imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ メモ魔 2024年2月24日

私はメモ魔である。なぜならすぐ忘れてしまうからだ。

 

というのが今まで周囲にしてきた説明である。が、実はもう少し奥行きがある。

 

私は2つのことが同時にできない。するのが難しい。2つのタスクを覚えておく、かつ並列に処理するのが難しいのである。ひとつのことに気をとられていると、ほぼ必ずもう一つのことを忘れてしまうのだ。

この癖を知っているものだから、一つのタスクを実行しているとき、頭の中で、えーっと、他にも何かすることがなかったっけ、と思いながらそのタスクを実行している。当然そのタスクの効率は落ちてしまう。気もそぞろで実行しているのだから。

覚えておくタスクが3つあるともうお手上げである。頭の中がぐちゃぐちゃなのだ。

 

そういう事態を避けるために、私はすぐにメモを取ることにしている。

 

次に挙げる私の癖は、上記の話とは関係ないように思うかもしれないが、

 

調理の時、私はすぐに量る癖がある。とにかく量る。目分量が嫌いである。意識上の理由は、目分量だと味の再現可能性が失われるからだ。が、心の奥ではこうなっていると思う。目分量で量るとき、このぐらいか、もう少しか、と迷う時間が嫌なのである。そんなことに時間をかけるのなら、さっさと量って、別のことに集中したいのだ。

調理とは、小さなタスクが集まった複雑な一つのタスクである。これをしながら、あれもやって、と言うように。

 

2つのことが同時にできない私には、調理はとてもハードルの高いタスクである。量るという行為は、タスクの複雑さを少し減らす行為なのだ。だから量るのだと思う。

 

以上、上記2つのことを合わせて考えると、以下のようになると思う。

 

人は自分の情報処理能力に応じて外部情報を処理する。処理能力を超えるとフリーズしてしまう。

処理能力を超えた情報を扱う時は外部装置を使うしかない。それは人でもモノでもいいだろう。

で、私はそれを実践しているのである。より実感に沿った表現をすれば、円滑な社会生活を送るためには、そうせざるを得ないのである。

 

より抽象化すれば、認知コストを下げる為に、外部装置を使う、ということになると思う。

 

認知コストの高い人は、下げれるところで下げるしかない。