imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 牛車と馬車 雑感 2024年2月21日

先日 「ピータールー」という映画を観た。その中でロンドンからマンチェスターにやって来た弁士は馬車に乗っていた。

そういえば 日本では特権階級が乗る馬車というものがないなと思った。

 

ここでは人を運ぶことを目的とした日本の乗り物について考える。荷物を運ぶ馬車は、馬借という職業をはじめ、古くから日常にあった。

 

日本には乗り物として牛車があった。よく知られているのは御所車である。御所車に限らず、牛車は長距離の移動には使われなかった。なぜなら牛は歩くことを常とする生き物ではないからだろう。長時間歩き続けることが出来ない。もちろん馬に比べて速くもない。御所車も御所周辺の移動にしか使われていない。



「ベンハー」の映画でおなじみの、戦車としての馬車は古代ローマ時代には既に使われていた。中世、近代を通してヨーロッパの特権階級は長距離移動に馬車を使い続けた。

 

なぜ日本では使われなかったのだろう。

 

路面を平らにならすのが手間だったのか。

山がちなので、馬車道を作るのが難しかったのか。

江戸時代では特権階級の長距離移動が大名行列を除いて稀だったのか。もちろん大名行列に馬車を使うと、御付きの者が付いていけない。

幕府の官僚たちが諸藩の見回りで長距離を移動したはずだが、馬車は使われなかった。官僚もまた武士だったので、日常的に心身を鍛え、乗馬の心得があって当然だったからか。またそれが奨励されていたからか。

(中国の清の時代には馬車は特権階級の長距離移動の手段として日常だった。中国は階級制度が無かったので、科挙に合格さえすれば誰でも官僚になれた。その多くは農民だった。武官ではなく、文官だったのである。)

徳川幕府としては、川に橋を掛けさせないのと同様に、防犯上、早く移動できる道を作らせない政策だったのか。

 

たぶん上のどれもが合わさって馬車の存在を不可能にしたのだと思う。

 

大阪夏の陣以降、江戸時代は末期まで戦争が無かったが、徳川幕府が早期に倒れ、幾つかの大藩が合従連合しながら相い争う時代が続いていれば、大砲を迅速に移動させるために道路の整備がなされただろう。主要道に平坦な道路が走り、結果、馬車の登場を促したと思う。

ただ19世紀に入っても統一国家が出来ていなければ、アメリカ、アジア、アフリカの多くの国が辿った歴史、つまり対立するそれぞれの国内勢力に外国が支援し、まず国民同士で戦わせ、戦力を使い果たしたところで、外国が乗り出して植民地にする、という歴史をたどったことだろう。

 

とはいえ、もし近代日本で戦争状態が続いていたら、日本の攻城戦法や築城思想や戦闘術や大砲や銃が発展していたことだろう。平安な江戸時代、これらの技術はほとんど進化しなかった。結果、世界に大きく後れを取った。

 

とはいえしかし、戦争が無かったお陰で、人は死なず、平安が続き、善政が続いた。江戸時代の平安は、現代の日本人のメンタリティーに大きな影響を与えていると思う。



追記

 

  • 文人である高位聖職者や、武士とはいえ、防犯上の理由も含めて藩主の移動には、駕篭という、人が担ぐ乗り物が使われた。つまり薩摩藩の殿様は、海路を除いて、人が江戸まで担いだのである。ヨーロッパ人が聞けば遅さと狭さにドン引きである。

 

  • 明治以降は日本でも馬車が使われるようになった。1869年(明治2年)には東京と横浜間を乗合馬車が走り始めた。これはバスの前身である。 沖縄では、1914年∼44年に馬車が馬車鉄道として使われたが、蒸気機関車の代わりに、貨車や客車を曳く動力に馬を使っている。 列車の前身である。もともとはサトウキビの輸送として計画された。1888年に開通した小田原馬車鉄道などもある。

なお、外国ではタクシーの前身は辻馬車、列車の前身に駅馬車があったようだ。

 

いずれも動力機関の発明、発達によって消滅した。

 

  • 以前、姥捨て伝説がある長野県川上村で、高原野菜の出荷のアルバイトをしたことがあるが、内燃動力が普及するまでは荷役として馬を使っていたそうである。使えなくなった馬は食べたのか、と聞くと、とんでもない、という顔をされた。殺せないので、山へ放しに行った、そうである。