お勉強発表会である。新奇なものは何も無い。
先日 「ピータール」 という映画を見た時に、 皇太子、後のジョージ4世が乗った馬車に窓ガラスがはめ込まれてあった。時は1819年である。
群衆の一人がじゃがいもを投げつけてその窓ガラスを割ったのだ。
こんな時代にヨーロッパでは窓ガラス、つまり平面ガラスがあったのか、と驚いた。ステンドグラスのように小さなガラスをたくさん繋いで平面を作るのは古くからあっただろうが、皇太子の窓ガラスは一枚の平面ガラスだったのである。
日本では文化文政年代に当たる。
調べてみると、当時の平面ガラスは吹きガラス法を使って製造されていたようである。筒の先に溶かしたガラスをつけて、息を吹き込んで膨らます、今でも使われている技法である。長い楕円形に膨らまし、側面を切り開いて平面を作った。透明ではあったろうが、今の窓ガラスとは違って、向こう側がいびつに見えただろう。大きさにも限界があった。しかし皇太子も含めて、当時の人はその大きさに驚いたはずである。
フランス起源のパサージュは、ガラスの天井で覆われたアーケード、歩行者専用道のことだが、18世紀末が発祥である。そのころには平面ガラスが作られていた。最先端の技法だったろう。天候に左右されずに散歩が出来るので人気があったようだ。
1851年には、ロンドンのハイドパークで第1回万国博覧会が開催され、鉄骨にガラスをはめ込んだ、総ガラス面の建物、水晶宮が作られている。
日本でガラス窓が普及し始めるのは明治以降である。製造技法は同じだったようだ。それまでは障子を使っていた。今でも和室にはガラス窓の内側に障子が仕切りとして使われる。ズボンをはくのにベルトを締めたうえに、サスペンダーまで使っている感じである。
1910年代に機械による連続製法がベルギーとアメリカで発明され、それ以降吹きガラス法から徐々に解放されることになる。溶かしたガラスの池から板状にガラスを引き上げていく方法だった。
第2次大戦中の車や戦闘機に使われたフロントガラスはこの製法で作られたのだろう。微妙に視界がゆがんでいたと思う。
今のような全く平面な窓ガラスは、1952年にイギリスで開発された、比重の重い溶かした錫の上にそれより比重の軽い溶かしたガラスを流して平面を作る。厚みも任意に変えれるようになった。
私が子供の頃、つまり今から50年ほど前は、障子戸のような木枠の中に模様の入ったすりガラスの敷居戸が部屋を仕切るのによく使われていた。あれはどういう位置づけだったのだろう。障子戸からガラス戸への移行期だったのだろうか。今では全く見なくなった。