imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

バカの考え休むに似たり、について 2022年11月

この人生に対する態度の前提は、

1 まず、自分はおバカさんである。

2 次に、おバカさんは考えても正しい結論を導けない、だろう。

 

1について

 

時間順で見れば、始めはすべての人は知識の量が少ないという意味で、おバカさんである。その意味では小学生はおバカさんである。その小学生が、バカの考え休むに似たり、と言われて、確かに僕はおバカさんだ、考えるのはやめとこう、ではすべての人がおバカさんどまりになってしまう。

 

能力について見れば、日常生活を最終的に一人で判断・実行している人は基本的能力は備わっている。あとは考えるか、考えないかの違いだ。

最初は壁が高くて思うように進まないイメージがあっても、考えることを続けていくと、慣れることによって心理的壁が低くなっていく。壁が低くなるのでますます考えることに抵抗が少なくなる。という正のスパイラルが起きる。

逆もまた然りである。考えないといつまでも慣れないので、ますます壁が高くなっていくのだ。

 

2について

 

まず数学には正しい結論と言うのがあるが、身の回りの社会に、正しい結論と言うのはなかなか確定しない、もしくは無い、と言うことを前提にしたうえで

私も一生懸命に考えた結論が間違っていた、もしくはどうも違うようだ、ということが時々ある。

もしすべての考えたことが間違っていれば、やる気をなくすだろう。しかし正しいことも間違っていることもあるのなら、フィードバックを効かせればいいのである。つまり何故間違ったのかを振り返り、間違った個所に戻り、その原因を突き止めるのである。そうすれば同じような箇所で次回間違うことが少なくなるだろう。試行錯誤の繰り返しである。その過程を楽しめばいいのである。

 

世の中に間違わない人はいない。ただ間違わない量と、間違う量の割合が違うだけである。であるなら気にする必要がない。楽しめばいいのである。

 

以上当たり前のことを書いてきたが、私の言いたいことは以下である。

 

上記のことを感情面から見ると

バカの考え休むに似たり、は、やらないことへの自分の言い訳になっていると思う。考えるのが面倒臭いのである。考えたほうが良いに決まっているということは薄々気づいているのだけれど、それに直面したくないのである。しかしそれを認めたくないので、とっておきの言葉を使って、自分に言い訳をしている。

したほうが良いに決まっていること、つまり課題、から逃避し続けた人生と、課題に楽しく向かい合った人生とでは大差がつくのは当然だと思う。

 

余談

 

多くの日本人が馬鹿になって一体だれが損をするのだろう、と思う。誰が得をするのだろうと思う。