imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 「目閉づれど 心に浮かぶ 何もなし 悲しくもまた 目をあけるかな」石川啄木 和歌 2024年4月9日

中学の時に出会い、勉強机に向かって座ったときによく口ずさんだ。鉛筆で紙に書いて机の正面の壁に貼っていた。

季語が無かったので、無名の僧侶が昭和に詠んだと思っていた。今回ネットで調べてみると大いなる勘違いであった。

 

中高生のころは、この歌に漂う虚無感が気に入っていた。

目をつぶって、心に何も浮かばないから、目をあけるのだけれど、じゃあ、それからどうしたらいいのだ、とよく思った。

 

啄木がこの歌を詠んだときは、結核で体調を崩して臥せっていたときだろう。だから目を閉じ続けても退屈なので、あけるしかなかった。

 

大人になってからだが、この歌は逆ではないか、と思うようになった。つまり

「目あけれど 心に浮かぶ 何もなし 悲しくもまた 目を閉じるかな」

である。健康な人だったら、こちらのほうがしっくりくると思う。普段は動き回っているからこそ、もう一度目を閉じて穏やかな気持ちで心の奥を覗いてみよう、と思えるだろう。

 

中学、高校生のビビドな時に親しんだこの歌は、私にとって相変らず特別の位置を占め続けている。




この歌の作者が啄木だったので、改めて啄木のことをネットで調べた。

 

以下参照した情報はほぼすべてウィキペディアの「石川啄木」に依る。よって浅薄な内容になっている。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%95%84%E6%9C%A8

 

小論文ほど長い記述であった。熱烈な啄木ファンがいるのだろう。

 

この歌は「悲しき玩具」に収められている。悲しき玩具とは、啄木にとっての和歌のことのようだ。病床に伏しながら、和歌を手慰みとして過ごした、という意味だろう。

 

そしてウィキペディアに書かれたその生涯を読んで驚いた。かなりいかれた人である。太宰治や尾崎放哉を思い出させる。

父親は寺の住職だったが、こちらもかなり常軌を逸した人のようだ。

 

太宰や放哉の、お金を貸してくれた人の信頼を裏切ってまで遊びに使ってしまうのは、今の言葉で言えば、いかにも依存症的である。嘘をついて金を無心し、大切な関係を破壊してまで何かにのめり込んでしまうのはいかにも依存症的だ。啄木はそこまでではなさそうだが、稼ぎがほとんどない割には、知人から借金をしてよく旅行をしている。父親も、親族の家を転々として居候をしている。こんな情けない親がいるのか、と思ってしまう。

 

また社会関係の範囲内で性欲を抑えられないようである。抑制が効かない。ざっくばらんに言えば、自己肯定感が低い。自己顕示欲が強い。

 

肺病で周囲の人が次々と亡くなっていくのも今から見ると一種異様である。

1912年母が結核死、同年啄木も26歳で結核死、翌1913年妻の節子結核死、1930年長女の京子肺炎死、同年次女の房江結核死。啄木夫婦の間に子供は2人しかいなかった。

エッセイ 菓子箱をすぐに捨てる人

年度末を挟んで、人の移動があり、職場で菓子折りをいただく機会が増えた。少人数の職場なので、いただいたお菓子は人数分に分けてすぐに配ってしまう。

 

多くの場合、菓子箱に栞と共に入っている。

 

さて、お菓子を配るとき、菓子箱と栞を見える場所にしばらく置いておく人と、すぐに捨てる人がいる。

 

私はその商品の売り言葉や原材料、メーカー、その所在地などを知りたいので、他の人の為にも箱を置いておく。

 

1 ではすぐに箱を捨てる人とはどんな人なのだろうか。お菓子そのもの以外には興味がないのだと思う。つまり付随情報に興味がない。

以下の可能性があると思う。

 

1) 食べ物に興味がない。甘ければそれでいいだろう。

2) 五感を信じている。つまり味覚、食感をこそ大切にする。五感を大切にする人なのだ。講釈抜きの出たとこ勝負な人だと思う。自分の五感に自信がある。更に発展させれば、無茶振りが得意だろう。その瞬間その瞬間をより楽しめる可能性のある人だと思う。

 

2 かたや私のように付随情報が気になってしまう人とはどんな人か。自分と対象物の間にワンクッション置きたいのである。ダイレクトに五感情報が入ってくることに抵抗がある。心の準備が必要なのである。だとすると、普通に考えて無茶振りが苦手だろう。偶有性を楽しめない。

 

別の例を挙げると、これは私の話なのだが、冬、自分の部屋に入ったときに、まず温度計を見て、10度であることが分かってから、おお寒い、と感じるのである。箱をすぐに捨てる人なら、自分の部屋に入ったとき、おお寒い、と感じて、それから温度計を見て、ああ10度だもんな、と納得すると思う。

 

と言うようなことを、ゴミ箱に捨てられたお菓子箱を見て考えた。

エッセイ モロッコ旅行 お薦めの町 2024年4月5日

2018年3月から5月までモロッコを旅行した。私のおすすめの場所を紹介したい。

 

最低1か月の旅行を予定している人へのお薦めである。短期旅行であれば、行く場所に迷いはないだろう。マラケシュ、フェズ、カサブランカなど観光地が目白押しである。何でもない場所に行く余裕はないはずである。

 

ロッコの特徴はいろいろある。例えば国王が政治権力とイスラム教の宗教的権威の両方を兼ね備えていて、しかも国民からの支持が他国に比べるとかなり高い、それと関係しているが「アラブの春」でも権力基盤がまったく揺るがなかった、などあるが、旅行者にはあまり実感が持てない。旅行者にとっての特徴は、ベルベル人の占める割合が高いことである。国民の30%~40%を占める。私の知る限り国家としては世界一高い。ベルベル人北アフリカ先住民族である。

具体的には、アトラス山脈を境にして、地中海側がアラブ人世界、サハラ砂漠側がベルベル人世界である。少し大げさに言えば、風景も、雰囲気も、人々も一変する。言葉も変わるようだが私には分からなかった。

◎ Inezgane インジェガン

さて最初のお薦めは、地中海側の何でもない町である。観光客はほとんど見かけないが、交通の要衝となっていて、モロッコ人で賑やかである。モロッコの普通の都市を見るにはうってつけだ。

 

旅行者にとって良い町とは、良い宿屋と良い飯屋があることだが、この町はホテルも食堂も多い。食堂の種類も多く、食べ物に飽きることはなかった。

 

宿屋

 

Hotel Tazrouart  場所 9F48+WM8 Inezgane, Morocco 値段 シングルルーム60ディルハム +ホットシャワー5ディルハム  でトイレ、シャワー共同  2018年3月情報

 

町の中心地のバスロータリーから少し離れているので落ち着いている。バスロータリー周辺には安ホテルが林立しているが、私が到着した日は、表通りに面したホテルはすべて満室だった。おかげで静かな良い宿が見つかった。

宿も清潔で居心地が良かった。

 

食堂は特に記録していないので、目移りしてあちこち食べ歩いたのだと思う。

 

典型的な朝食。パン、ミントティー、チーズ、オリーブオイル。チーズをオリーブオイルにそのまま入れて、パンで潰しながら食べる。四角い白いのは角砂糖。

価格表 アラビア文字のみ 少し勉強すれば発音できるようになる

いろんな種類の魚のフライ 海が近いからだろう

ロッコと言えばエスプレッソ。日本の有名店の味が、何でもない町場の店で飲めることがあって、さすがモロッコ、と思う。


◎ Midelt  ミデルト

 

東西に走るアトラス山脈の主稜峰の北側に開ける広大な谷の中の小さな町である。少し歩くとすぐに広大な荒れ地や枯れ川に出る。地形について思いを馳せるのによい。標高1500メートルで年間降水量200ミリ弱の気候で、ここに限らずだが、日本では見かけない変わった多くの植物にも出会える。

宿の屋上?から周辺を見渡すと、不自然な建物が見える。カスバ(城砦建築物)だ。M7W3+363, Midelt, Morocco  水道が引かれていないので、多くの住民が転出していて、隣に新集落を作っている。内部は半ば崩壊していて、多少気持ち悪いが、建築は非常に興味深い。1階は主に家畜部屋(ヤギ)になっていて、住居は2階からである。

 

たまたま私が訪れた場所だけかもしれないが、ここより地中海側の丘陵地の農村に行くと、イヌを放し飼いにしているので、自由に歩きづらいが、ミデルトから南側、つまりサハラ砂漠側はなぜかイヌを飼っておらず好き勝手に歩ける。目についた、あれっ、と思った行きたい所に自由に行って、好奇心を満たせるのだ。

 

ここより山を越えたサハラ砂漠側は、降水量が更に少なくなり、枯れ川の水を利用したナツメヤシ畑はあるが、農村とか、ヤシ以外の農地は見られなくなり、町を外れるとただ荒れ地が広がるだけになる。つまり素人目からすると、どこも変わらない風景に見える。ミデルト辺りがその境目である。

 

トルコのアナトリア高原の東側こそがいかにもトルコらしいのと同様に、モロッコアトラス山脈以南のサハラ砂漠側こそが独特の文化と風景が広がってモロッコらしいと思う。このアトラス山脈以南に行くには急峻なアトラス山脈を越えなければならず、尾根越えルートは僅かしかない。ミデルトを通るルートはその主要ルートの一つである。なのでアトラス山脈以南に行くときに寄ればいいと思う。

 

宿屋

 

Hotel Restaurant Bougafer 場所 M7M4+3W Midelt, Morocco 値段 シングルルーム70ディルハム+ホットシャワー10ディルハム  トイレ、シャワー共同 slow Wifiあり   2018年5月情報

 

見た目もきれいなホテルで、部屋もこぎれいだった。名前の通り1階はレストランになっている。

町に安宿は僅かしかない。ここ近辺に固まっている。すべてのホテルで部屋を見てから決めてもよい。

 

飯屋

投宿していたホテルのすぐそばに早朝から開いているプロチェット屋(肉団子)があった。私は早起きで、かつその店のプロチェットが美味しかったので毎朝通った。円盤パンとミント茶で食べる。小さく地味な店で、入るのに勇気がいるかも知れない。カサブランカの観光客相手のぼったくり店と違い、壁に値段が張ってある。多くの地域でそうであった。

カスバ外観  集落要塞である

カスバ内の道。もちろん青天井の道もある。

 

映画評 レビュー「蜂の旅人」テオ・アンゲロプロス監督1986年公開 2024年4月1日

養蜂家の初老の男が家族を捨ててひとり蜜取りの旅に出る話である。道中、昔の友達を病院に見舞ったり、家出をした長女の店を訪ねたり、無人の実家に立ち寄ったり、若い娘と出会ったり。

幾つかキーワードになる言葉がある。ミツバチの分蜂で、「新しい女王は巣を飛び立って大空を飛びながらオス蜂と交尾をする」。若い娘が、「私を飛び立たせて」と男に言う。

 

娘を飛び立たせられなかった男は、人生に見切りをつけ、蜂箱をひっくり返し、ミツバチに刺されながら倒れて死んでいく。

 

映画には、この監督の今までの主題である、反体制、親共産、ギリシャ愛国のどれもがない。

 

まず始めに言ってしまうと、私はこの映画が全く不明であった。なぜ妻と別れたのか。別れた後に、なぜ妻のところに戻ったのか。若い娘にうんざりしたのに、なぜカフェに車を突っ込んでまで娘に会いに行ったのか。蜂に襲われて倒れた時、なぜ地面をタップしたのか。ハチに襲われて死んでいくラストも、あまりにも唐突過ぎて「なんじゃこりゃ」感に包まれてしまった。置いてけぼりを食らったのである。

 

もし男が娘と出会っていなければ、物語はどのように展開したのだろうか。もともと家族と縁を切った時点で、破滅の雰囲気が漂っている。旅の途中の他愛もない小さなことをきっかけに、同じような結末に至ったような気がする。だとしたら、男の結末は予定調和だった。これを衰退するギリシャのメタファと取れなくもないが、ギリシャは老人に擬せられるような存在なのだろうか。だとしたらかつて青年の時期があったということになるが、それはいつのことだろう。まさか古代ギリシャではないだろう。ただただ力の衰えた存在の例えかもしれないが。だとしたら、アメリカンポップ音楽でダンスを踊る若い娘は何のメタファだろう。

つまり、この男から、衰退していくギリシャを読み取るのはかなり無理があると私は思う。

 

若い娘は自分を傷つけながら今を生きているように見えるが、「シテール島への船出」(1984年公開)の「生きている実感が持てない」姉ヴォーラの少女時代かも知れない。

 

監督は何かをメタファとして伝えたかったのかも知れないが、私には伝わらなかった。思わせ振りな言葉や表現がちりばめられてあるが、実は思わせ振りだけがあって、何も考えていないのでは、と疑ってしまう。

 

1980年代前半のギリシャは1〜2パーセントのGDP成長率で、とても景気が良いとは言えないが、それでも安定成長を続けて社会が変わっていったのだろう。社会共通の不満が遠ざかり、アンゲロプロス監督もその対象を失っているように見える。



追記

 

古くからの友達で、廃業した映画館の支配人を演じたディノス・イリオプロスは1913年エジプト生まれフランス育ち、1935年にギリシャに移住、31歳で初ステージ、35歳で初映画出演を果たしている。50歳の1963年には自身でアテネに劇場を設立した。その後その経営に苦労したようである。Wikipediaによると、ギリシャで最も人気のあった俳優の一人である。生涯70本以上の映画に出演し、そのほとんどが主演だった。2001年87歳で亡くなっている。

 

病人を演じたセルジュ・レッジャーニは1922年のイタリア生まれ、子供の頃家族でフランスに移住した。第2次大戦中、反ナチスレジスタンス運動に参加している。43歳の時、歌も歌い始め、シャンソン歌手としてより成功したようである。また反体制派として若者に認知され、1968年の学生運動にも積極的に関わった。1980年息子の死をきっかけにして、鬱とアルコール依存症になった。つまりこの映画の撮影時は実際に状態が悪かった。映画では極上の酒を飲んでいたが、あれは酒ではなかったのかも知れない。晩年は絵も描いていたようである。2004年82歳で死亡。



エッセイ AI世代X 今後の世代の名づけ方 2024年3月29日

先日、山下祐介著「限界集落の真実」という本を読んでいると、限界集落の構成世代が書いてあって、まず昭和ひとケタ世代、次が団塊の世代、最後が潜在的団塊ジュニアの世代だった。

本書は世代論を展開していない。そして私はあまり世代論が好きではない。一つの世代にもいろんな人がいるでしょ、と思ってしまうからだが、社会学が社会を扱う際に、世代は有効な概念になるとは思う。

 

ということで世代について調べてみると、私は「新人類世代」(1955~67)のど真ん中であった。新人類など全く他人事のように聞いていたので意外である。この世代の特徴は、親が戦後教育を受けているので、以前の世代よりは人権を尊重するようである。

他に「しらけ世代」(1950~65)ともかぶっていて、前の世代の失敗した学生運動を見ているので、無気力、無関心、無責任でノンポリが特徴のようである。そういえば高校や大学の時、「お前ら、無気力すぎる」と教師、特に社会科の教師に馬鹿にされた記憶がある。しらけ、とは懐かしい響きである。さんざん揶揄されたことを思い出した。

 

弟はバブル世代(1965~70)に属しているようである。就職時にバブル経済を経験していて、旺盛な消費活動が特徴と書いてあった。妙に当たっていて笑えてくる。

 

戦後の世代を順に並べると、団塊、しらけ、新人類、バブル、団塊ジュニア、ミレニアル、ゆとり、Z、となる。

各区分はおおよそ経済状況に起因している。最後のZ世代が、生まれた時からネット接続環境にあった。つまり技術革新が直接の区分の理由になっている。

 

アメリカでの世代区分はもっと幅広く、

まずベビーブーマーで、日本の団塊の世代に当たる。

次がX世代で、それまでの世代から見ると、とらえどころがないのが特徴のようだ。

次のY世代はベビーブーマーJrのことだ。

最後がZ世代で、イラクアフガニスタンなど世界政策で失敗をつづけ、経済的にも落ち目な弱いアメリカを受容する世代だと説明される。



で、今後どんな区分によってどんな名前の世代が生まれてくるのか、予想してみた。グローバリズムを反映して世界共通の区分になるだろう。

 

以下は予想です。

 

今後は技術革新のみが区分の理由付けになる。共通名はAI世代である。それしかない。小分類名は、ローマ数字で表記され、共通名AI世代の後に接続する。

具体的には、AI世代ⅣとかAI世代Ⅹとかである。

小分類名の区分理由は、もちろんAIの進化で分けられる。チャットGPTで育った世代は、AI世代Ⅰである。

100年もすれば、つまり2120年ごろにはAI世代ⅩⅩ(20)辺りまでいっているだろう。

社会学を専攻する学徒は、ⅠからⅩⅩまでの各世代の年代と特徴を叩きこまれることになるだろう。

不景気や戦争や戦術核兵器使用は世代に多少の影響を与えるが、AIの技術進化ほどには区分に影響を与えない。

 

と言うように予想するが、今後の人類の特徴が、AIの状態に規定されることが本当にあるのだろうか。それは人の認知世界が深くAIに依存することを意味すると思うが、そんなことで本当にいいのか、とも思う。

今後、私たちの世界観はAIと共進化していくことになるだろう。

 

映画評 レビュー「シテール島への船出」テオ・アンゲロプロス監督1984年公開 2024年3月27日

あらすじは

 

https://movie.hix05.com/SouthEurope/angelopoulos03.cytel.html

 

簡略なあらすじは、主人公アレキサンドロスの父サピロが亡命していたソ連から32年ぶりに帰国し、かつての価値にこだわり、最初は村人たちに締め出され、次に国家からも締め出されて、ギリシャ国籍を持たないものとして、その妻カテリーナと共に筏で公海に駐留させられる。

 

主な出演者の性格は

映画監督アレキサンドロスの父サピロは、1946年から49年のギリシャ内戦時に反ナチス共産党支持者として戦ったが敗北、32年後に亡命先のソ連から帰国する。儲け話に乗らず、むらの放牧地を売ることに反対して村人たちと騒動を起こす。ギリシャ政府から滞在許可を取り消され、ソ連に送還されようとするが、本人が同意しなかったので乗船できない。やむなく取りあえずの処置として、筏に乗せて沖合に係留するが、サピロは動じない。自らの価値を信じている。覚悟が決まっている、というのか。

 

主人公アレキサンドロスの母カテリーナは、32年間、夫サピロの帰りを待った。ピサロソ連で家庭を持ち3人の子供がいることを知った後も、サピロと一緒にいようとし、映画の結末には自ら筏に乗り込む。

 

映画監督のアレキサンドロスはサピロに寄り添い、助力する。

 

姉のヴォーラは、父サピロの時流に乗らない生き方に反発し、サピロのサポーターとして連れまわされることにうんざりしている。自ら告白するように、何も信じることができず生きている実感が持てない。

 

シテール島とは、ギリシャ神話に出てくる愛の神アフロディテが海で生まれたあと最初に上陸する島である。

「シテール島への巡礼」という絵画が18世紀にフランスで描かれ、20世紀初頭にこの絵を見てプーランクが「シテール島への船出」を作曲、またドビュッシーが「喜びの島」を作っている。どちらも明るい曲である。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%B3%B6%E3%81%AE%E5%B7%A1%E7%A4%BC

 

映画は映画監督アレキサンドロスが子供時代の夢から目覚めるところから始まる。覚醒後もその気分が残っているようで、歩きながら軽くステップを踏む。目覚めた後、息子のサピロとも妻とも疎遠な関係が描かれる。

 

撮影所に行ったアレキサンドロスは、次の映画の主役の老人の配役が決まらずに悩んでいるところに、花売りの老人を見かけて後をつける。港で彼を見失ったところから、もうひとつの劇中劇が始まる。さっきまでは浮気相手の女優が姉のヴィーラとなって現れ、もうすぐ父が32年ぶりにここで下船することを告げる。そしてアレキサンドロスはすべてを了解して物語が自然に始まる。「私だよ」と言って船から降りてきたその父は、さっきの花売りだった老人である。

物語は劇中劇というより、自分が書いた脚本の物語の中に監督アレキサンドロスが自らが出演して、父の息子役を演じている、と言ったほうが適切だ。

 

帰国した父サピロは昔の価値を堅持する。周囲に対して動じない。若き頃、共産主義を信じて戦った。その記憶が生きる力を与えているように見える。

帰国時にサピロが信じていたものが共産主義か伝統的なギリシャの価値かは私には分からなかった。アンゲロプロス監督にとってそれはもうどちらでも良かったのかも知れない。

 

母カテリーナもサピロへの愛は動かない。今までも寄り添って来たし、これからも寄り添っていく覚悟を見せる。

 

対して姉のヴォーラは落ち着かない。こんな他人事に関わっていられない、という風情である。両親が筏で流れ去っていくときも、さっさとその場を立ち去る。

 

監督アレキサンドロスは自分が監督している映画の中に入ってしまった。白昼夢を観た、とも言える。

それは監督アレキサンドロスがそうあって欲しかったものだろうし、アンゲロプロス監督が訴えたいものだろう。

 

それはこれまでで明らかなように、サピロやカタリーナには確信があり、ヴォーラには確信がない。今のギリシャの人々には確信、価値観が持てない、ということだと思う。かつてファシズム帝国主義と戦っていた時は、確かな価値を信じられた。しかし1980年代にはかつてのように純粋に共産主義愛国主義反帝国主義を信じられなくなった。目の前から戦う敵がいなくなったのだ。映画が作られた1980年代はギリシャでは中道左派政党PASOKが社会主義政権を運営していた。その社会主義政権もバラ色ではなかったのだろう。だからアンゲロプロス監督は無国籍者を公海に放り出す無慈悲な政府を表現した。港湾労働者のためのお祭りも雨が降り、客も少なく物寂しげである。

この映画でアンゲロプロス監督は共産主義に別の価値、古い世代にとっての確かなもの、を見出したのかも知れない。

PASOKは、同じ監督の1977年公開の映画「狩人」の主人公の一人である政治家のパパンドレウが自ら作り、党首を務めた政党である。

1989年以降PASOKは政権の座を失うが、きっかけは汚職である。

信じられる価値を失ってギリシャが漂流し始めている。

 

妻子とも上手くいかず、女優とも本気になれない、寄る辺ない身の虚しさを感じている監督アレクサンドロスが、自ら出演し、監督している物語で求めているのは、サピロとカテリーナの確かな愛だろう。アレクサンドロスの希望を投影している。

 

サピロがしばしば口走る「しなびたリンゴ」とは何の隠喩だろうか。かつての同志と再会した時、「真っ赤なリンゴ」の歌を歌いあったが、それと対になっている。しなびたリンゴとは、精気を失ったつまらない村社会、つまらない国家の管理社会を表現しているのか。

 

結末では、2人の乗った筏のもやい綱をサピロがほどいて漂流し始める。これから愛の島シテール島に向うというのに2人の表情に全く喜びはない。

劇中劇の合間でロケハンからの留守電にあったように、これからシテール島でロケが始まるというのに。

 

さて、私はこの映画を観て何を感じたか。1980年代にはあった前提、皆が信じられる確かなものが何処かにあるはずだ、という前提は、今は存在しない。誰もそんなものの存在を期待していないだろう。「人生、こんなもんだろ」である。

豊かになって、それぞれの価値を追求できるようになって、共通の価値が失われた。

そういう観点からこの映画を観ると、確かなものを得ようとして右往左往する監督アレクサンドロスのふるまいを、かつての自分を見るようで、妙に懐かしく感じるのである。

 

他に、アンゲロプロス監督が今までこだわってきた主題、ギリシャ愛国がこの映画では抜け落ちている。それと不可分だが、大国によるギリシャ国内への干渉も描かれていない。監督の中で、フェーズが変わった可能性がある。もちろん外的環境も変わったのだろう。



追記

 

 

  • 1974年までは非合法化されていたギリシャ共産党は1980年代を通して有効得票率の10%程度を獲得している。



  • サピロ役のマノス・カトラキスは実際にギリシャ内戦に参加し、戦後、懺悔改心の署名をしなかったので、政治犯として監獄島マクロニソスに投獄されている。映画公開年の1984年に76歳で亡くなった。

また劇中劇でもずっと付き添った内戦の同志役のディオニシス・パパジャノプロスも1984年71歳で亡くなっている。

 

  • 私はこの映画を観た時、監督アレキサンドロスの白昼夢への移り変わりに気が付かなかった。花売りが父親になったので、この監督お得意の時間の入れ替えなのかな、と思っていた。

この映画に限らず、アンゲロプロス監督の映画は、時間の前後があったり、ワンシーンの中で時間が移っていたり、ギリシャの現代の歴史を知らないと理解できなかったり、といろいろ仕掛けがある。

ここから分かるのは、映画をお気楽に見るな、考えろ、という監督の基本姿勢である。そういう意味で、監督も確信を持っていると思う。

エッセイ 「風流 無常 一大事 」 楽しめる変化と楽しめない変化 2024年3月26日

風流とは、自然の移り変わりを感じる心性である。風流には美しさが含まれる。具体的には、

桜が咲く、散る、月が満ちる、欠ける、紅葉が散る、富士に雪が積もる、菜の花が咲く、などなど。

 

無常とは、自然や社会の移り変わりを感じる心性である。無常は寂莫、悲哀を含む。具体的には、

風流で表現される、花が散る、月が欠ける、なども含むが、猛きものが滅びる、かたち麗しい人が老いさらばえる、人の死、などなど。

 

一大事とは、心を感じる余裕のないことである。具体的には、

子の死、自宅の火事、破産、自身の身体機能の喪失、などなど。

 

さて、こうやって3つを並べて見ると、風流ほどその変化を楽しみ、一大事に向かうほど、その変化を楽しめない。

 

つまり、当たり前だが、自分の損害が大きくなるほど楽しめなくなってくる。他人の損害ならまだ楽しめるが、我がこととなるとそうはいかない。

 

結局3つの違いは、心に余裕があるかどうかだろう。損害や変化が自分から遠ければ遠いほど心に余裕を持てる。つまり楽しむことが出来る。

 

では心に余裕があるとは、どういう状態なのだろう。

 

余裕にはいろいろな定義があり得るが、ここでの私の定義は以下のようである。

 

その出来事をメタ認知できること。具体的には、その出来事をすべてだとは見なさず、全体の中の一部だと見なすことである。抽象的に言うと、上から俯瞰することだ。

 

例えば、Aさんが私を騙したとする。その時、畜生、あいつ俺のことを騙しやがって、と反応するのが、その出来事をすべてだと見なすことである。

それに対して、Aさんはなぜ私を騙したのだろう。もともと親子関係に問題があって、自己肯定感が低く、侵害されやすいので、何か勘違いをして私にお門違いな反撃をしたのだろうか。とか、Aさんは、BさんやCさんと仲が良く、その付き合いからやむをえず私を騙したのだろうか、と反応するのが、その出来事を全体の中の一部として見ることである。

 

しかし果たして、子の死、自宅の火事、自身の身体機能の喪失時に、余裕をもって、つまりメタ認知できるだろうか。

 

緊急時の出来事のメタ認知は難しい。自宅の火事の時に、家を手に入れるまでの物語と、焼失後の暮らしを見通して、目の前の火事を部分化するのは難しい。

しかし緊急性のない出来事、子の死や自身の身体機能の喪失ならメタ認知できる可能性がある。というより、人は長い時間をかけて折り合いをつけながら生きていく。折り合いをつける、とは、「すべて」を「全体の中の一部」に変える行為だろう。

 

結局、

 

メタ認知は世界と自分との間にバッファゾーンを作る装置である。他人からの、社会からの、外界からの、世界からの衝撃を直接受けることから自分を守ってくれる便利な装置である。

 

一大事を無常に、もしかしたら無常を風流にまで持って行ってくれるかもしれない。だとしたら怖いものなしである。

 

メタ認知は思考法である。方法なので訓練すれば上達する。訓練とは具体的には、俯瞰する癖をつけることだと思う。基本は、時間的に過去と未来を行き来することと、平面的には自分の周囲から地域、世界に広げていくことだ。

 

追記

 

社会的変化の無常を自然の移り変わりの風流に持って行くのは難しく思うかもしれないが、社会も所詮は自然が作り出しているものだ、と考えれば風流に持って行けるかもしれない。

エッセイ 「花散らで 月は曇らぬ 世なりせば 物を思はぬ わが身ならまし」西行 和歌 2024年3月23日

図書館の新着本のコーナーに島薗進著「死生観を問う」という本が並んでいた。宗教学者である氏の本を何冊か読んだことがあった。

 

この本の中に表題の西行の詩が載せてあった。西行平安時代末期から鎌倉時代初期に和歌で活躍した僧侶である。

 

大意は

 

もし桜が散ることもなく、満月が雲に隠れることもなければ、物を思い煩うこともなかっただろうに

 

出典は「山家集」の春歌の段からである。

 

この歌を読んだとき、頭が混乱した。その理由の一つは、二重否定を使っているからだが、より混乱したのは、物を思わない、つまり、思い煩わない、ことを困ったことと思っているのか、それとも反語的にそれが良いのだ、と評価しているのか良く分からなかったからである。

 

1 もし困ったことと思っているのなら、花は散ることもなく、月は曇ることがないほうが良い、ということになり、何の奥行きもない感情の表現になってしまう。良いことはいつまでも続いてほしい、とは、いつでも誰でも思っていることである。わざわざ歌で表現するほどのことではないだろう。

 

2 もし良かったと思っているのなら、花は散り、月は曇るから移り変わりを、世の儚さを感じて良いのだ、ということになる。これならば、ありきたりだが、ああ風流だな、ということになろう。

 

しかし考えてみれば、「わが身ならまし」の「まし」は仮想現実の表現法なので、現実を否定的に評価し、仮想を肯定的に評価するときに使う用法である。もし何々であればよかったのに、という表現法だ。つまり1の用法で使っている可能性が高い。

 

この解釈は混乱ではなく、疑問を呼ぶ。いやしくも雅な風流人である西行が、花が散ることや、月が曇ることを何のひねりもなく思い煩うことがあるのか。花は散らないで欲しい、月は曇らないで欲しい、と表現することがあるのだろうか。最も美しいときよ、最も盛んなときよ、移りゆかないでくれ、と願うのか。これでは身もふたもない。

 

この疑問を抱えたままもう一度この歌を読み直すと、西行の力点は、物を思い煩うことに置かれているようだ、ということに思い至る。花や月に重点を置いているのではなく、自分が思い煩ってしまうことを仮想現実を使って否定的に評価しているのだ。こんなにも思い煩うことは無かったろうに、どうしてこんなにも思い煩ってしまうのだろうか、と。

 

では思い患うことの何が問題なのか。

1 出家し俗世から離れているはずなのに、世俗のことに心煩わされてしまう。

2 人として心乱されるのがただただ嫌だ。

 

さすがに常識的に考えて1であろう。

 

だとすると次なる疑問が生まれる。西行が親しく接していた歌仲間はほとんどすべてが貴族である。寺社に寄進したかもしれないが、貴族は出家をしていない。世俗のことに煩わされて生きている。自然や恋の移り変わりに煩わされながらもそれを楽しんで生きていただろう。そのような価値観の中で、世俗のことに心煩わされることを嘆く歌が受け入れられるのだろうか。

西行は近代に見つけられた歌人ではなく、当時から有名な歌人であった。つまり平安末期の貴族は西行の歌を評価したのである。

 

この歌の私の解釈が正しいとすると、当時の貴族社会はこの歌を、この歌の価値を評価したということになる。つまり自ら世俗にまみれながら、脱世俗に憧れた。

 

このふるまいは十分にありうる。ありうるというよりごく日常だろう。真正を求めながら不正を生きてしまう、義を求めながら不義を生きてしまう。人とはそういうものだ。

 

ということを前提にしたうえで、西行のもう一つ向こうの意図を考えてみる。

私はそれほどたくさんの西行の歌を知らない。この歌から予想される意図である。

 

それは以下のようだと思う。

仏道を求めて世俗のことから離れようと思っているにもかかわらず、どうしようもなく花や月に心が奪われてしまうのです”という表出である。つまり、私は風流人ですよ、私は数寄者ですよ、と言っているのである。

身分の低かった西行が親しく交流していたのは時の権勢を誇った有力貴族たちである。彼らに取り入るためには、自分が数寄者であることを表現することも大切だったのだろうと思う。

そして貴族は貴族で仏道に憧れる心持ちがあった。

実際は、貴族にそういう心持があったから、西行はそれに応える歌を詠んだのだろうが。

 

以上、結論は、

この歌は非常に皮相的なことを歌っている。文字通り、桜よ散らないでくれ、月よ曇らないでくれ、と。しかしその皮相的な表現の向こうに西行の数寄が透けて見えるようになっている。



追記

  •   西行には非常に有名な歌がある。

 

・嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな

 

百人一首に採られている。意味は

 

https://evrica.me/liberal-arts/1158

 

ここでの「物を思はする」は、好きだった人を思い出して嘆き悲しむ、という意味である。西行は23歳で出家しているので、好きだった人との出来事も出家以降のことだろう。出家をしていても、このようなことは許され、かつ歌に表現することもできた。




・願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ

 

西行はその通りの日に死んだのである。正確には1日違いだが。

それを聴いた藤原定家が以下の歌を詠んだ。

 

望月の ころはたがわぬ 空なれど 消えけん雲の ゆくへかなしな

 

親子以上の年の差があるが、良い関係だったのだと思う。



補足

 

表題の歌を私なりに細かく解釈した結果は以下のようである。

 

「花散らで 月は曇らぬ 世なりせば 物を思はぬ わが身ならまし」

 

まず「物を思はぬ」の物とは何のことだろうか。

1 男女の仲   平安時代ではお決まり事である。「人」と言えば恋しい人を意味するように。

2 世の移り変わり  人生の儚さ

3 桜の花や満月のといった自然の美しさの儚さ



次に「花散らで」を見ていく。

もし桜が散らなかったならば、どう思うのか。

1 肯定的 

1) 桜が散る、つまり世の儚さ、男女の関係の移り変わりを感じられてしみじみとした人生を楽しめるのだ。

2) 美しい自然が移り変わるからこそ、なおさら自然をいとおしむことが出来る。

 

どちらも現代的な意味の風流だと思う。

 

2 否定的  

1) 桜が散らなければ、つまり世の儚さを思い煩うことも、男女の仲を思い煩うこともなかったのに。ずっと楽しむことが出来たのに。

2) 自然の美しさがすぐに損なわれて非常に残念だ。ずっと維持されてくれればいいのに。

 

この感覚は風流から外れてしまっているだろう。楽しいだけの毎日や美しいだけの自然を求める心に風流を感じる傾きはない。



さらに「月は曇らぬ」を見る。

まず月が曇るとは何を意味しているのか、を考えると、

1 真理が通らない、正しさが通らない。

仏道が貫けない。煩悩に負けてしまう。

3 美しい満月が隠れて見れなくなる。

 

だとしたら、どう思うのか。

1 肯定的  

1)真理が通らなかったり、煩悩に負けてしまい生きる苦しみがあるが、そのことによって生きる目的を見いだせてよかった。

2) 美しい満月が見えなくなるからこそその瞬間の満月の美しさをいとおしむことが出来る。

 

1)は変に強気で不自然である。2)は風流で馴染みやすい。

 

2 否定的  

1) 心理が通らなかったり、煩悩に負けて仏道が通らず、思い悩んでしまい困ったものだ。

2) 美しい満月が雲に隠れてしまい、その美しさを愛でることが出来ない。ずっと隠れないでいてくれたらいいのに。

 

1)は凡人の感覚だろう。西行は出家しているが、煩悩に悩むことは当然である。2)は全く風流ではない。

 

さて、「花散らで」が肯定的な意味を持たせていたら、「月は曇らぬ」も肯定的な意味を持たせているだろう。もし否定的であれば、どちらも否定的な意味を持たせているはずである。

 

「花散らで」を否定的な意味を持たせると、上記のように風流でなくなるので、肯定的に取るしかない。だとすれば、「月は曇らぬ」も肯定的になり、この歌の読み方は以下の2つに絞られる。

 

1  桜が散る、つまり世の儚さ、男女の関係の移り変わりを感じられてしみじみとした人生を楽しめるのだ。そして、真理が通らなかったり、煩悩に負けてしまい生きる苦しみがあるが、そのことによって生きる目的を見いだせてよかった。

 

2 美しい自然、桜の花が移り変わるからこそ、なおさら自然をいとおしむことが出来る。そして、美しい満月が見えなくなるからこそその瞬間の満月の美しさをいとおしむことが出来る。

 

このうち1は後半部分が上記のように強気で違和感があるので、成立しない。

 

とすれば西行は2の意味で歌を詠んだ可能性が高いと思う。つまり「物を思う」とは、桜の花や満月のといった自然の美しさの儚さを感じるという意味だ。

全体を見渡すと、

 

もし桜が散ることもなく、満月が雲に隠れることもなければ、自然の儚さを感じることもなかっただろう。美しい自然がうつろいでくれてよかった。

 

この解釈が正しいとすると、正直に言えば、何のひねりもなく、もうそのままであると思う。

 

以上が「花散らで 月は曇らぬ」に重点を置いた私の 解釈である。しかし本文のように「物を思はぬ わが身ならまし」に重点を置くと本文のような解釈があり得る。つまり「花散らで 月は曇らぬ」を文字通りに解釈して、どちらも否定的に西行が評価したと解釈する。そして、いつまでも美しさを失わないでくれ、と風流から外れた解釈をしたときに、仏道を精進しているにもかかわらず私はつい美しさに心奪われてしまうのです、という別の風流人の西行が姿を現すのである。



エッセイ 平面ガラス 2024年3月19日

お勉強発表会である。新奇なものは何も無い。

 

先日 「ピータール」 という映画を見た時に、 皇太子、後のジョージ4世が乗った馬車に窓ガラスがはめ込まれてあった。時は1819年である。

群衆の一人がじゃがいもを投げつけてその窓ガラスを割ったのだ。 

 

こんな時代にヨーロッパでは窓ガラス、つまり平面ガラスがあったのか、と驚いた。ステンドグラスのように小さなガラスをたくさん繋いで平面を作るのは古くからあっただろうが、皇太子の窓ガラスは一枚の平面ガラスだったのである。

日本では文化文政年代に当たる。

 

調べてみると、当時の平面ガラスは吹きガラス法を使って製造されていたようである。筒の先に溶かしたガラスをつけて、息を吹き込んで膨らます、今でも使われている技法である。長い楕円形に膨らまし、側面を切り開いて平面を作った。透明ではあったろうが、今の窓ガラスとは違って、向こう側がいびつに見えただろう。大きさにも限界があった。しかし皇太子も含めて、当時の人はその大きさに驚いたはずである。

 

フランス起源のパサージュは、ガラスの天井で覆われたアーケード、歩行者専用道のことだが、18世紀末が発祥である。そのころには平面ガラスが作られていた。最先端の技法だったろう。天候に左右されずに散歩が出来るので人気があったようだ。

1851年には、ロンドンのハイドパークで第1回万国博覧会が開催され、鉄骨にガラスをはめ込んだ、総ガラス面の建物、水晶宮が作られている。

 

日本でガラス窓が普及し始めるのは明治以降である。製造技法は同じだったようだ。それまでは障子を使っていた。今でも和室にはガラス窓の内側に障子が仕切りとして使われる。ズボンをはくのにベルトを締めたうえに、サスペンダーまで使っている感じである。

 

1910年代に機械による連続製法がベルギーとアメリカで発明され、それ以降吹きガラス法から徐々に解放されることになる。溶かしたガラスの池から板状にガラスを引き上げていく方法だった。

第2次大戦中の車や戦闘機に使われたフロントガラスはこの製法で作られたのだろう。微妙に視界がゆがんでいたと思う。

今のような全く平面な窓ガラスは、1952年にイギリスで開発された、比重の重い溶かした錫の上にそれより比重の軽い溶かしたガラスを流して平面を作る。厚みも任意に変えれるようになった。

 

私が子供の頃、つまり今から50年ほど前は、障子戸のような木枠の中に模様の入ったすりガラスの敷居戸が部屋を仕切るのによく使われていた。あれはどういう位置づけだったのだろう。障子戸からガラス戸への移行期だったのだろうか。今では全く見なくなった。

エッセイ 部屋が片付いている人 2024年3月17日

私の机の上は片付いている。なぜなら、物があれこれ置いてあると、頭の中がごちゃごちゃになって収拾がつかなくなるからだ。もしくは収拾がつかなくなるような気がするからだ。

 

これをもう少し分析的に言うと、私は2つのことを同時にするのが難しい。自転車に乗りながら口笛を吹くぐらいならできるのだが、音楽を聴きながら本を読むとか、食事を楽しみながらお喋りするとか、ラジオを聴きながら調理をするのが難しい。難しいとは具体的に言うと、気がそぞろになって片方を失敗する、という事態だ。

 

さて

読書でもしようかと、机に向かう。ところが机の上に物があれこれ置いてあると、私にとっては、複数のタスクが要請されているような気分になる。机の上を見るだけで、あれもやらないと、これもやらないと、と頭の中でタスクが立ち上がってしまう。

 

ところが2つのことを同時にするのが私には難しい。で、頭の中がごちゃごちゃになってしまう。

 

そうなることを避けるために、私の机の上はいつも片付いている。可能な限り物を置かないようにしている。読書するときは、その本だけを置くようにしている。

 

さてさて

この構造を拡大すると、以下のことがいえると思う。

 

部屋が片付いている人の中には2つのことを同時にするのが苦手な人がいる、だろう。

 

これも私の体験からだが、部屋が散らかってる、と感じただけで、頭の中がぐちゃぐちゃになっているような気持になる。特に別々のタスクの物が重ねて置いてあるとちょっと手の付けようがないような気分になる。例えば読みかけの本の上にお菓子が置いてあったり、椅子の上に服と郵便物が置いてあったり。

部屋がきれいに片付いている人は、頭の中の、このごちゃごちゃ感を無くすために片づけている可能性がある。

 

まとめると、部屋がいつもきれいに片付いている人は、周囲からうらやましがられることがあるが、本人にとっては、切実な問題があって片づけているだけの可能性がある。

 

ここから更に類推すると、きれい好きの人、礼儀正しい人、いつも笑顔の人達も好きでやっているのではなく、何か必要に迫られてそれを実行している可能性がある。

 

では何に迫られているのか。漠然とした強迫感だろう。それは世間からの価値の圧力だったり、自分に課した自分でもよく分からない格率だったり、頭がごちゃごちゃになりそうな不安だったり。

 

これをさらに掘り下げると、抑圧されて忘却された欲望への回帰、の相似形として意識された強迫感ではないかと思う。その抑圧されたものとは、幼い頃の無垢さあたりではないかと思う。

 

余談

 

私の部屋は片付いてはいるが、きれいではない。それはつまりホコリは気にならない、という意味だ。整理整頓は頭の中を平安にするために必要に迫られてやっているが、ホコリはほとんど気にならない。特に触らない部分のホコリは全く気にならない。なぜ触りもしない所のホコリを拭かなければならないのか理解できない。

 

勢いついでに言ってしまうが、私にとって整理整頓されている、ということと、他の人がそう見るかは別問題である。私の部屋を見て、片付いている、と思う人は多分いないと思う。