imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

合成の誤謬 部分と全体の関係 2022年9月

15年ほど前か、合成の誤謬と言う言葉が流行った。当時は聞き流していたが、気になることがあって、今回その意味を調べてみた。新語だと思っていたが、古くからあるようである。

 

意味は、経済用語で、1人の人が合理的と思った行為も、多くの人が同じことをすると、非合理になってしまうこと。

ウィキペディアから引くと、ある人が将来に備えて貯金をしても、国民みんなが貯金すると、経済が停滞して、結果国民の総所得が減退してしまうこと。

 

これを読んだときにまず思ったことは、自由市場で皆が同じことをすることがあるのか、である。多くの人が貯金をして、経済が停滞すると、金利が下がるので、金を借りて投資をしようとする人が現れるはずである。ある傾向が始まれば、その先を見越して必ず逆を張る人が現れる。

 

合成の誤謬を前提にして言うと、貯金をして経済が停滞すると、まずます人は将来に備えて貯金をするので、更に経済の停滞を招いてしまう。これは昔から言われていた、ただの、負のスパイラル、である。特に新しい言葉で表現する必要もなかったと思う。そして上記の理由でデフレスパイラルは必ず好転する。

 

さて、合成の誤謬を私なりに抽象化すると、ある部分で合理的でも、全体化すると不合理になること、になる。

平面軸で見ると、個人と全体で、合成の誤謬の定義そのものだけど、時間軸で見ると、今と今後という見方もできると思う。

つまり今、合理的と思われる行為も将来にわたり続けていくと不合理になる、という見方だ。

そんな行為は枚挙にいとまがない。

例えば、藩の財政を潤そうと農民に重税をかけると農村が疲弊して生産が落ち、逆に年貢が減少する。

例えば、その時々に快という根源的に合理的行為を求めて脂っこいもの、甘いものを食べ続けると、健康を害して不快な状態に陥ってしまう。

例えば、商売相手から最大の利益を得ようと取引を続けていくと、取引相手がいなくなって商売が出来なくなってしまう。

似たような例だが、人生にコスパを求めて短期的物質的な快を求め続けると、長期的には感情のリターンつまり大切な人との関係と言う快を得れなくなる。

 

環境問題はそれの最たる例だと思う。快適な暮らしの為に化石燃料を使いすぎてしまって、気候変動を呼び寄せてしまった。ごみ処理をするのにコストがかかるから川や海に直接捨てて、水俣病を、イタイイタイ病を、大気汚染を生み出した。

 

このような行為を、時間軸の合成の誤謬と呼ぶのはどうか、と思う。

 

まあ、わざわざ時間軸の合成の誤謬などと言う表現をしなくても、近視眼的経済活動、と言う別の局面からの呼び名があるが。

そういう意味では、平面軸の合成の誤謬、つまり本来の意味の合成の誤謬も、近視眼的経済活動、と呼べるだろう。貯蓄するのは自分だけで、みんなのことは考えてなかったのだから。ただ個人の家計が、国民経済を見渡して行動する、と言うのはハードルが高いとは思うけれど。

ここにも個人と全体の相克がある。