imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 「花散らで 月は曇らぬ 世なりせば 物を思はぬ わが身ならまし」西行 和歌 2024年3月23日

図書館の新着本のコーナーに島薗進著「死生観を問う」という本が並んでいた。宗教学者である氏の本を何冊か読んだことがあった。

 

この本の中に表題の西行の詩が載せてあった。西行平安時代末期から鎌倉時代初期に和歌で活躍した僧侶である。

 

大意は

 

もし桜が散ることもなく、満月が雲に隠れることもなければ、物を思い煩うこともなかっただろうに

 

出典は「山家集」の春歌の段からである。

 

この歌を読んだとき、頭が混乱した。その理由の一つは、二重否定を使っているからだが、より混乱したのは、物を思わない、つまり、思い煩わない、ことを困ったことと思っているのか、それとも反語的にそれが良いのだ、と評価しているのか良く分からなかったからである。

 

1 もし困ったことと思っているのなら、花は散ることもなく、月は曇ることがないほうが良い、ということになり、何の奥行きもない感情の表現になってしまう。良いことはいつまでも続いてほしい、とは、いつでも誰でも思っていることである。わざわざ歌で表現するほどのことではないだろう。

 

2 もし良かったと思っているのなら、花は散り、月は曇るから移り変わりを、世の儚さを感じて良いのだ、ということになる。これならば、ありきたりだが、ああ風流だな、ということになろう。

 

しかし考えてみれば、「わが身ならまし」の「まし」は仮想現実の表現法なので、現実を否定的に評価し、仮想を肯定的に評価するときに使う用法である。もし何々であればよかったのに、という表現法だ。つまり1の用法で使っている可能性が高い。

 

この解釈は混乱ではなく、疑問を呼ぶ。いやしくも雅な風流人である西行が、花が散ることや、月が曇ることを何のひねりもなく思い煩うことがあるのか。花は散らないで欲しい、月は曇らないで欲しい、と表現することがあるのだろうか。最も美しいときよ、最も盛んなときよ、移りゆかないでくれ、と願うのか。これでは身もふたもない。

 

この疑問を抱えたままもう一度この歌を読み直すと、西行の力点は、物を思い煩うことに置かれているようだ、ということに思い至る。花や月に重点を置いているのではなく、自分が思い煩ってしまうことを仮想現実を使って否定的に評価しているのだ。こんなにも思い煩うことは無かったろうに、どうしてこんなにも思い煩ってしまうのだろうか、と。

 

では思い患うことの何が問題なのか。

1 出家し俗世から離れているはずなのに、世俗のことに心煩わされてしまう。

2 人として心乱されるのがただただ嫌だ。

 

さすがに常識的に考えて1であろう。

 

だとすると次なる疑問が生まれる。西行が親しく接していた歌仲間はほとんどすべてが貴族である。寺社に寄進したかもしれないが、貴族は出家をしていない。世俗のことに煩わされて生きている。自然や恋の移り変わりに煩わされながらもそれを楽しんで生きていただろう。そのような価値観の中で、世俗のことに心煩わされることを嘆く歌が受け入れられるのだろうか。

西行は近代に見つけられた歌人ではなく、当時から有名な歌人であった。つまり平安末期の貴族は西行の歌を評価したのである。

 

この歌の私の解釈が正しいとすると、当時の貴族社会はこの歌を、この歌の価値を評価したということになる。つまり自ら世俗にまみれながら、脱世俗に憧れた。

 

このふるまいは十分にありうる。ありうるというよりごく日常だろう。真正を求めながら不正を生きてしまう、義を求めながら不義を生きてしまう。人とはそういうものだ。

 

ということを前提にしたうえで、西行のもう一つ向こうの意図を考えてみる。

私はそれほどたくさんの西行の歌を知らない。この歌から予想される意図である。

 

それは以下のようだと思う。

仏道を求めて世俗のことから離れようと思っているにもかかわらず、どうしようもなく花や月に心が奪われてしまうのです”という表出である。つまり、私は風流人ですよ、私は数寄者ですよ、と言っているのである。

身分の低かった西行が親しく交流していたのは時の権勢を誇った有力貴族たちである。彼らに取り入るためには、自分が数寄者であることを表現することも大切だったのだろうと思う。

そして貴族は貴族で仏道に憧れる心持ちがあった。

実際は、貴族にそういう心持があったから、西行はそれに応える歌を詠んだのだろうが。

 

以上、結論は、

この歌は非常に皮相的なことを歌っている。文字通り、桜よ散らないでくれ、月よ曇らないでくれ、と。しかしその皮相的な表現の向こうに西行の数寄が透けて見えるようになっている。



追記

  •   西行には非常に有名な歌がある。

 

・嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな

 

百人一首に採られている。意味は

 

https://evrica.me/liberal-arts/1158

 

ここでの「物を思はする」は、好きだった人を思い出して嘆き悲しむ、という意味である。西行は23歳で出家しているので、好きだった人との出来事も出家以降のことだろう。出家をしていても、このようなことは許され、かつ歌に表現することもできた。




・願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ

 

西行はその通りの日に死んだのである。正確には1日違いだが。

それを聴いた藤原定家が以下の歌を詠んだ。

 

望月の ころはたがわぬ 空なれど 消えけん雲の ゆくへかなしな

 

親子以上の年の差があるが、良い関係だったのだと思う。



補足

 

表題の歌を私なりに細かく解釈した結果は以下のようである。

 

「花散らで 月は曇らぬ 世なりせば 物を思はぬ わが身ならまし」

 

まず「物を思はぬ」の物とは何のことだろうか。

1 男女の仲   平安時代ではお決まり事である。「人」と言えば恋しい人を意味するように。

2 世の移り変わり  人生の儚さ

3 桜の花や満月のといった自然の美しさの儚さ



次に「花散らで」を見ていく。

もし桜が散らなかったならば、どう思うのか。

1 肯定的 

1) 桜が散る、つまり世の儚さ、男女の関係の移り変わりを感じられてしみじみとした人生を楽しめるのだ。

2) 美しい自然が移り変わるからこそ、なおさら自然をいとおしむことが出来る。

 

どちらも現代的な意味の風流だと思う。

 

2 否定的  

1) 桜が散らなければ、つまり世の儚さを思い煩うことも、男女の仲を思い煩うこともなかったのに。ずっと楽しむことが出来たのに。

2) 自然の美しさがすぐに損なわれて非常に残念だ。ずっと維持されてくれればいいのに。

 

この感覚は風流から外れてしまっているだろう。楽しいだけの毎日や美しいだけの自然を求める心に風流を感じる傾きはない。



さらに「月は曇らぬ」を見る。

まず月が曇るとは何を意味しているのか、を考えると、

1 真理が通らない、正しさが通らない。

仏道が貫けない。煩悩に負けてしまう。

3 美しい満月が隠れて見れなくなる。

 

だとしたら、どう思うのか。

1 肯定的  

1)真理が通らなかったり、煩悩に負けてしまい生きる苦しみがあるが、そのことによって生きる目的を見いだせてよかった。

2) 美しい満月が見えなくなるからこそその瞬間の満月の美しさをいとおしむことが出来る。

 

1)は変に強気で不自然である。2)は風流で馴染みやすい。

 

2 否定的  

1) 心理が通らなかったり、煩悩に負けて仏道が通らず、思い悩んでしまい困ったものだ。

2) 美しい満月が雲に隠れてしまい、その美しさを愛でることが出来ない。ずっと隠れないでいてくれたらいいのに。

 

1)は凡人の感覚だろう。西行は出家しているが、煩悩に悩むことは当然である。2)は全く風流ではない。

 

さて、「花散らで」が肯定的な意味を持たせていたら、「月は曇らぬ」も肯定的な意味を持たせているだろう。もし否定的であれば、どちらも否定的な意味を持たせているはずである。

 

「花散らで」を否定的な意味を持たせると、上記のように風流でなくなるので、肯定的に取るしかない。だとすれば、「月は曇らぬ」も肯定的になり、この歌の読み方は以下の2つに絞られる。

 

1  桜が散る、つまり世の儚さ、男女の関係の移り変わりを感じられてしみじみとした人生を楽しめるのだ。そして、真理が通らなかったり、煩悩に負けてしまい生きる苦しみがあるが、そのことによって生きる目的を見いだせてよかった。

 

2 美しい自然、桜の花が移り変わるからこそ、なおさら自然をいとおしむことが出来る。そして、美しい満月が見えなくなるからこそその瞬間の満月の美しさをいとおしむことが出来る。

 

このうち1は後半部分が上記のように強気で違和感があるので、成立しない。

 

とすれば西行は2の意味で歌を詠んだ可能性が高いと思う。つまり「物を思う」とは、桜の花や満月のといった自然の美しさの儚さを感じるという意味だ。

全体を見渡すと、

 

もし桜が散ることもなく、満月が雲に隠れることもなければ、自然の儚さを感じることもなかっただろう。美しい自然がうつろいでくれてよかった。

 

この解釈が正しいとすると、正直に言えば、何のひねりもなく、もうそのままであると思う。

 

以上が「花散らで 月は曇らぬ」に重点を置いた私の 解釈である。しかし本文のように「物を思はぬ わが身ならまし」に重点を置くと本文のような解釈があり得る。つまり「花散らで 月は曇らぬ」を文字通りに解釈して、どちらも否定的に西行が評価したと解釈する。そして、いつまでも美しさを失わないでくれ、と風流から外れた解釈をしたときに、仏道を精進しているにもかかわらず私はつい美しさに心奪われてしまうのです、という別の風流人の西行が姿を現すのである。