imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 「俺たちの旅」価値を共有するということ 2022年9月

パソコンのBIOSの設定を触ったら起動しなくなった。CMOSの電極をショートさせて初期化したら復旧して事なきを得た。その間非常にストレスだった。そういえば、以前もそんなことがあったっけ。

しばらくブログが書けなくなるな、と思っていたが、復旧したので何か書きたくなった。

先日ユーチューブでたまたま「俺たちの旅」を見た。その時に思ったことを書いてみたい。つまりエッセイである。

 

https://youtu.be/ZF0BBskox_s

 

放送は1975年秋から一年続いた。1975年と言えば、ベトナムアメリカに勝って祖国を再統一した年である。

私は中学卒業の春休みの1977年に再放送で見た。大阪育ちなので、どこが舞台なのか当時全く頓着が無かったが、舞台は吉祥寺であった。そういえば「ノルウェイの森」の主人公も吉祥寺に住んでいた。オタキング岡田斗司夫も吉祥寺に住んでいるはずである。

 

中村雅俊秋野大作田中健など出演者たちが若いことに驚いた。幼ささえ残している。当時は全くそんなことを思わなかった。意外にも秋野大作がかわいい顔をしていることにも今回初めて気が付いた。

 

このドラマの主題は、自由、である。学生運動は収束していたが、当時の時代の雰囲気に合致していたと思う。青春という言葉が普通に人口に膾炙していた。この年カーペンターズが「オンリー イエスタデイ」を、アバが「ダンシングクイーン」を発売している。

ジョンレノンとオノヨーコがラブアンドピースを言い始めたのは1969年のようだがまだまだその雰囲気が生きていた。

 

ここからが感想である。この動画で、中村雅俊が、「人生ってもっと楽しいもんなんだよ」と、伝統的価値に飲み込まれそうになっている田中健に語気強く言う場面がある。それを聞いて私はショックを受けた。あまりにも直裁な表現だったからである。そして若き日の私が自分に言い聞かせていた言葉でもあったからだ。私はここからパクったのか?

 

人生ってもっと楽しいもんなんだよ。今のドラマでこんなセリフを聞くことは無いだろう。誰かに向かって言うこともないだろう。言われて、はい、そうですか、と素直に聞き入れる人もいないだろう。言ったところで山ほどの反論・反感が返ってきそうである。

 

価値観が多様化しているのだ。かつては自由とか青春とかの言葉が意味するところは皆共通感覚として持っていた。だからみんながこのセリフを聞いて心を揺さぶられたのだ。

少なくとも1980年代以降、人々の暮らしが豊かになり、各人が個人の趣味を追求できるようになった。その結果、価値の多様化が起こり、言葉の概念が人によって変わり、同じ言葉を使っても内容が伝わらなくなっていった。嗜好が多様化し、ひとつの曲が爆発的に売れるということも無くなっていった。

 

豊かさは価値の多様化を不可避にもたらす。価値の多様化は多くの場合、共通基盤を不可避的に掘り崩す。話が通じず、何度か嫌な目に合えば、結果として人とつながれる自信を失う。人とかかわる意欲を失っていく。故に社会に無関心になる。

 

この動画を見ていると、皆が同じ価値観を共有するということが、一面うざくもあるが、他方でとんでもない安心感を与えるのだ、と言うことを教えられる。

日本はもう、二度とこういう時代を迎えることは無いだろう。

型が決まると便利になり、型が決まるとつまらなくなる 2022年9月

よりよい生活を求めている人は多いと思う。より良いとは、快適や便利あたりを意味しているだろう。便利とは、労力の節約、時間の節約のことだろう。

 

ひとつのことに習熟していくと、労力や時間の無駄が減少し、型が出来上がっていく。

例えばハイキングである。バックパックの荷物の詰め方、持っていく道具の選択、寒暖に合わせた服のレイヤー、お弁当の内容、コースの選び方、コースの歩き方。回を重ねるごとにより良い型が出来上がっていく。

例えば料理のレシピである。ある料理を繰り返し作ると、材料の選択、調理の順番と方法、段取り、の型が出来上がっていく。

 

出来上がった型が便利であればあるほど、型から外れられなくなる。わざわざ不便を求める人はいないだろう。

 

しかしそれに反比例して行為がつまらなくなる。当たり前である。すべてが予測通りなのだから。

 

時々ピザを焼いて食べるのだけれど、作り始めたころは、生地にどんな粉を使うと美味しくなるのか、生地の上に乗せる具は何がいいのか、生地だけ先に少し焼いて後から具を載せるのがいいのか、その時間はどのくらいか、等いろいろ試すのが楽しくて、ウキウキしながら作っていたものだ。その時々の記録をつけて、より良いレシピを完成させていく。今ではすべての手順が決まって、美味しくはなっても、少しも楽しくないのである。

 

私はコーヒーが好きで、ドリップコーヒーを自分で淹れて飲んでいるが、何故か毎回味が違う。思った通りの味にはめったにならないので、心はモヤモヤするのだけれど、今回はどんな味だろう、と毎回ワクワクしながらコーヒー豆に向えるのである。

 

型が固定されることによって得られる快適さと、型が固定されることによって増大するつまらなさとは、どうバランスをとればいいのだろう。

 

全く記録を取らず、過去の経験を参照しなければ、毎回新しい気持で、つまりウキウキしながらことに当たれるかも知れないと思う。しかしそれでは甚だ効率が悪くなる。毎回のように同じ失敗をすることになるかも知れない。それは不便であろう。

 

型に従う便利さと、型からはみ出る楽しさのバランスは、各人いろいろ思うところがあるかもしれないが、私が思うところは以下のことである。

 

バランスをどうするかは根本的な解決にならないと思う。この二つを抽象的に統合すると、その瞬間瞬間に意識を集中して楽しむ、になるのではないか。

つまり分かり切ったのもとして惰性でことに当たるのではなく、その瞬間瞬間を楽しむのである。好きなことが出来るこの瞬間が最高に幸せである、と。しかしこのときの、楽しむ、はワクワクではありえない。未知に踏み出していないからだ。それは、満ち足りた感情、しみじみ楽しい、のようなものになると思う。

 

そのような気持ちで日常のタスクに当たれば、つまらなさから解放されると思う。

つまり、今ここに意識を集中して、満ち足りた気持ちを感じるのである。それは何をするときでも同じだろうと思う。

 

この基本があったうえで、日々の小さな改良を楽しめばいいと思う。

家の食事と外食 作る人の動機

私も60歳になり、周囲を見渡すと、糖尿病予備軍の人たちをちらほら見かけるようになった。塩を控えているのである。で、思ったことを書いてみたい。

 

料理を作るとき、誰が誰に作るかで、料理に向かう姿勢が変わる。

 

自分で自分の料理を作るときは、多くの人がそうだと思うが、健康に注意しているなら調理法も味付けもそれに従ったものになるだろう。油や塩は控え目に。

 

家族など大切な人のために作るときも事情は同じであろう。相手の健康に気を使って料理をする。

 

外食の料理の最大の目的は、もう一度お客に来てもらうことである。つまり美味しい料理、または安い料理を提供することだ。美味しく感じてもらうために、どうしても味付けは濃く甘くなる。人は甘いものや塩味の濃いものを美味しいと感じるからだ。

コンビニやスーパーの総菜はカロリーや塩分が表示されているので、健康志向で薄味を売りにすることもできるが、レストランなどの外食はそれらの表示を求められない。ただ美味しさで勝負するのだ。

 

家族の20年後の健康に気を使って料理をすることは当たり前だと思うけれど、外食の調理人が20年後のお客の健康を気遣って料理をすることはほぼないだろう。それよりももう一度来店してもらうことのほうがずっと重要である。お店が潰れれば元も子もないのだから。

 

で、私は何が言いたいのか、と言うと、1人暮らしでずっと外食の人がいるけど、あなたの食べている料理を作っている人は、あなたの20年後の健康のことを考えている人はほとんどいませんよ、と言うことだ。美味しくするために、甘くして、塩味を濃くする。それは間違いなくあなたの健康を害する可能性を上げる。

 

調理は意外に頭を使う。段取り、調理過程のシミュレーション、出来上がりの味の予想。本気でやると、楽しいものである。調理は自然科学の領域にあると思う。調理方法、味付け、すべて論理的なので、味の再現が可能である。

 

年を取って体が悪くなってからでは戻すのに時間が掛かる。そうなる前に、とりあえず本気で一度料理を作ってみるのはどうか、と思う。楽しいし美味しいし、良いことだらけである。

自己評価と社会からの評価 2022年9月

私は昆虫が好きである。小学生の時は昆虫博士になるのが夢だった。友達から、昆虫博士、とおだてられると、非常に嬉しかったものだ。 

私のその夢も、中学に入ったときのお袋の一言でついえてしまった。曰く、そんなあほなこと言ってんと、さっさと勉強しなさい、である。

 

2006年に出版された「昆虫ー驚異の微小脳」と言う本を読んでいるのだけれど、知らないことだらけである。多少は人より知識を持っているだろう、と自負していたが、そうなんや、の連続である。ついつい没入してしまうのである。完全変態類(幼虫・蛹・成虫の明確な区別がある)の出現の意味を自分なりに考えてきたが、その答えが簡潔に書かれていて、ぐうの音も出ない。その答えを要約すれば、成長と繁殖での自己資源の効率化である。

当たり前ではあるが、素人の思い付きでは膨大な学問の蓄積を参照している研究者には到底かなわない。足元にも及ばないのである。

 

で、私は考えることをやめるべきか。時間の浪費ではないのか。チョコレートでも齧りながら、コーヒーを飲んでいるほうがよいのではないか。

 

全くそうは思わないのである。

 

例えば、私が高校3年生の数学の知識を持っていて、その後30年かけて独力で一般相対性理論にたどり着いたとする。

そのことを社会はどう評価するだろうか。学問的には、つまり社会的にはそれは全く無意味であろう。社会的に既知になっている領域から一歩も出ていないからだ。

では私から見れば、どういう評価になるのか。もちろん偉業を成し遂げたのである。大したものである。議論の余地がない。

 

で、どちらの評価が大切なのか。もちろんそれも議論の余地がない。私の評価が大切に決まっているのである。社会とはこの場合数学者や物理学者が中心になるだろうが、彼らが評価してくれないのは残念だが、そのことで私が成し得たことへの私の評価は変わらないのである。

 

煎じ詰めれば、他人の評価をより大切にするか、自分の評価をより大切にするか、になると思う。

 

もちろん私は自分の楽しみを優先させる。私のしていることが社会にとって時代遅れであろうと、場違いであろうと関係ないのである。これからも周回遅れのなぞ解きに挑戦し続けるのだろう。



もう少し話を進めると、今までの話は他人と自分のどちらの評価を大切にするか、と言うことであったが、もう一つの評価軸として、今楽しいことを評価するか、明日楽しいことを評価するか、がある。もう少し具体的に言うと、今この瞬間を過ごすときに、今が楽しいことを大切にするか、それとも明日を楽しく過ごすことを大切にして今を我慢するか、だ。

後者を選択する人が多いかもしれないが、実は明日は永遠に来ないのである。明日に生きる人は、明日になると、明後日の為に明日を我慢するのである。明後日になるとまたその次の日の為に、、、と永遠に繰り返してしまうのだ。

 

それに気が付いて今日からこの瞬間を大切にして楽しもう、と思っても意外なことにそれができない。何故ならそもそもメンタリティ、心の傾きがそうなっているので容易には変えられないからだ。

それは自分の評価より他人の評価を大切にしてしまう人も同じである。容易には変えられない。気付いたからと言ってすぐに変えられるのなら、苦労はしないのである。

だからカウンセリングやコーチング、心理療法、もろもろの書籍がある。

 

結局は覚悟を決めて取り組むしかないのだと思う。

解決策を大別すれば、世界認識を変えるか、過去の経験を読み替えるか、になると思う。

当たり前であるが、他人より自分の評価を大切に、明日より今の評価を大切にしたほうが断然生き易くなる。

 

楽しい昆虫の話から、気の重い話になってしまった。これからも毎日の生活の中で、あれっ、と感じたことを自分なりに考えて、ワクワクしながら生きていきたいと思う。

最大利益の最小帰結 個人と全体、利益と損失の読み替え 2022年9月

先日弟と自転車で狭山湖に行った。この貯水池の周辺は静かな林が広がり、小さな川も流れて、日帰りでゆっくりするのにちょうどいい。

初めて行ったのは25年ほど前か。狭山湖は飲料水用の貯水池なので、フェンスが張って中に入れないのだが、道を隔てた反対側の林にはフェンスが無く、どこからでも入れた。

何年かのちには、フェンスが張られたが、所々に鍵のかかってない扉があって、以前と同じように中に入れた。

 

その間いくつかの出来事を見た。何かの植物を掘り上げたのだろう幾つもの地面の穴、焚き火跡、小道に付いた自転車やバイクの轍の跡、そして斜面を無軌道に走り回るオフロードバイク

 

これらの行為が管理者をしてフェンスを張らせたのだと思う。

 

そして10年ぶりの今回である。

 

以前は鍵のかかってなかった扉には施錠がされて入れなくなっていた。小川に足をつけながら、菓子パンでも食べてお喋りしようと思っていたのに、大誤算である。どこか開いているのではないかと、フェンス沿いに歩き始めたが、結局2時間かけて汗をかきながらフェンスを一周してしまった。小川どころではなかったのである。

 

想像するに、私の最後の訪問以降も、次に来る人のことを考えないセルフィッシュな人が訪問し続けたのだろう。自転車どころか、人の立ち入りさえできなくなったのである。

 

フェンスの周りを歩きながら、このような経緯をどう表現したらいいのだろう、と考えていた。母屋を借りたら庇の外まで追い出された、とか、元の木阿弥戦法、とか。今日ふと、最大利益の最小帰結、という言葉を思い付いたのでこれにしようと思う。

 

以前グループでホテルを利用した時、ある人がゴミを散らかしっぱなしでチェックアウトしようとしたとき、別の人が、掃除の人が大変だし、そういう行為が結果として宿泊費を上げることになる、と言ったのに対し、当人が、このホテルには二度と来ないから構わない、と言い返した。

その人はまだ若かったから気づかなかったのだろうが、その人が次に宿泊する別のホテルには、それ以前にその人と同じ考えの人が何人も宿泊していて、彼は既に宿泊費が上がったホテルに泊まることになるのである。

 

ホテルの備品を持って帰る人がいる。バスタオルを一枚くらい持って帰ってもいいだろう、と言うことなのだろう。それで宿泊代が上がることは無いだろうし、上がったとしてもここにはもう来ないから、と思っているかもしれない。しかしあなたがそう思ったのなら、多くの人もそう思っているのである。つまりその人が次に泊まるホテルは、同じことをした人が既に何人も泊まっていて、値上げ済みのホテルなのだ。

旅の恥は掻き捨て、という言葉があるが、結局はまわりまわって自分に降りかかることになる。

 

話が変わるが、労働者とは労働力以外に売るものがない人のことを言うが、「資本論」にこんなことが書いてあるそうだ。

 

労働者は自分が作った商品を買うしかない、ゆえに自分が作り出した価値より小さな物しか得られない。

 

これを読んで、いやいや私は或る物を生産しているが、自分の生産していない別の物を買っていますよ、と思うかもしれない。

それに対してマルクスはこう言う。

労働者全体から見れば、結局は自分の作ったものを買っているのと同じなのだ、と。

 

つまり自分一人の見える場所から周囲を見渡すのと、自分と同じことをする人たち全体から周囲を見渡すのとでは、見える景色が違いますよ、と言うことだ。

 

ある個人がセルフィッシュな利益最大化を目指しても、セルフィッシュな人たち全体から見れば、自分も割を食っている、と言うことになる。

 

私がもし、ここだけ、と思って、何かセルフィッシュなことをすれば、他の多くの人もその行為をする可能性が高まり、まわりまわってそのしわ寄せが自分に戻ってくる。

私がもし、みんなのことを思ってやめておこう、とセルフィッシュな行為を思いとどまれば、他の多くの人もそうする可能性が高まり、まわりまわってその恩恵が自分に戻ってくる。

 

自分がそう行動したら、他の人も同じように行動するだろう、という想像は、私が選挙に投票しに行けば、他の人も投票しに行く可能性が高まるだろう、と思うのと同じ想像である。私一人が投票に行っても何も変わらない、と言う、私一人から見える景色を、私が行くということは、多くの人も行く可能性が高いだろう、と全体からの景色に読み替えて投票に行くのと同じことである。

 

もう一つ付け加えると、ここで言う全体とは相変わらず部分のことである。すべての人がゴミを投げ散らかすわけではなく、すべての人がバスタオルを持って帰るわけではない。

一部の人たちのセルフィッシュな行為のツケを全体で負担しているのである。

 

以上、流れはこうである。

自分一人だけの利益追求→利益追求者の増大→コスト増大→全体の負担増大→自分のコスト増大

 

大利益の最小帰結、という言葉にまだしっくりこないが、とりあえず、この呼び名で行こうと思う。

エッセイ ポニーテール または生え際のグラデーション 2022年9月

私は長髪を後ろでひとくくりにしている。いわゆるポニーテールである。髪を伸ばし始めたのは15年ほど前のことか。当たり前だが伸ばし始めたころは髪の毛の長さが足りなくて後ろでなかなか一つにくくれなかった。くくれない髪の毛はハラハラと顔にまとわりついて、鬱陶しかったのである。生え際の辺りはそれまで短く刈っていたので伸びるのに特に時間が掛かった。

しかしいつかは伸びてくくれるようになるだろうと思っていた。

 

ところがである。いつまで経っても生え際あたりの髪の毛が、顔にまとわり続けたのである。特に額のあたりともみあげのあたりの生え際の髪の毛が髪留めに届かずくくれなかった。

 

不思議に思って生え際をよく見ると、額の無毛の部分から始まって、頭頂に進むにつれて、産毛、2∼3センチの毛、5~6センチの毛、と僅か5ミリほどの幅の中で無毛から30センチ以上の髪の毛がグラデーションに納まっていたのである。

 

髪の毛を伸ばす前は、額の無毛部分からいきなり長い髪の毛が生えるものだと思っていた。つまりゼロか百の世界である。オールオアナッシング。

 

しかし実際は、当たり前のことながら、ゼロと百の間にグラデーションがあったのである。だからポニーテールをしている人はその短い髪の毛を処理するために、カチューシャを使ったり、グリスを塗っていることに思い至った。

なるほどそうだったのか、と。あれはオシャレなんかではなく、やむなしの作業だったのである。

 

全く自然界には、ゼロか百の世界が少ない。人の社会と同じだということを思い知った。

エッセイ 社会的動物として年を取るということ 2022年9月

10代の夏休み、近所の小学校のプールに夜よく泳ぎに行った。

 

若い頃は、”まぁ、これぐらいはいいやろう”という軽い気持ちで、法律に触れるようなことを気軽にやった。

60歳になった今、例えば家の近所のマンションで策を乗り越えて屋上に上ってやろう、とは思わない。それをしたからと言って、誰かの不利益になるとは思わないが、それがバレたら、近所の人からの信用を失うだろうな、と思うのである。

 

コトの善悪は自分の価値(倫理)で決めてやろう、とは思っているが、集団的価値(道徳)を無視できなくなっているのである。大した信用ではないが、今まで築いてきた信用が失われるではないか、と思うのである。今まで築いてきた関係が壊れてしまうのではないか、と思うのである。別の言い方をすると、常識に従って自分を律することが出来るようになったのである。もう少し範囲を狭めると、大切な人たちの信用を失わないために、自分を律することが出来るようになったのである。

 

若い頃はそんな気持ちが全くなかった。そんなもの、まさに関係なかったのである。

 

ではなぜ今それが気にかかるのか。なぜ関係を大切にしようと思うのだろうか。

 

人は関係の中で生きている、という実感が強くなったのだと思う。それは、関係の中で生かされている、ともいえる。関係の大切さを知った、と言うことだろう。若い頃は関係の大切さなど分からなかった。

逆に言えば、若い頃に分かっていれば、もっとリラックスして生きてこれたと思う。

 

社会の中で孤立して、ストレスをため込んで、事件を起こす人たちがいる。例えば秋葉原無差別殺傷事件の実行者、例えば広島の自動車工場での無差別殺傷事件の実行者。

もし彼らに仲の良い友達が一人でもいれば、彼女がいれば、あのような事件を起こすことはなかったと思う。

関係の中で生きていなかったのだ。

 

関係は社会からの侵害を守るためのバッファゾーンになる。かつ関係は利他的な動機づけを与える。

 

年を取ると、長い付き合いの人が増えてくる。より緊密な関係の中に埋め込まれていく。

それは私に関係の中で生きていることを実感させる。できればその関係を大切にしてこれからも生きていきたいと思う。

だから周りの人達の信用を失わないようにしたいと思う。

 

人として年を取るとはそういうことだと思う。

核兵器廃絶とそれが求める覚悟 2022年9月

核抑止力はあるか。あると思う。

1974年にインドが、1998年にはパキスタン核兵器を持ったことで、インドとパキスタンの大きな紛争はそれ以来無くなった。1990年以降のカシミール紛争では、数千人の死者を出しているようだが、大きな紛争には発展していない。これは抑止力が効いている可能性がある。

しかしこれには核抑止が効いていることの証明としては不足していると疑われるところがある。1974年以降現在までの中で、1974年から1998年までは、インドのみが核を保有して圧倒的に戦力で優位だったにもかかわらず、紛争もしかけず、係争地の領土も拡張していない。核抑止が効いたのではなく、たまたま外交努力が実を結んだ可能性もある。

 

今ロシアとウクライナが戦争をしているが、アメリカやEU、トルコからの武器がウクライナに供与されている。アメリカがどれくらい強力な武器を寄付するかによって、戦況が左右するといわれている。

その時に心配されているのが、あまりに攻撃的な武器をウクライナに渡すと、ウクライナがロシアに反撃して、ロシアが戦術核兵器を使うのではないか、と言うことだ。つまり核抑止が効いている。

しかしアメリカが更に攻撃的な武器、例えば最新式の戦闘機をウクライナに渡すと、、ロシアはそれを阻止するため、直接アメリカを標的にせざるを得なくなる。アメリカはウクライナのためにロシアと戦争をする気は全くないだろうから、その点でもウクライナへの武器の寄付は抑制される。

なので明白に核抑止が効いている決定的証拠にはならないが、上記の話は十分に説得力のあることだと思う。

 

で、核抑止はある、と言う前提で話を進める。しかも核保有国の政策決定者は核抑止を前提にして、政策を立てているので、その点でもこの前提は有意義である。

(もし核抑止力が無いのであれば、利権亡者の軍産複合体を説得するだけでいいが、もし核抑止力があるのなら、かつそれを無くしたいのなら、核抑止があることを前提にして、それをどうやって無くすかを考えていかなければならない。正直に言えば、無いと考えるほうが圧倒的に難しいと思う)

 

生物としてのヒトは、同種を殺したくない。しかし社会的動物としてのヒトは大切な人の為に、敵を殺す。今までそうやって生き延びてきた。

核兵器は通常兵器と同じく、攻めてきた敵を、仲間を守るために殺すのに便利である。より攻撃的な武器が、仲間の命を救ってきた。核兵器はその延長線上にある。核兵器の特殊性は、無差別つまり非戦闘員も殺してしまうところと、放射線の汚染が長年続くところにある。

 

だから核兵器は使わないでおきましょう、と言う意見が出る。

 

そこで大切なのは、仲間が殺されているときに、使える武器があるのに、それを使わない選択を出来るだろうか、と言うことだ。もしくは今後仲間が殺される可能性があるときに、あえて使える武器を解体することが出来るだろうか、と言うことだ。

 

核抑止があると前提にしたとき、それでも核兵器を廃絶することを選ぶということは、仲間が殺されても我慢する、という覚悟を持つことだと思う。

仲間が殺されても、ヒトという種を大切にして、別言すれば、人類の為に我慢する、と言うことだと思う。

 核兵器廃絶、とは、そのような覚悟が必要だと思う。

エッセイ パンくず このどうしようもないもの 2022年8月

今朝パンを食べたのだけれど、パンを切ったときにパンくずが床に落ちた。それが足の裏に付いて、気分が悪い。知らず知らずのうちに布団の上にも運んでいるだろう。布団の上にパンくずが載っているのである。何とも気分の悪い話だ。

床や布団の上のパンくずによって病気になった、と言う話は聞かないから、衛生的には問題が無いのだろう。しかし気分が悪い。

今は住環境が良いので問題は無いが、湿度の高い日本の夏だと、換気の良くなかった時代はカビや小さな虫を寄せて、健康的ではなかったろうと思う。

 

よく思うのだけれど、日本の家屋利用形態はパン食に向いてないと思う。例えばヨーロッパだと、家の中は土足である。ある程度汚れてもいいようにできている。パンくずなどどうと言うこともないだろう。

家の中をはだしで歩くこともよくあるようで、逆にベッドの上に靴履きのまま上がる(多分ベッドカバーがかけてあるだろう)こともある。はっきりした境界が無いのだ。

それで今まで問題が無かったのだ。比較的気温も低いし、湿度も低い。

 

トルコは副食にパンを食べ、家には靴を脱いで上がる。しかも床にはじゅうたんが敷いてある。パンくずに限らず、食べ物くずを取り除くのが大変である。ダニやノミの絶好の隠れ家になっているだろう。時々洗っているはずである。イスラム教徒の多いトルコでは、それが主婦の仕事になっているだろう。

ただトルコは多くの地域で年間降水量が500ミリほどである。日本は1500ミリ以上なので、かなり乾燥しているといえる。

 

日本は畳敷きで、布団もその上に敷く。生き物が繁殖するにはかなり良い条件が整っている。それを避けるために、昔は頻繁に掃除をしたのだと思う。夏には畳干し(土用干し)をした。しかし時代は変わり、夫婦共働きや単身者が増えた。掃除をする時間が減ったのである。私も毎日は掃除機をかけない。家屋内衛生環境が悪くなっているのである。それを補うように殺虫剤が普及した。

 

それで衛生上は問題が無くなったのだろうが、固形物は相変わらず固形物として残る。足の裏に付いたり、ざらざらするのである。不快さが軽減されていないのである。

 

畳をなくしてすべてを板床にして、どこに行くのもスリッパで行く、と言うことも考えられるが、湿度が高いので、一日中スリッパ履きは不快であろう。

あと考えられるのは、パンくずの出ないパンの開発であるが、これも難しそうだ。ちょっと想像が出来ない。

 

これだけいろいろ便利になってきているのに、パンをスライスしたり、トースターで焼いたときに、パンくずが落ちて、毎回拭かなければならない、と言うのは何とも面倒臭い話である。

歌手と歌詞 美に正しさは宿るのか 2022年8月

むかし山口百恵と言う国民的歌手がいた。彼女が、やはり国民的男優だった三浦友和と結婚する少し前に、「乙女座 宮」と言う曲を発表した。その歌詞の中に「今は獅子座のあなたに夢中よ」と言う部分があった。さてそれ以降、芸能情報番組などで、獅子座のお相手探しの”大騒ぎ”になった。

もちろん芸能リポーターを含め、情報を流す側は、本当のお相手を知ったうえでの”大騒ぎ”である。

調べてみると曲の発表が1978年2月のことである。恋人宣言が1979年10月で、結婚は1980年11月であった。

 

山口百恵とこの歌詞を肴に皆で大騒ぎをしたのである。私は高校通学時の車内の吊り広告でこの騒ぎを知った。いろんな人の名前が挙がっていて、へぇ、そうなんだ、と思って読んでいた。

 

その後恋人宣言があり、お相手が三浦友和だと分かったとき、話が違うじゃないか、という批判が出た。その時、ある芸能リポーターが、テレビでこういったのを覚えている。

「本当のことを知った上で、みんなお遊びで騒いでいたでしょ」と。

しかし少なくとも私は知らなかった。騙された気分であった。高校生であった私は、素直に週刊誌やテレビを信じたのである。そしてその時、二度と芸能リポーターのことは信じないでおこう、と決めた。

 

という少し長い話を紹介した。

 

これから分かることは、私たちは歌手と歌詞を結び付けがちである、と言うことだ。

古くて申し訳ないが、例えば河合奈保子の「けんかをやめて」という歌がある。私の為に2人の男が喧嘩をしているのだ。で、私の為に争わないでくれ、と言っているのである。ある人がこの曲を聞いて「かわいくないとこんな歌、唄えないな」と言うのを聞いた。

 

私たちは知らず知らずに、歌手に歌詞を帰属させている。歌詞を聞いてその内容を歌手が経験したことに重ね合わせている。かわいい歌手が恋心を歌うのを聞いて、彼女を主人公に見立てて心震わせているのである。幻想の醸造である。見たいものを見ているのである。かわいい歌手が恋の遍歴を歌った山口百恵のときに起こったのと同じ、幻想を醸造しているのである。

 

人はその傾向があると思う。美人が恋心や失恋を歌うと、それを想像して共感するのだ。イケメンが恋心を歌うと胸がキュンと来るのだ。

美男美女には美しい言葉が似合う、と言うことだと思う。

 

その類推から以下のことが言えると思う。

 

あるプラスの価値には別のプラスの価値も宿る。

 

例えば、(容姿が)美しい人は、優しい。美しい人は正しい。美しい人は控え目である。美しい人は道徳的である。美しい人は良い匂いがする。

他にも、頭のいい人は行いも正しい。五輪金メダリストは礼儀正しい。ノーベル賞受賞者は人格者である。

 

身近な人を見れば、もしくはニュースを見れば明らかだが、どれもでたらめである。美に真実が宿る、そんな訳が無いのである。それぞれの価値の発現が全体の10パーセントなら、二つの価値を併せ持つ人は1パーセントしかいない。三つの価値を併せ持つ人は0.1パーセントしかいないのだ。

 

しかし事実は幻想に負けてしまいがちなのである。人は、美しいものに美しいものが宿るのを見たいのである。

 

それにしても最近はその傾向が強いと思う。かっては不細工だが、歌のうまい歌手がいたものである。見栄えは良くはない男優が、かっこのいい役を演じることがあった。ただ昔から悪役はブ男が演じるものと相場が決まっていたが。

 

この傾向は、多分、快適さを求めることと関係があると思う。醜に美が宿るときに感じる違和感、心の引っ掛かりを軽減させたいのだ。醜に美が宿るより、美に美が宿ったほうが心地よいのである。心が感じる摩擦が少ないのである。

 

快適さの追求は今に限ったことではない。生き物の永遠の悲願である。なぜ今この傾向が強く現れているのか。

 

1 科学の進歩により、生活のいろんな場面で快適指数が向上して、それに伴って、美と醜が同居することの違和感、不快指数が相対的に上昇した。

 

2 共同体が解体して、個がむき出しになり、不安感から抑うつ的になり、不快さの許容度が低下した。

 

以上のことが相まって起こっている現象だと思う。そして以上のことが原因であるなら、それ故に今後それが進むことこそあれ、反転することは無いだろう。

 

結論はこうである。

1 まず、ブ男や醜女にはたまったものではない。ふざけるな、と言う、非常に単純な話である。現実をよく見ろ、と。

 

2 美しい人の言うことが正しい、とすれば、簡単に印象操作をされることになるだろう。容姿がよくて卑しい人などいくらでもいるからだ。

 

現象を認識するのに、前頭葉を使わないと、どうしようもないな、と思う。もちろん前頭葉を使うことは現状認識を変えることにつながるので、そもそも快適ではない。つまり快適さを強く求める人には、行為矛盾になる。

だとすれば、なぜそこまで快適さを求めるのか、の自省から始めなければならないだろう。それも行為矛盾になるが。

つまり、何か大きなきっかけが必要なのだと思う。