imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

事実をして真実を語らしめる ルポルタージュの手法 2022年9月

真野森作「プーチンの戦争」2018年を読んだ。著者は毎日新聞の記者である。かって私が10代だった頃、つまり1970年、80年代、「事実をして真実を語らしめる」という表現があった。その意味するところは、著者の価値判断を可能な限り排除して、事実だけで事件・事実を表現しようというものだ。

その意図するところは、なまじ著者の善悪評価を文中に入れてしまうと説得力が失われる、と考えたからだ。

つまり事実だけで物語を描き、ことの判断は読者に任せる。もっと言えば、読者に考えさせて真理に近づいてもらう。考えて獲得したものは容易に忘れないだろう、と言うことだ。

 

新聞記者が書いたものだけあって、最近のこの手の作品の中では上記の手法に近い。

 

40年前は私も上記の手法に共感していた。そもそも何を書くか、その為にどこに行くか、誰に話を聞くか、それ自体が著者の価値が入っているのだが、文中に著者の価値判断が入っているとげんなりしたものだ。

 

しかしここ10年程、今回に限らず、このような手法の文章を読むと、まどろこしくて忍耐するのが大変なのである。早く結論部分を読みたくなっているのである。

ネットに接続するようになって、読みたくない部分は飛ばし、読みたい部分だけを拾い読みするようになった。その影響が出ているのである。早く結論を知りたいのである。気分的に時間の余裕がなくなっているのである。

60歳の私でさえそうなのだから、若い世代は何をか謂わんや、だと思う。

 

思うに、事実をして真実を語らしめる、という手法は、もう読者の趣向に合わないのではないか、と思う。

そもそも事実を与えられたとしても、それを組み立てて真理に到達していく、という訓練を多くの人がしていないのではないか。書籍の中でそれを実行しようと言う根気をはなから持ち合わせていないのではないか。結果その作品をまるで利用できないのではないか。

 

私の能力も含めて、上記のことを思う。