imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 「風流 無常 一大事 」 楽しめる変化と楽しめない変化 2024年3月26日

風流とは、自然の移り変わりを感じる心性である。風流には美しさが含まれる。具体的には、

桜が咲く、散る、月が満ちる、欠ける、紅葉が散る、富士に雪が積もる、菜の花が咲く、などなど。

 

無常とは、自然や社会の移り変わりを感じる心性である。無常は寂莫、悲哀を含む。具体的には、

風流で表現される、花が散る、月が欠ける、なども含むが、猛きものが滅びる、かたち麗しい人が老いさらばえる、人の死、などなど。

 

一大事とは、心を感じる余裕のないことである。具体的には、

子の死、自宅の火事、破産、自身の身体機能の喪失、などなど。

 

さて、こうやって3つを並べて見ると、風流ほどその変化を楽しみ、一大事に向かうほど、その変化を楽しめない。

 

つまり、当たり前だが、自分の損害が大きくなるほど楽しめなくなってくる。他人の損害ならまだ楽しめるが、我がこととなるとそうはいかない。

 

結局3つの違いは、心に余裕があるかどうかだろう。損害や変化が自分から遠ければ遠いほど心に余裕を持てる。つまり楽しむことが出来る。

 

では心に余裕があるとは、どういう状態なのだろう。

 

余裕にはいろいろな定義があり得るが、ここでの私の定義は以下のようである。

 

その出来事をメタ認知できること。具体的には、その出来事をすべてだとは見なさず、全体の中の一部だと見なすことである。抽象的に言うと、上から俯瞰することだ。

 

例えば、Aさんが私を騙したとする。その時、畜生、あいつ俺のことを騙しやがって、と反応するのが、その出来事をすべてだと見なすことである。

それに対して、Aさんはなぜ私を騙したのだろう。もともと親子関係に問題があって、自己肯定感が低く、侵害されやすいので、何か勘違いをして私にお門違いな反撃をしたのだろうか。とか、Aさんは、BさんやCさんと仲が良く、その付き合いからやむをえず私を騙したのだろうか、と反応するのが、その出来事を全体の中の一部として見ることである。

 

しかし果たして、子の死、自宅の火事、自身の身体機能の喪失時に、余裕をもって、つまりメタ認知できるだろうか。

 

緊急時の出来事のメタ認知は難しい。自宅の火事の時に、家を手に入れるまでの物語と、焼失後の暮らしを見通して、目の前の火事を部分化するのは難しい。

しかし緊急性のない出来事、子の死や自身の身体機能の喪失ならメタ認知できる可能性がある。というより、人は長い時間をかけて折り合いをつけながら生きていく。折り合いをつける、とは、「すべて」を「全体の中の一部」に変える行為だろう。

 

結局、

 

メタ認知は世界と自分との間にバッファゾーンを作る装置である。他人からの、社会からの、外界からの、世界からの衝撃を直接受けることから自分を守ってくれる便利な装置である。

 

一大事を無常に、もしかしたら無常を風流にまで持って行ってくれるかもしれない。だとしたら怖いものなしである。

 

メタ認知は思考法である。方法なので訓練すれば上達する。訓練とは具体的には、俯瞰する癖をつけることだと思う。基本は、時間的に過去と未来を行き来することと、平面的には自分の周囲から地域、世界に広げていくことだ。

 

追記

 

社会的変化の無常を自然の移り変わりの風流に持って行くのは難しく思うかもしれないが、社会も所詮は自然が作り出しているものだ、と考えれば風流に持って行けるかもしれない。

エッセイ 「花散らで 月は曇らぬ 世なりせば 物を思はぬ わが身ならまし」西行 和歌 2024年3月23日

図書館の新着本のコーナーに島薗進著「死生観を問う」という本が並んでいた。宗教学者である氏の本を何冊か読んだことがあった。

 

この本の中に表題の西行の詩が載せてあった。西行平安時代末期から鎌倉時代初期に和歌で活躍した僧侶である。

 

大意は

 

もし桜が散ることもなく、満月が雲に隠れることもなければ、物を思い煩うこともなかっただろうに

 

出典は「山家集」の春歌の段からである。

 

この歌を読んだとき、頭が混乱した。その理由の一つは、二重否定を使っているからだが、より混乱したのは、物を思わない、つまり、思い煩わない、ことを困ったことと思っているのか、それとも反語的にそれが良いのだ、と評価しているのか良く分からなかったからである。

 

1 もし困ったことと思っているのなら、花は散ることもなく、月は曇ることがないほうが良い、ということになり、何の奥行きもない感情の表現になってしまう。良いことはいつまでも続いてほしい、とは、いつでも誰でも思っていることである。わざわざ歌で表現するほどのことではないだろう。

 

2 もし良かったと思っているのなら、花は散り、月は曇るから移り変わりを、世の儚さを感じて良いのだ、ということになる。これならば、ありきたりだが、ああ風流だな、ということになろう。

 

しかし考えてみれば、「わが身ならまし」の「まし」は仮想現実の表現法なので、現実を否定的に評価し、仮想を肯定的に評価するときに使う用法である。もし何々であればよかったのに、という表現法だ。つまり1の用法で使っている可能性が高い。

 

この解釈は混乱ではなく、疑問を呼ぶ。いやしくも雅な風流人である西行が、花が散ることや、月が曇ることを何のひねりもなく思い煩うことがあるのか。花は散らないで欲しい、月は曇らないで欲しい、と表現することがあるのだろうか。最も美しいときよ、最も盛んなときよ、移りゆかないでくれ、と願うのか。これでは身もふたもない。

 

この疑問を抱えたままもう一度この歌を読み直すと、西行の力点は、物を思い煩うことに置かれているようだ、ということに思い至る。花や月に重点を置いているのではなく、自分が思い煩ってしまうことを仮想現実を使って否定的に評価しているのだ。こんなにも思い煩うことは無かったろうに、どうしてこんなにも思い煩ってしまうのだろうか、と。

 

では思い患うことの何が問題なのか。

1 出家し俗世から離れているはずなのに、世俗のことに心煩わされてしまう。

2 人として心乱されるのがただただ嫌だ。

 

さすがに常識的に考えて1であろう。

 

だとすると次なる疑問が生まれる。西行が親しく接していた歌仲間はほとんどすべてが貴族である。寺社に寄進したかもしれないが、貴族は出家をしていない。世俗のことに煩わされて生きている。自然や恋の移り変わりに煩わされながらもそれを楽しんで生きていただろう。そのような価値観の中で、世俗のことに心煩わされることを嘆く歌が受け入れられるのだろうか。

西行は近代に見つけられた歌人ではなく、当時から有名な歌人であった。つまり平安末期の貴族は西行の歌を評価したのである。

 

この歌の私の解釈が正しいとすると、当時の貴族社会はこの歌を、この歌の価値を評価したということになる。つまり自ら世俗にまみれながら、脱世俗に憧れた。

 

このふるまいは十分にありうる。ありうるというよりごく日常だろう。真正を求めながら不正を生きてしまう、義を求めながら不義を生きてしまう。人とはそういうものだ。

 

ということを前提にしたうえで、西行のもう一つ向こうの意図を考えてみる。

私はそれほどたくさんの西行の歌を知らない。この歌から予想される意図である。

 

それは以下のようだと思う。

仏道を求めて世俗のことから離れようと思っているにもかかわらず、どうしようもなく花や月に心が奪われてしまうのです”という表出である。つまり、私は風流人ですよ、私は数寄者ですよ、と言っているのである。

身分の低かった西行が親しく交流していたのは時の権勢を誇った有力貴族たちである。彼らに取り入るためには、自分が数寄者であることを表現することも大切だったのだろうと思う。

そして貴族は貴族で仏道に憧れる心持ちがあった。

実際は、貴族にそういう心持があったから、西行はそれに応える歌を詠んだのだろうが。

 

以上、結論は、

この歌は非常に皮相的なことを歌っている。文字通り、桜よ散らないでくれ、月よ曇らないでくれ、と。しかしその皮相的な表現の向こうに西行の数寄が透けて見えるようになっている。



追記

  •   西行には非常に有名な歌がある。

 

・嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな

 

百人一首に採られている。意味は

 

https://evrica.me/liberal-arts/1158

 

ここでの「物を思はする」は、好きだった人を思い出して嘆き悲しむ、という意味である。西行は23歳で出家しているので、好きだった人との出来事も出家以降のことだろう。出家をしていても、このようなことは許され、かつ歌に表現することもできた。




・願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ

 

西行はその通りの日に死んだのである。正確には1日違いだが。

それを聴いた藤原定家が以下の歌を詠んだ。

 

望月の ころはたがわぬ 空なれど 消えけん雲の ゆくへかなしな

 

親子以上の年の差があるが、良い関係だったのだと思う。



補足

 

表題の歌を私なりに細かく解釈した結果は以下のようである。

 

「花散らで 月は曇らぬ 世なりせば 物を思はぬ わが身ならまし」

 

まず「物を思はぬ」の物とは何のことだろうか。

1 男女の仲   平安時代ではお決まり事である。「人」と言えば恋しい人を意味するように。

2 世の移り変わり  人生の儚さ

3 桜の花や満月のといった自然の美しさの儚さ



次に「花散らで」を見ていく。

もし桜が散らなかったならば、どう思うのか。

1 肯定的 

1) 桜が散る、つまり世の儚さ、男女の関係の移り変わりを感じられてしみじみとした人生を楽しめるのだ。

2) 美しい自然が移り変わるからこそ、なおさら自然をいとおしむことが出来る。

 

どちらも現代的な意味の風流だと思う。

 

2 否定的  

1) 桜が散らなければ、つまり世の儚さを思い煩うことも、男女の仲を思い煩うこともなかったのに。ずっと楽しむことが出来たのに。

2) 自然の美しさがすぐに損なわれて非常に残念だ。ずっと維持されてくれればいいのに。

 

この感覚は風流から外れてしまっているだろう。楽しいだけの毎日や美しいだけの自然を求める心に風流を感じる傾きはない。



さらに「月は曇らぬ」を見る。

まず月が曇るとは何を意味しているのか、を考えると、

1 真理が通らない、正しさが通らない。

仏道が貫けない。煩悩に負けてしまう。

3 美しい満月が隠れて見れなくなる。

 

だとしたら、どう思うのか。

1 肯定的  

1)真理が通らなかったり、煩悩に負けてしまい生きる苦しみがあるが、そのことによって生きる目的を見いだせてよかった。

2) 美しい満月が見えなくなるからこそその瞬間の満月の美しさをいとおしむことが出来る。

 

1)は変に強気で不自然である。2)は風流で馴染みやすい。

 

2 否定的  

1) 心理が通らなかったり、煩悩に負けて仏道が通らず、思い悩んでしまい困ったものだ。

2) 美しい満月が雲に隠れてしまい、その美しさを愛でることが出来ない。ずっと隠れないでいてくれたらいいのに。

 

1)は凡人の感覚だろう。西行は出家しているが、煩悩に悩むことは当然である。2)は全く風流ではない。

 

さて、「花散らで」が肯定的な意味を持たせていたら、「月は曇らぬ」も肯定的な意味を持たせているだろう。もし否定的であれば、どちらも否定的な意味を持たせているはずである。

 

「花散らで」を否定的な意味を持たせると、上記のように風流でなくなるので、肯定的に取るしかない。だとすれば、「月は曇らぬ」も肯定的になり、この歌の読み方は以下の2つに絞られる。

 

1  桜が散る、つまり世の儚さ、男女の関係の移り変わりを感じられてしみじみとした人生を楽しめるのだ。そして、真理が通らなかったり、煩悩に負けてしまい生きる苦しみがあるが、そのことによって生きる目的を見いだせてよかった。

 

2 美しい自然、桜の花が移り変わるからこそ、なおさら自然をいとおしむことが出来る。そして、美しい満月が見えなくなるからこそその瞬間の満月の美しさをいとおしむことが出来る。

 

このうち1は後半部分が上記のように強気で違和感があるので、成立しない。

 

とすれば西行は2の意味で歌を詠んだ可能性が高いと思う。つまり「物を思う」とは、桜の花や満月のといった自然の美しさの儚さを感じるという意味だ。

全体を見渡すと、

 

もし桜が散ることもなく、満月が雲に隠れることもなければ、自然の儚さを感じることもなかっただろう。美しい自然がうつろいでくれてよかった。

 

この解釈が正しいとすると、正直に言えば、何のひねりもなく、もうそのままであると思う。

 

以上が「花散らで 月は曇らぬ」に重点を置いた私の 解釈である。しかし本文のように「物を思はぬ わが身ならまし」に重点を置くと本文のような解釈があり得る。つまり「花散らで 月は曇らぬ」を文字通りに解釈して、どちらも否定的に西行が評価したと解釈する。そして、いつまでも美しさを失わないでくれ、と風流から外れた解釈をしたときに、仏道を精進しているにもかかわらず私はつい美しさに心奪われてしまうのです、という別の風流人の西行が姿を現すのである。



エッセイ 平面ガラス 2024年3月19日

お勉強発表会である。新奇なものは何も無い。

 

先日 「ピータール」 という映画を見た時に、 皇太子、後のジョージ4世が乗った馬車に窓ガラスがはめ込まれてあった。時は1819年である。

群衆の一人がじゃがいもを投げつけてその窓ガラスを割ったのだ。 

 

こんな時代にヨーロッパでは窓ガラス、つまり平面ガラスがあったのか、と驚いた。ステンドグラスのように小さなガラスをたくさん繋いで平面を作るのは古くからあっただろうが、皇太子の窓ガラスは一枚の平面ガラスだったのである。

日本では文化文政年代に当たる。

 

調べてみると、当時の平面ガラスは吹きガラス法を使って製造されていたようである。筒の先に溶かしたガラスをつけて、息を吹き込んで膨らます、今でも使われている技法である。長い楕円形に膨らまし、側面を切り開いて平面を作った。透明ではあったろうが、今の窓ガラスとは違って、向こう側がいびつに見えただろう。大きさにも限界があった。しかし皇太子も含めて、当時の人はその大きさに驚いたはずである。

 

フランス起源のパサージュは、ガラスの天井で覆われたアーケード、歩行者専用道のことだが、18世紀末が発祥である。そのころには平面ガラスが作られていた。最先端の技法だったろう。天候に左右されずに散歩が出来るので人気があったようだ。

1851年には、ロンドンのハイドパークで第1回万国博覧会が開催され、鉄骨にガラスをはめ込んだ、総ガラス面の建物、水晶宮が作られている。

 

日本でガラス窓が普及し始めるのは明治以降である。製造技法は同じだったようだ。それまでは障子を使っていた。今でも和室にはガラス窓の内側に障子が仕切りとして使われる。ズボンをはくのにベルトを締めたうえに、サスペンダーまで使っている感じである。

 

1910年代に機械による連続製法がベルギーとアメリカで発明され、それ以降吹きガラス法から徐々に解放されることになる。溶かしたガラスの池から板状にガラスを引き上げていく方法だった。

第2次大戦中の車や戦闘機に使われたフロントガラスはこの製法で作られたのだろう。微妙に視界がゆがんでいたと思う。

今のような全く平面な窓ガラスは、1952年にイギリスで開発された、比重の重い溶かした錫の上にそれより比重の軽い溶かしたガラスを流して平面を作る。厚みも任意に変えれるようになった。

 

私が子供の頃、つまり今から50年ほど前は、障子戸のような木枠の中に模様の入ったすりガラスの敷居戸が部屋を仕切るのによく使われていた。あれはどういう位置づけだったのだろう。障子戸からガラス戸への移行期だったのだろうか。今では全く見なくなった。

エッセイ 部屋が片付いている人 2024年3月17日

私の机の上は片付いている。なぜなら、物があれこれ置いてあると、頭の中がごちゃごちゃになって収拾がつかなくなるからだ。もしくは収拾がつかなくなるような気がするからだ。

 

これをもう少し分析的に言うと、私は2つのことを同時にするのが難しい。自転車に乗りながら口笛を吹くぐらいならできるのだが、音楽を聴きながら本を読むとか、食事を楽しみながらお喋りするとか、ラジオを聴きながら調理をするのが難しい。難しいとは具体的に言うと、気がそぞろになって片方を失敗する、という事態だ。

 

さて

読書でもしようかと、机に向かう。ところが机の上に物があれこれ置いてあると、私にとっては、複数のタスクが要請されているような気分になる。机の上を見るだけで、あれもやらないと、これもやらないと、と頭の中でタスクが立ち上がってしまう。

 

ところが2つのことを同時にするのが私には難しい。で、頭の中がごちゃごちゃになってしまう。

 

そうなることを避けるために、私の机の上はいつも片付いている。可能な限り物を置かないようにしている。読書するときは、その本だけを置くようにしている。

 

さてさて

この構造を拡大すると、以下のことがいえると思う。

 

部屋が片付いている人の中には2つのことを同時にするのが苦手な人がいる、だろう。

 

これも私の体験からだが、部屋が散らかってる、と感じただけで、頭の中がぐちゃぐちゃになっているような気持になる。特に別々のタスクの物が重ねて置いてあるとちょっと手の付けようがないような気分になる。例えば読みかけの本の上にお菓子が置いてあったり、椅子の上に服と郵便物が置いてあったり。

部屋がきれいに片付いている人は、頭の中の、このごちゃごちゃ感を無くすために片づけている可能性がある。

 

まとめると、部屋がいつもきれいに片付いている人は、周囲からうらやましがられることがあるが、本人にとっては、切実な問題があって片づけているだけの可能性がある。

 

ここから更に類推すると、きれい好きの人、礼儀正しい人、いつも笑顔の人達も好きでやっているのではなく、何か必要に迫られてそれを実行している可能性がある。

 

では何に迫られているのか。漠然とした強迫感だろう。それは世間からの価値の圧力だったり、自分に課した自分でもよく分からない格率だったり、頭がごちゃごちゃになりそうな不安だったり。

 

これをさらに掘り下げると、抑圧されて忘却された欲望への回帰、の相似形として意識された強迫感ではないかと思う。その抑圧されたものとは、幼い頃の無垢さあたりではないかと思う。

 

余談

 

私の部屋は片付いてはいるが、きれいではない。それはつまりホコリは気にならない、という意味だ。整理整頓は頭の中を平安にするために必要に迫られてやっているが、ホコリはほとんど気にならない。特に触らない部分のホコリは全く気にならない。なぜ触りもしない所のホコリを拭かなければならないのか理解できない。

 

勢いついでに言ってしまうが、私にとって整理整頓されている、ということと、他の人がそう見るかは別問題である。私の部屋を見て、片付いている、と思う人は多分いないと思う。

映画評 レビュー 「狩人」テオ・アンゲロプロス監督1977年公開 2024年3月13日

3時間近くの映画である。簡単なあらすじは

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E4%BA%BA_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

 

凡そのあらすじは、1977年の新年を祝うために集まった名成り功遂げた6人の名士が大みそかに雪原で狩りをしているとき、1949年に死んだ共産党軍兵士の死体を見つける。その遺体を前に、過去に仲間を裏切り、あるいは政治対立者を非合法に殺した過去を6人がそれぞれ回想する。

翌日の元日にその遺体を再び雪原に埋め戻す。

 

回想シーンは1949年のギリシャ内戦の共産党敗北から、選挙で選ばれたパパンドレウ首相を国王が追放する1965年までである。

それはつまり視聴者にその期間のギリシャの歴史の学習を強いる。

 

簡単に歴史を記せば、

1924年に始まった第2共和政が1935年に王政に戻されたのち王政自体は1973年まで続く。その体制の中で、1946年から49年までのギリシャ内戦では共産党軍の敗退で終わる。以降良好な経済成長が続き、1965年、国王と首相の、軍に対する意見の相違から首相が辞任し政治が流動化、1967年に将校によるクーデターが発生、軍事政権が1974年まで続く。途中1973年、更なるクーデターにより王政が廃止され軍事独裁政権になるが、1974年に崩壊、選挙により1975年から第3次共和制が始まり、現在に至る。

 

つまり映画が撮影されたのは7年間の軍事政権が終わって間もない頃である。今から振り返れば、共和政が存続することを知っているが、当時はクーデターの再来は大きな懸念だったろう。そのためにも国民を啓蒙しておきたい気持ちが監督にはあったと思う。多くの国民が軍事政権を拒否すれば、クーデターは失敗するからである。

 

そういう意味でこの映画は、まず国民向けに作られたと思う。ギリシャの細かな現代史が外国人に興味を惹く内容とは思えない。

 

もう少し映画内容に立ち入ると、

 

6人の狩人たちは共産党員への裏切りや非合法行為によって今の地位を手に入れた。別の言い方をすれば、人権弾圧の政権に加担することで今の地位を築いた。

「民主主義の選挙で選ばれた政治家など碌なことはしない、軍事政権が良かった」と映画の冒頭で主人公の一人の実業家が言っている。

ところが1975年に共和制になったとたん、私はずっと民主主義者でした、と豹変する。主人公の一人で政治家のパパンドレウは「今までもずっと民主主義者だった」と遺体の前で言ったが、他の狩人たちに上着を脱がせられると、過去の裏切りが姿を現す。

監督は、こういう人たちにも気を付けよう、と国民に呼びかけてもいるだろう。



監督には外国政府、ここではアメリカの意を汲んで、もしくは直接に外国から指導されて自己利益の為に国民を不幸にした人たちに対する怒りがある。ギリシャを不幸にした敵は外国だけではなく、身内にもいたのだ、という怒り、告発。

 

これが監督の主題だと思う。題名の「狩人」は共産主義者、民主主義者をハントする、という意味だろう。

 

私の感想

監督の意識は国内に向けられていて、全く外国に向いてないと思う。外国に向く、とは、より抽象化が出来て、外国でも応用可能な見方が出来る、という意味である。

確かに外国にも売国奴日和見主義者や、、、がいるだろうが、それも表現するためにこの長尺の映画を撮ったとは思えない。

監督はこの2年前に「旅芸人の記録」を公開して世界的に評価された。にもかかわらず意識している観客はギリシャ人なのである。

固有性を突き詰めると普遍性に通じる、ということはあるけれど、監督はそれを狙ってない。監督の興味の中心は相変らず国内の民主主義の擁立、ギリシャ愛国だと思う。

 

今後つまり1977年以降、ギリシャの民主主義政権が安定すれば監督の興味がどう移っていくのかが楽しみである。

 

監督が前提にしていた資本主義と共産主義の経済・政治での対立は、今となってはそれ自体は時代遅れになってしまった。私たちはこの前提で映画を観れない。

私がこの映画を観ると、共産党のほうが共同体意識が強いように感じるが、その前提もなかったのだろう。弱者だったから、追い詰められていたから共同体に頼るしかなかった。





追記

 

  • 6人の狩人の一人に政治家のパパンドレウがいるが、彼の父親はゲオルギオス・パパンドレウで、3期首相を務めた。モデルとなった当人アンドレアス・パパンドレウはこの後つまり1977年以降、2期首相を務める。その息子ゲオルギオス・パパンドレウは2009年に首相になり、隠された莫大な政府債務を公表してギリシャ債務危機、更にはユーロ危機を引き起こし有名になった。

 

  • 1972年公開の同監督「1936年の日々」を観た。監督が初めて書いた長編映画の脚本である。

あらすじは、労働党の議員が演説中に射殺、犯人の身代わりになった保守党お抱えスパイが投獄され、口封じの為に獄中で射殺される。

 

製作当時の軍事政権批判である。まだ脚本に慣れてなかったのか、当時の軍事政権への怒りが強かったからか、内容が単調でつまらない。

 

ここでも監督の主題は、反民主主義への怒りとギリシャ愛国である。より抽象的なものへの志向は感じられない。

エッセイ 中国人の不思議 2024年3月6日

私は2014年から19年まで外国旅行をしていた。その時々に中国人旅行者にあったが、彼らにはひとつの特徴があった。

 

外国を旅行していると、何となく心細いものである。ひとり旅行ではなおさらだろう。気置きなく自国の言葉で、自国の常識で気軽に話したくなる。

フランス人もフランス人旅行者を見かけると親しげに話しかける。ドイツ人もそうであった。韓国人も、そしてもちろん日本人もそうであった。

 

外国にはかつて日本人宿という宿泊施設があった。オーナーは日本人のことも、外国人のこともあるが、ほぼ日本人だけが客として利用していた。

 

なぜ日本人宿が存在するかというと、まずは言葉の壁がある。英語をうまく喋れない人が多いので、出来れば日本語で情報交換をしたい。日本語でまったりと喋りたい。とにかく日本語だと、流れるように話せるので楽なのである。外国語だと一つ一つの会話にも緊張を強いられる。

次に常識の壁がある。日本人宿だと、日本の常識が通用するのだ。話の内容はもちろん、トイレも洗面台もベッドも日本の常識を信じてよい。便座を倒したまま男が小用を足すことはないし、共用トイレに裸足で行って、そのまま部屋に戻ってベッドに上がることもない。靴を履いたままベッドに上がることもないだろう。トイレに便座がないということもない。不潔さに神経をすり減らす必要が無いのだ。

 

日本人宿の他に、韓国人宿もあるし、アマゾン川のイキトスという町ではLa Casa Del Frances という宿に泊まったことがあるが、もともとはフランス人宿だったと思う。

 

さて中国人である。中国人旅行者は、同じ中国人旅行者を見てもまったく知らぬ顔なのである。始めのうちは、たまたまそういう人なのか、と思っていたが、同じことが続くので、その理由を考えてみた。

アジアでは中国人旅行者が多い。そもそも母数が大きいので、1%が旅行に出掛けたとしてもかなりの数になる。なのでしばしば顔を合わせるので、いちいち話しかける気持ちにならないのではないか。

と思っていたが、中央アジアやアフリカなど中国人をあまり見ない国々でも、中国人はお互いに知らぬ顔なのである。

 

結局、とりあえずの結論として、個人主義の国なのかな、ということになった。

 

帰国後、中国人の、正確に言えば漢民族の民族性について知る機会があった。

彼らは血縁ネットワークを重視する文化で、血縁関係さえあれば、全く知らない人でももてなし、それが世界各地のネットワークとしてつながり、商売に有利に働く、ということであった。顔も見たことのない若者が訪ねてきても、血縁者であれば面倒を見るのである。

逆に言うと、同じ民族だからと言って親近感を持たない、ということだろう。

 

それを知ったとき、旅行中に見かけた、中国人のあの不思議なふるまいが腑に落ちた。血縁関係の無い中国人は、同じ中国人と言えど赤の他人だったのである。

他に血縁ネットワークを重視する民族はユダヤ人だそうである。

 

追記

 

・ 今のところ中国人旅行者の大部分は団体旅行者である。なので観光地で見かける旅行者は団体旅行者が多いだろう。観光地で見かけるほど、安宿に中国人がいないのは、個人旅行は高くつくので、ある程度のお金持ちしか、個人旅行はまだ行けないからだ。インドのコルカタの安宿で出会った若い女の中国人ははつらつとしていて、身なりも私より良かった。

 

・ 以前ブログに書いたかもしれないが、日本人宿はほとんど今は消滅している。なぜなら

1 日本人旅行者に頼らなくても、ホテル検索サイトに出せば、世界中の客を対象にできるようになった。

2 日本が経済先進国から脱落したので、つまりお金持ちでなくなったので、かつ外国に興味を持つ日本人が減ったので、日本人旅行者の数が減って、それだけでは宿を維持できなくなった。

 

今でも存在する有名日本人宿は、私の知る範囲では

インドのサンタナ、ここはバラナシやプリ、コルカタニューデリーなど何軒かある。やり手のインド人が経営する、客はほぼ日本人だけの宿。

エジプトのカイロにあるSafari Guesthouse。エジプト人が経営する、今でもまだ客の半分ほどが日本人の宿。

グアテマラのシェラ(ケツァルテナンゴ)にある、中南米を旅行する日本人には非常に有名なタカハウス。とても親切な日本人が経営するほぼ日本人だけが客の宿。

 

旅行の目的は人それぞれである。なので日本人宿を利用するか、しないかは目的によってそれぞれだろう。ただ、世界を見てみたい、と思っている人が、日本人宿を多用するのはせっかくの機会を逃してもったいないと思う。



映画評 レビュー 「再現」テオ・アンゲロプロス監督1970年公開 2024年3月1日

監督初の長編映画である。

 

あらすじ

 

アルバニア国境近くのギリシャの山間の村で、夫がドイツに出稼ぎ中に、妻が村の農場警備員と浮気をする。帰宅した夫と偶然に鉢合わせ、2人で夫を殺し、遺体を埋める。

夫の行方不明が噂になり、警察が予断を持って事件を構成し、村人はうわさ話をする。

 

時系列に書くと以上であるが、この監督の特徴である時間軸の前後の移動がある。

この話は実話に基づいており、かつギリシャ神話をなぞらえてもいる。

 

殺人自体の描写はない。つまり2人のどちらがどのような役割を負ったかは不明である。つまりそこは重要ではない、ということだ。



ギリシャ神話になぞらえているようだが、どこをどの様にかは私には不明である。不倫、不貞の妻殺し、近親相姦、親子殺し、ギリシャ神話には考えられるすべての関係がある。

監督にとってギリシャ神話は同監督の他の映画と同じく、物語の前口上に過ぎないと思う。



舞台は絵に描いたように美しい村である。地震が少ないのだろう、家壁、塀のすべてが、スレートの石を積み上げて作られている。この映画が白黒映像なのは、表情を印象付ける以外に、スレート積みの横線を強調するためだと思う。こんな集落がまだ残っているのなら是非行ってみたい。

石灰岩が侵食された切り立った山間も美しい。樹木が少なく山肌が美しい。

大水が出ないのだろう、河川敷に大木が疎林で生えていて、明るく開放的である。雪解け水なのか、水量も豊かである。

 

この美しい風景に反比例して人々の暮らしは貧しい。生活の糧は、斜面を利用した狭い畑と、果樹、そしてヤギの放牧ぐらいだろう。石灰岩地形なので土地は痩せている。多くの人が出稼ぎに行き、若者は村を捨てていく。

「昔はまだましだった」と村人が言ったが、近代化に取り残されて、若者が都市に出稼ぎに出てしまうのだろう。舞台の設定は、公開時と同じ1970年だ。高度成長が続いた日本でも、集団就職で「3ちゃん農業」という言葉がはやった。近代化は過疎化を促進したのである。

 

そして村人たちの共同体偏重志向、似た言葉を使えば封建性がある。この映画で主体的に行動しているのは妻だけである。軽食屋を営み、3人の子供を育て、夫を殺した後の始末も率先して引き受けている。結局は罪のすべてをかぶる。

それに対して共犯の警備員は可能な限り罪を負うことから逃げる。妻の兄が事情を聴きに来た時、妻に言った言葉、「大変なことをしてくれた」は妻本人ではなく家の名誉、つまり自分のことを一番に考えている。そして妻が逮捕されたとき、村の女たちが駆け寄り「人殺し」と妻に襲い掛かる。掟破りの制裁だろうか。

 

つまり監督が表現したいのは、景色こそ美しいが、主体性のない人達が、貧しいまま生きている、という日常だ。これは監督のギリシャ批判である。監督は1975年「旅芸人の記録」で、外国に翻弄された現代ギリシャを嘆いたが、その5年前の本作では、ギリシャ人自身の主体性の無さを批判しているのだ。ギリシャの後進性、貧しさについて外国、特にイギリスに原因があるが、ギリシャ人にもその責任があるのだとその矛先を向けている。

 

これとは別の主題がある可能性もある。

「浮気な妻は殺すしかない、でないとこちらが殺される」と村人が言ったように、現場で夫と鉢合わせてしまった妻は、殺される前に、自己防衛として警備員と一緒にやむなく殺したのだろう。警察はそのことを重々知っているにもかかわらず、警察が作ったストーリーに合わせて2人に自供を強いている。妻が判事に突然掴みかかったのはその怒りが爆発したからだ。

 

この作品が作られたのは、1967年から1974年の、クーデターで成立した軍事独裁政権の時代だ。政党を解散させ、共産党を非合法化した。反体制派の国外追放、投獄、拷問が日常だったようだ。この時はアメリカが政権を支援した。

独裁政権が自分の都合よくストーリーを組み立てて、反体制派を逮捕、投獄した。それへの批判と考えられる。

 

映画の日本の題は「再現」で、英語では「Reconstruction」(再構成)で、原題のギリシャ語では「Αναπαράσταση」で、グーグル翻訳で見ると、(表現)になっている。

では何を再現、再構成するのか、といえば、

1 本当にあった事件の内容を映画で再現する

2 もしくは映画の中で起こった殺人事件を警察が再現する、かのどちらかだろう。

もうひとつギリシャ神話を再現することも考えられるが、これはあり得ない。

上記の考察から、「再現」とは、警察のでっち上げを意味しているだろう。

 

だとしたらこの映画の主眼は、軍事独裁政権による反体制派へのでっち上げの逮捕批判で、別の読み方として、ギリシャの人々の後進性批判も用意されているのだと思う。

 

この監督の最初期の作品に見られるのは、反権力とギリシャ愛国だ。「再現」以降の作品もこれらがテーマになる可能性が高い。

 

同監督の「旅芸人の記録」の映画評はこちら

 

https://imakokoparadise.blog.jp/archives/24409556.html

 

追記

 

・ 主人公の妻を演じたトゥーラ スタソポロウはこれが映画デビュー作で1970年のテッサロニキ映画祭で最優秀助演女優賞を獲得している。なぜ助演なのか不明である。どう見ても主演女優だが。どっしりとした覚悟の決まった人物を演じている。当時38歳での受賞であった。2006年没。

 

アメリカがギリシャを重視したのは、ユーゴスラビアブルガリア共産国と接しているからだ。事情は韓国と同じく、共産圏の防波堤として重視した、ということになっている。

共産圏と接して無くても介入したと私は思うが。

 

・ この集落は丘の上にある。なぜ水の利便性の悪い丘の上に家を建てたのだろう。毎日の水くみが大変だったろう。谷間は冬の雪が深かったのかもしれない。もしくは深く浸食した川が急斜面を作っていて、川の近くに平地を確保できなかったのかもしれない。いずれにしても条件の悪い居住地だ。

外国旅行をしていると、たまにこんな集落を見かける。

エッセイ メモ魔 2024年2月24日

私はメモ魔である。なぜならすぐ忘れてしまうからだ。

 

というのが今まで周囲にしてきた説明である。が、実はもう少し奥行きがある。

 

私は2つのことが同時にできない。するのが難しい。2つのタスクを覚えておく、かつ並列に処理するのが難しいのである。ひとつのことに気をとられていると、ほぼ必ずもう一つのことを忘れてしまうのだ。

この癖を知っているものだから、一つのタスクを実行しているとき、頭の中で、えーっと、他にも何かすることがなかったっけ、と思いながらそのタスクを実行している。当然そのタスクの効率は落ちてしまう。気もそぞろで実行しているのだから。

覚えておくタスクが3つあるともうお手上げである。頭の中がぐちゃぐちゃなのだ。

 

そういう事態を避けるために、私はすぐにメモを取ることにしている。

 

次に挙げる私の癖は、上記の話とは関係ないように思うかもしれないが、

 

調理の時、私はすぐに量る癖がある。とにかく量る。目分量が嫌いである。意識上の理由は、目分量だと味の再現可能性が失われるからだ。が、心の奥ではこうなっていると思う。目分量で量るとき、このぐらいか、もう少しか、と迷う時間が嫌なのである。そんなことに時間をかけるのなら、さっさと量って、別のことに集中したいのだ。

調理とは、小さなタスクが集まった複雑な一つのタスクである。これをしながら、あれもやって、と言うように。

 

2つのことが同時にできない私には、調理はとてもハードルの高いタスクである。量るという行為は、タスクの複雑さを少し減らす行為なのだ。だから量るのだと思う。

 

以上、上記2つのことを合わせて考えると、以下のようになると思う。

 

人は自分の情報処理能力に応じて外部情報を処理する。処理能力を超えるとフリーズしてしまう。

処理能力を超えた情報を扱う時は外部装置を使うしかない。それは人でもモノでもいいだろう。

で、私はそれを実践しているのである。より実感に沿った表現をすれば、円滑な社会生活を送るためには、そうせざるを得ないのである。

 

より抽象化すれば、認知コストを下げる為に、外部装置を使う、ということになると思う。

 

認知コストの高い人は、下げれるところで下げるしかない。

思い付き 仮説 英米の繁栄はEUのお陰か 2024年2月23日

思い付いたのだが、仮説にまでなっていない。その根気がない。

 

英米の自由市場重視主義、リバータリアニズム、小さな政府指向、とEUの共同体重視、コミュニタリアニズム、どちらかと言えば大きな政府指向は、経済、社会における両者の対立軸になっている。

 

もし世界中が、英米の自由市場重視主義になったら、つまり可能な限り自由競争を進め、政府は可能な限りそこに介入しない、貧富の格差はある程度放置する、となったら、英米の儲けは今より減るのではないかと思う。

 

というのも、今のEUは多めの課税をかけて、自由競争を少し抑え、共同体にお金を分配して、どちらかというと共同体を大切にしている。簡単に言えば、英米より少し効率の悪い経済体制になっている。

 

本来ならEUは域内経済を守るために関税を高くしたいところだが、英米主導のグローバリズムの流れの中で、表向きそれが出来ない。また自らもグローバリズムのお陰で世界から利益を得ている。

 

結果、経済効率の少し悪いEUの富が少しずつ英米に流れ出している。

 

というのが、今回の思い付きである。

エッセイ 牛車と馬車 雑感 2024年2月21日

先日 「ピータールー」という映画を観た。その中でロンドンからマンチェスターにやって来た弁士は馬車に乗っていた。

そういえば 日本では特権階級が乗る馬車というものがないなと思った。

 

ここでは人を運ぶことを目的とした日本の乗り物について考える。荷物を運ぶ馬車は、馬借という職業をはじめ、古くから日常にあった。

 

日本には乗り物として牛車があった。よく知られているのは御所車である。御所車に限らず、牛車は長距離の移動には使われなかった。なぜなら牛は歩くことを常とする生き物ではないからだろう。長時間歩き続けることが出来ない。もちろん馬に比べて速くもない。御所車も御所周辺の移動にしか使われていない。



「ベンハー」の映画でおなじみの、戦車としての馬車は古代ローマ時代には既に使われていた。中世、近代を通してヨーロッパの特権階級は長距離移動に馬車を使い続けた。

 

なぜ日本では使われなかったのだろう。

 

路面を平らにならすのが手間だったのか。

山がちなので、馬車道を作るのが難しかったのか。

江戸時代では特権階級の長距離移動が大名行列を除いて稀だったのか。もちろん大名行列に馬車を使うと、御付きの者が付いていけない。

幕府の官僚たちが諸藩の見回りで長距離を移動したはずだが、馬車は使われなかった。官僚もまた武士だったので、日常的に心身を鍛え、乗馬の心得があって当然だったからか。またそれが奨励されていたからか。

(中国の清の時代には馬車は特権階級の長距離移動の手段として日常だった。中国は階級制度が無かったので、科挙に合格さえすれば誰でも官僚になれた。その多くは農民だった。武官ではなく、文官だったのである。)

徳川幕府としては、川に橋を掛けさせないのと同様に、防犯上、早く移動できる道を作らせない政策だったのか。

 

たぶん上のどれもが合わさって馬車の存在を不可能にしたのだと思う。

 

大阪夏の陣以降、江戸時代は末期まで戦争が無かったが、徳川幕府が早期に倒れ、幾つかの大藩が合従連合しながら相い争う時代が続いていれば、大砲を迅速に移動させるために道路の整備がなされただろう。主要道に平坦な道路が走り、結果、馬車の登場を促したと思う。

ただ19世紀に入っても統一国家が出来ていなければ、アメリカ、アジア、アフリカの多くの国が辿った歴史、つまり対立するそれぞれの国内勢力に外国が支援し、まず国民同士で戦わせ、戦力を使い果たしたところで、外国が乗り出して植民地にする、という歴史をたどったことだろう。

 

とはいえ、もし近代日本で戦争状態が続いていたら、日本の攻城戦法や築城思想や戦闘術や大砲や銃が発展していたことだろう。平安な江戸時代、これらの技術はほとんど進化しなかった。結果、世界に大きく後れを取った。

 

とはいえしかし、戦争が無かったお陰で、人は死なず、平安が続き、善政が続いた。江戸時代の平安は、現代の日本人のメンタリティーに大きな影響を与えていると思う。



追記

 

  • 文人である高位聖職者や、武士とはいえ、防犯上の理由も含めて藩主の移動には、駕篭という、人が担ぐ乗り物が使われた。つまり薩摩藩の殿様は、海路を除いて、人が江戸まで担いだのである。ヨーロッパ人が聞けば遅さと狭さにドン引きである。

 

  • 明治以降は日本でも馬車が使われるようになった。1869年(明治2年)には東京と横浜間を乗合馬車が走り始めた。これはバスの前身である。 沖縄では、1914年∼44年に馬車が馬車鉄道として使われたが、蒸気機関車の代わりに、貨車や客車を曳く動力に馬を使っている。 列車の前身である。もともとはサトウキビの輸送として計画された。1888年に開通した小田原馬車鉄道などもある。

なお、外国ではタクシーの前身は辻馬車、列車の前身に駅馬車があったようだ。

 

いずれも動力機関の発明、発達によって消滅した。

 

  • 以前、姥捨て伝説がある長野県川上村で、高原野菜の出荷のアルバイトをしたことがあるが、内燃動力が普及するまでは荷役として馬を使っていたそうである。使えなくなった馬は食べたのか、と聞くと、とんでもない、という顔をされた。殺せないので、山へ放しに行った、そうである。