imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

映画評 レビュー「シテール島への船出」テオ・アンゲロプロス監督1984年公開 2024年3月27日

あらすじは

 

https://movie.hix05.com/SouthEurope/angelopoulos03.cytel.html

 

簡略なあらすじは、主人公アレキサンドロスの父サピロが亡命していたソ連から32年ぶりに帰国し、かつての価値にこだわり、最初は村人たちに締め出され、次に国家からも締め出されて、ギリシャ国籍を持たないものとして、その妻カテリーナと共に筏で公海に駐留させられる。

 

主な出演者の性格は

映画監督アレキサンドロスの父サピロは、1946年から49年のギリシャ内戦時に反ナチス共産党支持者として戦ったが敗北、32年後に亡命先のソ連から帰国する。儲け話に乗らず、むらの放牧地を売ることに反対して村人たちと騒動を起こす。ギリシャ政府から滞在許可を取り消され、ソ連に送還されようとするが、本人が同意しなかったので乗船できない。やむなく取りあえずの処置として、筏に乗せて沖合に係留するが、サピロは動じない。自らの価値を信じている。覚悟が決まっている、というのか。

 

主人公アレキサンドロスの母カテリーナは、32年間、夫サピロの帰りを待った。ピサロソ連で家庭を持ち3人の子供がいることを知った後も、サピロと一緒にいようとし、映画の結末には自ら筏に乗り込む。

 

映画監督のアレキサンドロスはサピロに寄り添い、助力する。

 

姉のヴォーラは、父サピロの時流に乗らない生き方に反発し、サピロのサポーターとして連れまわされることにうんざりしている。自ら告白するように、何も信じることができず生きている実感が持てない。

 

シテール島とは、ギリシャ神話に出てくる愛の神アフロディテが海で生まれたあと最初に上陸する島である。

「シテール島への巡礼」という絵画が18世紀にフランスで描かれ、20世紀初頭にこの絵を見てプーランクが「シテール島への船出」を作曲、またドビュッシーが「喜びの島」を作っている。どちらも明るい曲である。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%B3%B6%E3%81%AE%E5%B7%A1%E7%A4%BC

 

映画は映画監督アレキサンドロスが子供時代の夢から目覚めるところから始まる。覚醒後もその気分が残っているようで、歩きながら軽くステップを踏む。目覚めた後、息子のサピロとも妻とも疎遠な関係が描かれる。

 

撮影所に行ったアレキサンドロスは、次の映画の主役の老人の配役が決まらずに悩んでいるところに、花売りの老人を見かけて後をつける。港で彼を見失ったところから、もうひとつの劇中劇が始まる。さっきまでは浮気相手の女優が姉のヴィーラとなって現れ、もうすぐ父が32年ぶりにここで下船することを告げる。そしてアレキサンドロスはすべてを了解して物語が自然に始まる。「私だよ」と言って船から降りてきたその父は、さっきの花売りだった老人である。

物語は劇中劇というより、自分が書いた脚本の物語の中に監督アレキサンドロスが自らが出演して、父の息子役を演じている、と言ったほうが適切だ。

 

帰国した父サピロは昔の価値を堅持する。周囲に対して動じない。若き頃、共産主義を信じて戦った。その記憶が生きる力を与えているように見える。

帰国時にサピロが信じていたものが共産主義か伝統的なギリシャの価値かは私には分からなかった。アンゲロプロス監督にとってそれはもうどちらでも良かったのかも知れない。

 

母カテリーナもサピロへの愛は動かない。今までも寄り添って来たし、これからも寄り添っていく覚悟を見せる。

 

対して姉のヴォーラは落ち着かない。こんな他人事に関わっていられない、という風情である。両親が筏で流れ去っていくときも、さっさとその場を立ち去る。

 

監督アレキサンドロスは自分が監督している映画の中に入ってしまった。白昼夢を観た、とも言える。

それは監督アレキサンドロスがそうあって欲しかったものだろうし、アンゲロプロス監督が訴えたいものだろう。

 

それはこれまでで明らかなように、サピロやカタリーナには確信があり、ヴォーラには確信がない。今のギリシャの人々には確信、価値観が持てない、ということだと思う。かつてファシズム帝国主義と戦っていた時は、確かな価値を信じられた。しかし1980年代にはかつてのように純粋に共産主義愛国主義反帝国主義を信じられなくなった。目の前から戦う敵がいなくなったのだ。映画が作られた1980年代はギリシャでは中道左派政党PASOKが社会主義政権を運営していた。その社会主義政権もバラ色ではなかったのだろう。だからアンゲロプロス監督は無国籍者を公海に放り出す無慈悲な政府を表現した。港湾労働者のためのお祭りも雨が降り、客も少なく物寂しげである。

この映画でアンゲロプロス監督は共産主義に別の価値、古い世代にとっての確かなもの、を見出したのかも知れない。

PASOKは、同じ監督の1977年公開の映画「狩人」の主人公の一人である政治家のパパンドレウが自ら作り、党首を務めた政党である。

1989年以降PASOKは政権の座を失うが、きっかけは汚職である。

信じられる価値を失ってギリシャが漂流し始めている。

 

妻子とも上手くいかず、女優とも本気になれない、寄る辺ない身の虚しさを感じている監督アレクサンドロスが、自ら出演し、監督している物語で求めているのは、サピロとカテリーナの確かな愛だろう。アレクサンドロスの希望を投影している。

 

サピロがしばしば口走る「しなびたリンゴ」とは何の隠喩だろうか。かつての同志と再会した時、「真っ赤なリンゴ」の歌を歌いあったが、それと対になっている。しなびたリンゴとは、精気を失ったつまらない村社会、つまらない国家の管理社会を表現しているのか。

 

結末では、2人の乗った筏のもやい綱をサピロがほどいて漂流し始める。これから愛の島シテール島に向うというのに2人の表情に全く喜びはない。

劇中劇の合間でロケハンからの留守電にあったように、これからシテール島でロケが始まるというのに。

 

さて、私はこの映画を観て何を感じたか。1980年代にはあった前提、皆が信じられる確かなものが何処かにあるはずだ、という前提は、今は存在しない。誰もそんなものの存在を期待していないだろう。「人生、こんなもんだろ」である。

豊かになって、それぞれの価値を追求できるようになって、共通の価値が失われた。

そういう観点からこの映画を観ると、確かなものを得ようとして右往左往する監督アレクサンドロスのふるまいを、かつての自分を見るようで、妙に懐かしく感じるのである。

 

他に、アンゲロプロス監督が今までこだわってきた主題、ギリシャ愛国がこの映画では抜け落ちている。それと不可分だが、大国によるギリシャ国内への干渉も描かれていない。監督の中で、フェーズが変わった可能性がある。もちろん外的環境も変わったのだろう。



追記

 

 

  • 1974年までは非合法化されていたギリシャ共産党は1980年代を通して有効得票率の10%程度を獲得している。



  • サピロ役のマノス・カトラキスは実際にギリシャ内戦に参加し、戦後、懺悔改心の署名をしなかったので、政治犯として監獄島マクロニソスに投獄されている。映画公開年の1984年に76歳で亡くなった。

また劇中劇でもずっと付き添った内戦の同志役のディオニシス・パパジャノプロスも1984年71歳で亡くなっている。

 

  • 私はこの映画を観た時、監督アレキサンドロスの白昼夢への移り変わりに気が付かなかった。花売りが父親になったので、この監督お得意の時間の入れ替えなのかな、と思っていた。

この映画に限らず、アンゲロプロス監督の映画は、時間の前後があったり、ワンシーンの中で時間が移っていたり、ギリシャの現代の歴史を知らないと理解できなかったり、といろいろ仕掛けがある。

ここから分かるのは、映画をお気楽に見るな、考えろ、という監督の基本姿勢である。そういう意味で、監督も確信を持っていると思う。