imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 最高の瞬間・時間はとどめて置けない 2022年10月

先日の朝にコーヒーを淹れたのだけれど、予想以上に美味しく入っていた。瞬時に思ったことは、この焙煎豆を1トンほど確保して一生この美味しいコーヒーを飲み続けたい、だった。

しかしこれは不可能である。まず何よりも、焙煎豆は生き物である。刻々と香り、味が変化していく。とどめて置きようがないのである。2週間も経てば、ただの豆である。

 

さて、最高の瞬間・時間が失われていく対象は2つあると思う。

 

1 対象物が物理的に変化していく。例えばコーヒーのように。例えば美しい朝焼けのように。

 

2 最高の気持ちが維持できない。神経伝達の特性上、同じ刺激を同じ強度で受容し続けることができない。宝くじに当選して、最高にうれしいのは最初のうちだけである。宝くじに当たったという事実は変わらないのに、最高の気持ちはどうしようもなく減損していってしまう。

 

この結果、生じる感情にも2つあると思う。

 

1 一つは儚さ(はかなさ)、である。良きものが失われた時に生じる感情であるが、これは失われたものが小さいときに感じるものだ。

 

2 もうひとつは、喪失の悲しみだと思う。失われたものの価値が大きいときに感じる。

 

さて儚さについては乗り越える必要が無いだろう。しみじみと感じていればいいと思う。

しかし喪失の悲しみは乗り越えたほうが良いと思う。ではどうやって乗り越えるか。

 

常識的には、喪失の悲しみを受容する、あたりがその答えになると思うが、別の乗り越え方を提案したい。私の得意な、世界認識を変える方法である。

 

それは、最高の瞬間の、生成も喪失もすべては私の世界の中で起こっている、である。私の中で生成され、喪失されているのだから、実感としては、プラスマイナスゼロなのである。

 

これに納得されない人も多いだろうが、私はこれによって穏やかな世界を手に入れている。

エッセイ ひらめく、とは 2022年10月

あの人は独創性がある、などと世間でよく表現される、独創性とは、頭の中では具体的にどんな作業がされているのだろうか。

 

人は或る物を幾つもの集合に分類している。例えば、目の前にひとつのコーヒーカップがあったとして、まずこれをコーヒーカップ、という集合に入れているだろう。もう少し抽象度を上げると、液体を入れる容器、と言う集合にも含まれるだろう。他に、磁器でできたもの、取っ手が付いている物、不透明な物、落とすと割れる物、コンロで火にかけても燃えない物、等々いろいろな集合に入れることが出来る。つまり目の前のコーヒーカップをいろんな角度から抽象化することだ。抽象化するとは、ひとつ上、つまりひとつ大きな集合に入れることである。イヌなら哺乳類、と言うように。

 

独創性があるとは、人が思いつかないような集合に物やことを入れることである。

例えば、目の前のコーヒーカップを尿瓶と言う集合に入れたり、レゴと言う集合に入れて、レゴ作品の中に組み込んだり、宇宙にある物質と言う集合に入れたり、お菓子の型抜きと言う集合に入れたり。

 

つまり独創性とは、人が思いつかないような別の集合に或る物、或ることを編入できる人のことを言うと思う。

 

だからと言って、急に独創性のある人にはなれないだろうけど。

サザエさん症候群の乗り越え方 2022年10月

サザエさん症候群とは、日曜日の夕方にテレビ番組の「サザエさん」が始まると、またこれから一週間が始まるのか、と憂鬱な気持ちになること、である。

 

もう20年ほど前のことである。新宿のパン屋でパンを焼いていたことがある。早朝に出社して、昼過ぎにはパンを焼き終えて帰途に就く。会社から自転車で30分かけて家に帰るのだが、もちろん日はまだまだ高い。自転車を漕ぎながら、帰ったらあれとこれと、、、をしよう、とウキウキしながら予定を立てて帰ったのである。

で、帰ってふと気が付くともう夕暮れなのだ。そこで感じたのが、サザエさん症候群だった。

 

どうすればこれを乗り越えられるだろうか。いろいろ考えたのである。

帰ってから何となく時間を過ごしているからこんなことになるんだろうと、まず思った。

 

で、やるべきことを前もって決めて、帰宅後に備えたのである。読むべき本、やるべき筋トレ。しかし夕暮れになると何故か黄昏てしまうのである。

人が夕方に黄昏てしまうのは、夜が怖かったヒトの遺伝子にでも載っているのかな、としばらく思っていたのだが、いや、きっとこれを乗り越える方法があるはずだ、とまた考え始めた。

 

で、思い付いたのは、何か目標を立ててそれを実行する、を繰り返していると、目標のために今があるような気持になり、何となく追い立てられているのだ。そこで日が暮れて、未だ目標を達せずの状態に陥る。なので最終的な目標を未来にではなく、今に置けばいいのではないか。

 

今この瞬間を楽しめば良い。今ここパラダイスの発見である。

目標はもちろんあって良く、その目標に向かっている今この瞬間を、「どんどん目標に向かってる」と楽しい気持ちで過ごせばいいのだ。

今この瞬間を、人生の目標を達成しつつある瞬間である、と読み替えるのである。

 

しかしそう読み替えてもまだしっくりいかないところがあった。

 

で、また少し考えてみた。分かったのは、無理にそう思い込んでもそれほど効果がない、と言うことだった。

 

それを乗り越える方法は以下の通りであった。

 

今この瞬間の私の気持ちをまず大切にする。つまり今私が何を感じているか、どんな気持ちでいるか、を心の底まで降りて、しっかり認識するのである。

これは少し時間のかかる作業である。人は普通いま自分がどんな気持ちでいるか、を見つめることなどしないからである。いちいちそんなことをしていては、人と付き合えない。だから見ないようにしているのだ。

なので落ち着いた時間を確保して、今の自分の心の状態をゆっくり観察するのである。

 

ある程度これが出来るようになると、つまり今の自分の気持ちを感じれるようになると、この瞬間を楽しむように持って行けばいいのだ。目的に近づいてるから嬉しい、でもいいが、更には、今この瞬間を生きていることが素晴らしい、と言う気持ちになれれば、最強だと思う。今この瞬間が心から穏やかである、と言うように。

当たり前だけれど、ただ頭でそう思うのではなく、心の底から納得してそう思えることが理想である。

 

私は以降、サザエさん症候群に陥ったことがない。もう少し正確に言うと、陥りそうになると、ああ、今を大切にしてないな、と言うことに気付いて、今の気持ちを感じて、今を大切にし、サザエさん症候群を乗り越えるのである。

読書するときに感じる不便 2022年10月

本を読もうと思っても、どうも気が乗らないときや、あれこれと理由をつけて先延ばしにすることがよくある。

どうして読書することがこんなに面倒臭く思うのだろう、と考えると、以下の理由に至った。

 

ここでの対象は、評論や自然科学、社会科学関連の書籍についてである。小説やエッセイは含まない。小説やエッセイを読むのが面倒臭いのは、ただその物語がつまらないからであろう。

 

読書とは以下の作業をすることだと思う。

1 内容を要約して、著者の言いたいことを理解する。もう少し具体的に言うと、論理構造を抽出して、理解する。

 

次に

2 理解したことを抽象化したあと、自分の知識に合うように変形して統合する。

 

で、何が不便かといって、内容を要約するのが面倒臭いのである。著者にはもちろん目的があっていろいろ書いているのだろうが、何故こんなにごちゃごちゃと書いてあるのだろう、と思う。

時々おバカな読者の為に実践してくれている書籍があるが、章の始まりか終わりに、要約なりまとめを書いてほしいのである。

骨子のほかにいろいろと書いてあるのは、著者のこだわりである。もしくは読者の便宜を図ってのことである。

それが個性であり、親切心だから、書いてもらってもいいのだが、要約が欲しい。

 

うーん、こんなことを思うのは私が年を取って読解力が落ちてきた、または根気が無くなってきたからか。しかし切実に思うのである。

 

補足

 

前後が緊密につながっていて、端折れない書籍がもちろんある。例えば橋本大三郎氏の書いたものはそうだと思う。

外国旅行の帰国後によくすることに備えて、旅行中にすること 2022年10月

私は2014年から2019年まで外国旅行をしたが、帰国後よくすることがある。具体的には当時を振り返ることだ。そのとき、旅行中にこうしておけば、もっと便利だったのになぁ、と思うことがいくつかある。

そのことについて書いてみたい。

 

1  私はグーグルphotosで写真を管理しているが、以下の点は他のアプリでも同じだと思う。

   1)料理の写真  

料理は旅行を思い出すうえで重要なきっかけを与えてくれる。料理を起点にしてその前後の記憶がよみがえることがよくある。

という視点から、料理の大写しの写真より、周りの風景を取り込んだ写真のほうがずっと利用価値が高い。写真を撮っているときは、料理があまり小さく写ると、何を撮ってるか分からないな、と思うが、帰国後の利用価値を考えると、周囲を取り込むべきである。気になるなら、大写しの写真を別に撮ればいい。

日時と場所は記録されているので書き込む必要はないが、値段(現地通貨で)と料理名が分かれば記録しておくと、帰国後、懐かしんだり、料理を調べたりできる。私の場合、他国との比較で値段は重要だった。

 

   2)  宿の写真

宿の写真、特に部屋の写真は当時の感情をダイレクトによみがえらせてくれる。とても懐かしい気持ちにさせてくれる。ベットに広げた荷物や机の上に並べた小物は感情の宝庫である。

部屋の写真を撮る角度は、普段の見慣れた風景が良い。全体を写し取ろうと見慣れない角度から撮ると、帰国後に見ても臨場感が今一つ湧かない。

日時と位置情報は記録されているので、値段を記録しておくと比較するのに便利である。併せてホテル名も記録しておくと、他の旅行者に勧めるときに便利である。

既に予定・実行済みと思うが、同時にグーグルマップで、ホテルの場所を登録しておくと、マップを見ているだけで、次々と旅行の思い出をたどることが出来る。

 

   3)アルバムを作る

私はグーグルphotosでアルバムを作っているが、よく見るアルバムは国別の料理アルバムである。懐かしさにあふれている。

他に興味のあるものを持っていれば、そのアルバムを作るのがいいと思う。私は建築と装飾が好きなので国別のアルバムを作っている。国ごとに見比べるのに非常に便利である。

いろいろ細かい項目を立ててアルバムをたくさん作るのは効率的ではない。と言うのも、それなら時間順に網羅された写真を直接見たほうが記憶がよみがえるからだ。時間順に網羅された写真はひとまとまりの経験として記憶されているので、当時を思い出しやすい。

 

2 家計簿

当時は家計簿アプリの存在を知らなかったので、ノートに書きつけていたが、帰国後、値段を調べるために使うことが予想外に多い。旅行中は忙しいので、細かく書く必要はないが、日別に宿泊代、食事代、移動費あたりはつけておくと思い出すときに何かと便利である。

それとともに、その時の為替レートも記録しておくべきである。

 

補足

 

確かハリーポッターの第一巻に、一度見てしまうとそこに映った情景に心を奪われて二度と目が離せなくなってしまう鏡、が描かれていたが、旅行の写真も同じ力を持っている。何故目が離せないのか。最高に幸せだった瞬間がそこにあるからである。

 

故に、懐かしさを求めて旅行を振り返る、と言うことを前提に話を進めた。

 

言うまでもないが、今も、これからも、最高に幸せな瞬間は訪れる。自分次第である。

エッセイ 幽霊警備員 忘れられた存在 2022年10月

子供のとき、テレビで「天才バカボン」を見てた。その中の一話に、幽霊の出るビル、と言うのがあって、バカボン親子がその真相を調べに行く。見つけた幽霊は、実はずっと昔に夜警で雇われた警備員で、誰もそのことを忘れてしまって、警備員だけがその仕事を続けていた、と言うものだった。

 

その話を見た時、何とも言えない恐ろしさを感じた。約束をした片方が、その約束を忘れたにもかかわらず、もう片方だけが、そうとは知らずにその約束を永遠に履行し続けるのである。

 

後から考えると、給料は払われているはずだから、すべての人が忘れているわけではないだろう、と気づいたが、現代なら、自動で給与が振り込まれるので、誰にも気づかれない可能性がある。

 

で、今の話である。

 

私の部屋に、多摩川からすくってきたミナミヌマエビ、川や池によくいる小さなエビ、を小さな容器に入れて飼っているのだけれど、この生物は手間いらずなのである。生えてくる藻を食べて生きている。なので私がすることと言えば、水が減ってきたら、足すだけである。ほぼ放りっぱなしなのだ。

つまりしばしば忘れてしまうのである。

何週間も忘れていて、あっ、と思い出して慌てて容器を覗くと、いつも通りハサミで藻をかき集めて食べているのである。

 

で、何とも申し訳ない気持になるのだ。俺が忘れている間も、こうやって一生懸命に生きていたのか、と。

 

少し考えてみると、これはミナミヌマエビに限った話ではなくて、例えば、ホームセンターで買って来た草花の植木鉢を庭や玄関に置いてそのまま忘れて枯れさせてしまった、と言うことはよくある。

この場合、この植物は一生懸命に生きていたのだけれど、忘れ去られて水が補給できず、じわじわと餓死していったのだ。文字通り忘れ去られたのだ。

 

人が飼おうとして忘れてしまったのではないが、木が生えていたところに道路などを作ってアスファルトやセメントで塗り固めると、羽化しようと出てきたセミの幼虫が行く手を阻まれてあちこち出口を探した挙句、土の中で力尽きてしまう。

地下茎で伸びる植物も同じである。ドクダミが道路の僅かの隙間から芽を出しているのを見かけるが、散々探し回った挙句、運のいい地下茎がその隙間に行き当たったのだろう。残りは暗闇の中で模索中である。

 

つまり、軽い気持ちで川からすくってきたヌマエビ、軽い気持ちでホームセンターで買って来た草花、そこにいる生き物のことを何も考えないでの土地の利用変更、によって小さな生き物たちは翻弄されている。

 

だから自然に手を加えるなとは全く思わないが、そういう生き物たちの存在を気にかけることは、同じ生き物として大切なことだと思う。

自己管理能力 自己を管理するとは 2022年10月

自己管理能力と聞くと、身辺の管理能力を思い浮かべるだろう。部屋の片づけや、こざっぱりとした服装、健康的な食事、予定を計画通り遂行する能力。

その通りなのだが、例えばなぜ予定通り計画を進められないのか、を考えると、

 

1 気分が乗らないから、つまりやりたくない気分、嫌な気持ちに包まれるから。

2 他に興味のあることを思い付いて、別のことをしたくなったから。

 

つまり感情をコントロールできないのである。1では、未来の目的達成の快より、今の不快のほうが大きい。2では、別のことをする快のほうが大きくなっているのだ。

部屋の片づけや食事も同じである。未来の快適さより今の快適さのほうがむくむくと大きくなってしまうのだ。

我慢が足りない、根気が足りない、と言うことではなく、目標を設定した時、そこに至る道もまた楽しいのだ、と言う設定が弱いのだと思う。

 

私の職場に他人の陰口をいう人がいるが、とにかく貶したいのだ。感情を抑えられない。もう駄々漏れなのである。これも感情コントロール能力がない、つまり自己管理能力が無いのだ。

 

感情を管理できない理由は、一般的には前頭葉の介入が少ない、と言うことになっている。もちろんその通りなのだが、何故そうなってしまうかを考えると、自己肯定感が低いために、外界からの侵害感を強く感じてしまい、マイナスの感情が増幅されて湧き出すからだと思う。

 

人の言葉にカチンときてすぐに反応してしまう人がいる。すぐに感情的になって怒り出す人がいる。もちろんこれも自己管理能力が足りない。

これも自己肯定感が低いが故に、侵害感が増幅されて過剰に反応してしまうのだ。

 

以上をまとめると、感情のコントロールが出来ない理由は、

1 目標に至る過程もまた快である、という設定不足。前頭葉の介入不足。

2 自己肯定感が低い。

 

くどいが、自己管理とは感情を管理することである。良いスケジュールを立てることではない。

エッセイ 晴れの来ない雨の日はない 過剰な快適志向 2022年9月

今、大型の台風14号が来ていて、湿度も高く、南風が吹いて蒸し暑い。窓を開けると湿った風が入ってくる。

 

私の実家は梅雨時や台風の時は屋内が湿気るので、いつも冷房をかけていた。

 

その時間に肌がべとついて気持ち悪い、と言うのは分かるが、部屋が湿気るから冷房をかけることの意味がよく分からなかった。雨が降れば、必ず晴れの日が来るのである。その時に窓を開けて乾燥した風を入れれば、部屋の湿気はなくなる。人が住んで、人が快適になるようにまめに窓の開け閉めをしていれば、湿気てカビることはない。多くの地域でそうだと思う。

 

窓を開けている私の部屋は、確かに今湿気ている。しかし台風が過ぎれば日本晴れである。その時に窓を開けて風を入れれば何てことはないではないか。

 

若者も老人も、最近の人は妙に快適志向である。

事実をして真実を語らしめる ルポルタージュの手法 2022年9月

真野森作「プーチンの戦争」2018年を読んだ。著者は毎日新聞の記者である。かって私が10代だった頃、つまり1970年、80年代、「事実をして真実を語らしめる」という表現があった。その意味するところは、著者の価値判断を可能な限り排除して、事実だけで事件・事実を表現しようというものだ。

その意図するところは、なまじ著者の善悪評価を文中に入れてしまうと説得力が失われる、と考えたからだ。

つまり事実だけで物語を描き、ことの判断は読者に任せる。もっと言えば、読者に考えさせて真理に近づいてもらう。考えて獲得したものは容易に忘れないだろう、と言うことだ。

 

新聞記者が書いたものだけあって、最近のこの手の作品の中では上記の手法に近い。

 

40年前は私も上記の手法に共感していた。そもそも何を書くか、その為にどこに行くか、誰に話を聞くか、それ自体が著者の価値が入っているのだが、文中に著者の価値判断が入っているとげんなりしたものだ。

 

しかしここ10年程、今回に限らず、このような手法の文章を読むと、まどろこしくて忍耐するのが大変なのである。早く結論部分を読みたくなっているのである。

ネットに接続するようになって、読みたくない部分は飛ばし、読みたい部分だけを拾い読みするようになった。その影響が出ているのである。早く結論を知りたいのである。気分的に時間の余裕がなくなっているのである。

60歳の私でさえそうなのだから、若い世代は何をか謂わんや、だと思う。

 

思うに、事実をして真実を語らしめる、という手法は、もう読者の趣向に合わないのではないか、と思う。

そもそも事実を与えられたとしても、それを組み立てて真理に到達していく、という訓練を多くの人がしていないのではないか。書籍の中でそれを実行しようと言う根気をはなから持ち合わせていないのではないか。結果その作品をまるで利用できないのではないか。

 

私の能力も含めて、上記のことを思う。

合成の誤謬 部分と全体の関係 2022年9月

15年ほど前か、合成の誤謬と言う言葉が流行った。当時は聞き流していたが、気になることがあって、今回その意味を調べてみた。新語だと思っていたが、古くからあるようである。

 

意味は、経済用語で、1人の人が合理的と思った行為も、多くの人が同じことをすると、非合理になってしまうこと。

ウィキペディアから引くと、ある人が将来に備えて貯金をしても、国民みんなが貯金すると、経済が停滞して、結果国民の総所得が減退してしまうこと。

 

これを読んだときにまず思ったことは、自由市場で皆が同じことをすることがあるのか、である。多くの人が貯金をして、経済が停滞すると、金利が下がるので、金を借りて投資をしようとする人が現れるはずである。ある傾向が始まれば、その先を見越して必ず逆を張る人が現れる。

 

合成の誤謬を前提にして言うと、貯金をして経済が停滞すると、まずます人は将来に備えて貯金をするので、更に経済の停滞を招いてしまう。これは昔から言われていた、ただの、負のスパイラル、である。特に新しい言葉で表現する必要もなかったと思う。そして上記の理由でデフレスパイラルは必ず好転する。

 

さて、合成の誤謬を私なりに抽象化すると、ある部分で合理的でも、全体化すると不合理になること、になる。

平面軸で見ると、個人と全体で、合成の誤謬の定義そのものだけど、時間軸で見ると、今と今後という見方もできると思う。

つまり今、合理的と思われる行為も将来にわたり続けていくと不合理になる、という見方だ。

そんな行為は枚挙にいとまがない。

例えば、藩の財政を潤そうと農民に重税をかけると農村が疲弊して生産が落ち、逆に年貢が減少する。

例えば、その時々に快という根源的に合理的行為を求めて脂っこいもの、甘いものを食べ続けると、健康を害して不快な状態に陥ってしまう。

例えば、商売相手から最大の利益を得ようと取引を続けていくと、取引相手がいなくなって商売が出来なくなってしまう。

似たような例だが、人生にコスパを求めて短期的物質的な快を求め続けると、長期的には感情のリターンつまり大切な人との関係と言う快を得れなくなる。

 

環境問題はそれの最たる例だと思う。快適な暮らしの為に化石燃料を使いすぎてしまって、気候変動を呼び寄せてしまった。ごみ処理をするのにコストがかかるから川や海に直接捨てて、水俣病を、イタイイタイ病を、大気汚染を生み出した。

 

このような行為を、時間軸の合成の誤謬と呼ぶのはどうか、と思う。

 

まあ、わざわざ時間軸の合成の誤謬などと言う表現をしなくても、近視眼的経済活動、と言う別の局面からの呼び名があるが。

そういう意味では、平面軸の合成の誤謬、つまり本来の意味の合成の誤謬も、近視眼的経済活動、と呼べるだろう。貯蓄するのは自分だけで、みんなのことは考えてなかったのだから。ただ個人の家計が、国民経済を見渡して行動する、と言うのはハードルが高いとは思うけれど。

ここにも個人と全体の相克がある。