imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 部屋が片付いている人 2024年3月17日

私の机の上は片付いている。なぜなら、物があれこれ置いてあると、頭の中がごちゃごちゃになって収拾がつかなくなるからだ。もしくは収拾がつかなくなるような気がするからだ。

 

これをもう少し分析的に言うと、私は2つのことを同時にするのが難しい。自転車に乗りながら口笛を吹くぐらいならできるのだが、音楽を聴きながら本を読むとか、食事を楽しみながらお喋りするとか、ラジオを聴きながら調理をするのが難しい。難しいとは具体的に言うと、気がそぞろになって片方を失敗する、という事態だ。

 

さて

読書でもしようかと、机に向かう。ところが机の上に物があれこれ置いてあると、私にとっては、複数のタスクが要請されているような気分になる。机の上を見るだけで、あれもやらないと、これもやらないと、と頭の中でタスクが立ち上がってしまう。

 

ところが2つのことを同時にするのが私には難しい。で、頭の中がごちゃごちゃになってしまう。

 

そうなることを避けるために、私の机の上はいつも片付いている。可能な限り物を置かないようにしている。読書するときは、その本だけを置くようにしている。

 

さてさて

この構造を拡大すると、以下のことがいえると思う。

 

部屋が片付いている人の中には2つのことを同時にするのが苦手な人がいる、だろう。

 

これも私の体験からだが、部屋が散らかってる、と感じただけで、頭の中がぐちゃぐちゃになっているような気持になる。特に別々のタスクの物が重ねて置いてあるとちょっと手の付けようがないような気分になる。例えば読みかけの本の上にお菓子が置いてあったり、椅子の上に服と郵便物が置いてあったり。

部屋がきれいに片付いている人は、頭の中の、このごちゃごちゃ感を無くすために片づけている可能性がある。

 

まとめると、部屋がいつもきれいに片付いている人は、周囲からうらやましがられることがあるが、本人にとっては、切実な問題があって片づけているだけの可能性がある。

 

ここから更に類推すると、きれい好きの人、礼儀正しい人、いつも笑顔の人達も好きでやっているのではなく、何か必要に迫られてそれを実行している可能性がある。

 

では何に迫られているのか。漠然とした強迫感だろう。それは世間からの価値の圧力だったり、自分に課した自分でもよく分からない格率だったり、頭がごちゃごちゃになりそうな不安だったり。

 

これをさらに掘り下げると、抑圧されて忘却された欲望への回帰、の相似形として意識された強迫感ではないかと思う。その抑圧されたものとは、幼い頃の無垢さあたりではないかと思う。

 

余談

 

私の部屋は片付いてはいるが、きれいではない。それはつまりホコリは気にならない、という意味だ。整理整頓は頭の中を平安にするために必要に迫られてやっているが、ホコリはほとんど気にならない。特に触らない部分のホコリは全く気にならない。なぜ触りもしない所のホコリを拭かなければならないのか理解できない。

 

勢いついでに言ってしまうが、私にとって整理整頓されている、ということと、他の人がそう見るかは別問題である。私の部屋を見て、片付いている、と思う人は多分いないと思う。