imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 「風流 無常 一大事 」 楽しめる変化と楽しめない変化 2024年3月26日

風流とは、自然の移り変わりを感じる心性である。風流には美しさが含まれる。具体的には、

桜が咲く、散る、月が満ちる、欠ける、紅葉が散る、富士に雪が積もる、菜の花が咲く、などなど。

 

無常とは、自然や社会の移り変わりを感じる心性である。無常は寂莫、悲哀を含む。具体的には、

風流で表現される、花が散る、月が欠ける、なども含むが、猛きものが滅びる、かたち麗しい人が老いさらばえる、人の死、などなど。

 

一大事とは、心を感じる余裕のないことである。具体的には、

子の死、自宅の火事、破産、自身の身体機能の喪失、などなど。

 

さて、こうやって3つを並べて見ると、風流ほどその変化を楽しみ、一大事に向かうほど、その変化を楽しめない。

 

つまり、当たり前だが、自分の損害が大きくなるほど楽しめなくなってくる。他人の損害ならまだ楽しめるが、我がこととなるとそうはいかない。

 

結局3つの違いは、心に余裕があるかどうかだろう。損害や変化が自分から遠ければ遠いほど心に余裕を持てる。つまり楽しむことが出来る。

 

では心に余裕があるとは、どういう状態なのだろう。

 

余裕にはいろいろな定義があり得るが、ここでの私の定義は以下のようである。

 

その出来事をメタ認知できること。具体的には、その出来事をすべてだとは見なさず、全体の中の一部だと見なすことである。抽象的に言うと、上から俯瞰することだ。

 

例えば、Aさんが私を騙したとする。その時、畜生、あいつ俺のことを騙しやがって、と反応するのが、その出来事をすべてだと見なすことである。

それに対して、Aさんはなぜ私を騙したのだろう。もともと親子関係に問題があって、自己肯定感が低く、侵害されやすいので、何か勘違いをして私にお門違いな反撃をしたのだろうか。とか、Aさんは、BさんやCさんと仲が良く、その付き合いからやむをえず私を騙したのだろうか、と反応するのが、その出来事を全体の中の一部として見ることである。

 

しかし果たして、子の死、自宅の火事、自身の身体機能の喪失時に、余裕をもって、つまりメタ認知できるだろうか。

 

緊急時の出来事のメタ認知は難しい。自宅の火事の時に、家を手に入れるまでの物語と、焼失後の暮らしを見通して、目の前の火事を部分化するのは難しい。

しかし緊急性のない出来事、子の死や自身の身体機能の喪失ならメタ認知できる可能性がある。というより、人は長い時間をかけて折り合いをつけながら生きていく。折り合いをつける、とは、「すべて」を「全体の中の一部」に変える行為だろう。

 

結局、

 

メタ認知は世界と自分との間にバッファゾーンを作る装置である。他人からの、社会からの、外界からの、世界からの衝撃を直接受けることから自分を守ってくれる便利な装置である。

 

一大事を無常に、もしかしたら無常を風流にまで持って行ってくれるかもしれない。だとしたら怖いものなしである。

 

メタ認知は思考法である。方法なので訓練すれば上達する。訓練とは具体的には、俯瞰する癖をつけることだと思う。基本は、時間的に過去と未来を行き来することと、平面的には自分の周囲から地域、世界に広げていくことだ。

 

追記

 

社会的変化の無常を自然の移り変わりの風流に持って行くのは難しく思うかもしれないが、社会も所詮は自然が作り出しているものだ、と考えれば風流に持って行けるかもしれない。