imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

映画評 レビュー 「コントラクト キラー」1990年・「浮雲」1996年 アキ・カウリスマキ監督 2023年12月24日

 

まずは「浮雲」から

 

あらすじ

https://moviewalker.jp/mv29868/

 

舞台はフィンランドの首都ヘルシンキだ。突然失業する主人公夫婦。買い手市場で、就職活動もうまくいかない。周りの解雇仲間も同じである。失業者の不安な毎日が描かれている。

 

ソ連解体の影響でフィンランドの実質成長率は、91年-5.9%、92年-3.3%、だったのが90年代半ばから後半にかけて成長を取り戻す。94年4.0%、95年4.2%、映画が公開された96年は3.7%で悪くない。少なくとも映画製作中は景気が良かったはずである。にもかかわらず映画の中では大不況の雰囲気である。

 

この暗い雰囲気は、1991年にソ連が解体し、資本主義に移行するときに、ロシア社会がグダグダになったことが影響している。ロシアの実質成長率も統計のある93年から映画の公開された96年まですべてマイナスである。となりの超大国が揺れに揺れていたので、フィンランドとしては気が気でならなかっただろう。その暗い影が、この映画に良い舞台を与えている。監督が舞台に利用したのだと思う。

 

「街のあかり」(2006年公開)と同じく、登場人物たちの過去も未来も語られない。ただ現在が描かれているだけである。しかし「コントラクト キラー」に比べると説明的だと思う。妻の元同僚たちの様子や、夫婦の社会とのつながりがある程度分かり、たぶん監督も期せずして、当時のフィンランドの社会を映し出してしまっていると思う。

 

ラストに、夫婦が開店させた新しいレストランが成功する場面で終わるが、同監督のお馴染みの口直しだろう。本筋に関係がないと思う。

 

その「コントラクト キラー」については

 

あらすじ

https://eiga-watch.com/i-hired-a-contract-killer/

 

こちらは「浮雲」より6年早い1990年公開の作品で、舞台はイギリスのロンドンである。

過去の不明な、死にたくても死ねない主人公と、やはり私生活不明の、主人公を生かそうとする女と、自らも末期のガンで死に追われ、人生の敗者を自認する殺し屋。この殺し屋のみ、娘が登場して、殺し屋の私生活を僅かに説明する。

 

物語の整合性は気にしていないようだ。あちこちで殺し過ぎだし、人目を気にしなさすぎだ。こんな殺人はすぐに見つかってしまうだろう。殺し屋失格である。

つまり監督の目的は別なところにあるのだ。

 

先にも書いたように登場人物たちの過去は語られない。現在が時系列に展開していく。時間で言うと僅か1週間ほどか。

 

主人公についてもう少し言うと、女と出会うのだが、もうひとつ煮え切らない。態度が決まらないのである。感情の欠如も明らかだ。何らかの事情で感情が湧いてこないのだろう。行動に感情の裏打ちが示されないので、行為の選択がひどく平坦に見える。

 

やはりラストで、生き延びた主人公が女の乗ったタクシーに轢かれそうになって、運よく出会う、というハッピーエンドで終わるが、もちろん監督の本意はそこにはない。

 

二つの映画の共通点を探ると、以下の特徴が見えてくる。

 

監督が登場人物の来歴を語らないのは、性格や行動様式に説得力を持たせないためだろう。人物を抽象化することによって、視聴者がそれぞれ自分の想像で肉付けできるようになっている。しっくりくる物語を作れるようにしているのだと思う。

 

で、監督が言いたいこと、つまり表現したいことは、社会から見放された者たちが協力しながらも右往左往して生きていく姿、だと思う。

レニングラードカーボーイズ ゴーアメリカ」も「街のあかり」も同じ主題である。

 

追記

 

・「浮雲」の英語の題は「Drifting Clouds」で、日本語にすると、漂う雲たち、あたりか。フィンランド語の題は、Kauas pilvet karkaavat、で、グーグルで翻訳すると、Far away the clouds flee、となり、雲が遠くに逃げて行く、あたりになる。

つまり雲は動いているのである。浮雲だと、語感から言うと、大空にぽっかり雲が浮かんでいる、感じで、意味が変わってくる。映画の内容から言っても、雲(登場人物たち)はぽっかり浮かんでいるのではなく、所在なげに移動している。

 

・「コントラクト キラー」の舞台はロンドンである。監督はそれまであまりイギリスには馴染みがなさそうである。だからだと思うが、登場人物たちと社会との接点がほとんど見えない。社会から浮き上がっているように見える。つまり知らない社会なので、その社会の日常が分からず描けなかったのだと思う。

しかしそれが失敗しているようには見えない。「浮雲」よりも社会との接点がさらに少なくなり、登場人物がより抽象化されて、視聴者にいろいろ考えさせる余地を作っている。つまり観終わった後に、尾を引くのである。気になるのである。登場人物のあの行動は登場人物にとっては、どういうつもりだったのだろう。物語のあの人物の演出は監督にとってはどういうつもりだったのだろう、と。

つまり、良い映画になっていると思う。