるだろう、からだ。

 

教育や学習を、その時に意識的に獲得したことだけに限定すると、効率の悪い作業になると思う。

例えば、10教えたのに3しか理解しなかった。これを、その時に意識的に獲得したこと、で評価すると、時間を無駄に使ってしまった、と言うことになりかねない。3理解して、残りの7はバッファとして次回の理解の準備として積み上がっているかもしれない。

 

また例えば、懸垂を10回出来るようになろうと心に決めて毎日校庭に通ったが、結局3回しかできなかった。この結果を、その時に意識的に獲得したこと、で評価すると、失敗に終わった、と言うことになりかねないが、その時は気づかなくても、ひとつのことを目標に決めて、それに向って進むとはどういうことか、どんな気持ちになるか。努力するとはどういうことか。日々の生活にそれを取り入れるとき、どう時間をやりくりして調節するか、など多くのことを学習している。

 

つまり

教育については、月並みだけれど、子供の可能性を信じる、と言うことになると思う。

学習については、好きなことは何でも挑戦するのが良いと思う。たとえそれが社会的評価が低いことであっても、例えばマンガばかり読む、であっても、その実践で獲得できるものは、本人にとっても、周囲の人たちにとっても目に見えない多くのものを含んでいると思う。