中学の時に出会い、勉強机に向かって座ったときによく口ずさんだ。鉛筆で紙に書いて机の正面の壁に貼っていた。
季語が無かったので、無名の僧侶が昭和に詠んだと思っていた。今回ネットで調べてみると大いなる勘違いであった。
中高生のころは、この歌に漂う虚無感が気に入っていた。
目をつぶって、心に何も浮かばないから、目をあけるのだけれど、じゃあ、それからどうしたらいいのだ、とよく思った。
啄木がこの歌を詠んだときは、結核で体調を崩して臥せっていたときだろう。だから目を閉じ続けても退屈なので、あけるしかなかった。
大人になってからだが、この歌は逆ではないか、と思うようになった。つまり
「目あけれど 心に浮かぶ 何もなし 悲しくもまた 目を閉じるかな」
である。健康な人だったら、こちらのほうがしっくりくると思う。普段は動き回っているからこそ、もう一度目を閉じて穏やかな気持ちで心の奥を覗いてみよう、と思えるだろう。
中学、高校生のビビドな時に親しんだこの歌は、私にとって相変らず特別の位置を占め続けている。
この歌の作者が啄木だったので、改めて啄木のことをネットで調べた。
以下参照した情報はほぼすべてウィキペディアの「石川啄木」に依る。よって浅薄な内容になっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%95%84%E6%9C%A8
小論文ほど長い記述であった。熱烈な啄木ファンがいるのだろう。
この歌は「悲しき玩具」に収められている。悲しき玩具とは、啄木にとっての和歌のことのようだ。病床に伏しながら、和歌を手慰みとして過ごした、という意味だろう。
そしてウィキペディアに書かれたその生涯を読んで驚いた。かなりいかれた人である。太宰治や尾崎放哉を思い出させる。
父親は寺の住職だったが、こちらもかなり常軌を逸した人のようだ。
太宰や放哉の、お金を貸してくれた人の信頼を裏切ってまで遊びに使ってしまうのは、今の言葉で言えば、いかにも依存症的である。嘘をついて金を無心し、大切な関係を破壊してまで何かにのめり込んでしまうのはいかにも依存症的だ。啄木はそこまでではなさそうだが、稼ぎがほとんどない割には、知人から借金をしてよく旅行をしている。父親も、親族の家を転々として居候をしている。こんな情けない親がいるのか、と思ってしまう。
また社会関係の範囲内で性欲を抑えられないようである。抑制が効かない。ざっくばらんに言えば、自己肯定感が低い。自己顕示欲が強い。
肺病で周囲の人が次々と亡くなっていくのも今から見ると一種異様である。
1912年母が結核死、同年啄木も26歳で結核死、翌1913年妻の節子結核死、1930年長女の京子肺炎死、同年次女の房江結核死。啄木夫婦の間に子供は2人しかいなかった。