imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

レビュー 「天路の旅人」沢木耕太郎 2022年発売 2023年12月26日

仕事先の知り合いに、これを読んで感想を聞かせてくれ、と手渡された。

 

西川一三という男のアジア大陸での体験記である。

1943年25歳の時、  内モンゴル張家口大使館の調査員という肩書で、敵地中国にラマ(チベット)僧として潜入、チベット国(当時)で、敗戦を知ったが、そのまま旅をつづけ、1950年32歳の時、インド滞在中に日本人であることが露見し、日本に強制送還されるまでの7年間の記録である。インド以外はすべて徒歩旅行だ。

 

勤勉な男である。潜入時、既にモンゴル語には習熟していた。というのも蒙古ラマ僧に成り澄ましていたので、流暢に喋られなければ、命にかかわった。ラサへの道中からはチベット語の勉強を始め、日常会話を不自由なく話せるようになっている。ラサのデプン寺ではチベット教の修行をした。また読経もできるようになっている。インドとネパール入国後はヒンズー語とネパール語も習得し、その後ビルマに入国予定だったので、ビルマ語も学習するつもりだったろう。

 

好奇心も旺盛だった。インドに入国してカルカッタ(当時)に行った後、ラマ僧として仏教の聖地巡りに向かった。その後パキスタンアフガニスタンに興味を持ち、パキスタンとの国境の町、アムリトサルまで行ったが、印パ紛争でそれより西に行けなかった。行きずりの縁で、カルカッタまで戻ることになり、そこでビルマに興味を持って労働者として入国を試みた。

 

また仲間にはとことん尽くした。目の前のことには一生懸命に取り組んだ。仕事を時間いっぱいまで黙々とこなし、仲間が困れば世話を焼いた。それが周囲の信頼を生み、西川の旅の行方を好転させた。

 

西川が最も自分らしい、自分に馴染んだ旅が出来るようになった時、突然、旅は終わった。多言語を習得し、戸口でお経を唱えたり、乞食をしたり、インドでは肉体労働をして糊塗をしのぐ方法を多数覚え、大木の下や、家の軒先や、インドでは無料の宿泊所など、多数の宿泊方法を覚え、木製もっこを担いでの徒歩移動や、食糧をヤクに積んでの長期の無人地帯の移動や、インドの列車の無賃乗車など、幾つかの移動方法を覚え、チベット仏教ヒンズー教イスラム教のそれぞれの社会との接し方を覚えた。行きたい所に行って、生きたいように生きる自信が着いた時、突然に旅が終わった。

 

人生は常にサドンデスだと思うが、無念だったと思う。

 

西川の自由な、何ものにも囚われていなさそうな旅は、つまり全てをありのままに受け入れた旅は、基本的には、西川には守るものが何も無かったから可能だったと思う。そのことが無防備で、ありのままの西川を生み、人々を惹き付け、素晴らしい体験を可能にした。

時代と西川の性格が許した僥倖だったと思う。

 

西川もすごいが、西川が出会う人たちの中にも、本当にすごい人たちがいる。例えば、チベット移動中に出会った貧しい農夫だ。粗末な家に招き入れ、一夜の寝床を提供しただけでなく、妻と3人の子供が煮え上がるのを炉端で待っている臓物汁を、一番に西川のところに持ってきて振る舞うのである。

私たちは西川にはもう成れないが、この農夫には成れる可能性が残されている。

 

本書には巡礼を共にした、また束の間かかわりを持った普通のラマ僧の日常が描かれている。何かの事情でラマ僧になることを決意し、家を捨て、有名なラマ寺を目指す。そこで修業した後、また別のラマ寺を巡礼しながら目指し、そこで修業する。そういうことの繰り返しである。そしてある者はラマ寺で病死し、ある者は巡礼途上で朽ち果てる。まさに、旅を棲家にして、旅に死んでいくのである。

 

このような人生を送ると、人生に意味や意義を求めなくなるのではないか、と思う。しなければならないことなど無く、ただ今を穏やかに生きることが大切になるのではないかと思う。

だとしたら、人生をかけて巡礼することが、仏教の教えにも叶っているように見える。

 

西ヨーロッパにも有名な巡礼道があるが、期間はたかだか数か月だろう。一生をかけて神父が教会を巡り続けるという話を私は知らない。キリスト教的価値からすれば、巡り続けるのではなく、修道院で身を修めなさい、ということになると思う。



ラサにはデプン寺に7700の、セラ寺には5500の、ガンデン寺には3300の僧徒がいると言われたようだ。膨大な非生産人口をラマ教徒は養わなければならない。標高が高いため、農業生産効率も悪いだろう。チベット国ではチベット教が国教だから、国家の収入が当てられるにしてもかなりの出費である。

つまりそれを支えるだけの市民の支持があったのだ。

 

それとは別に、農民がラマ僧になって故地を離れるのは、人減らしのシステムだった可能性がある。遊牧集団、放牧と農耕の兼業集団、ともに生産性は低い。伝統的な生活を続けている限り、人口は定常なはずだ。結果、余剰人口は間引かれるか、出ていくしかない。

西チベット地方に当たるラダックのラマ教徒の集落では、長男と長女しか結婚できない。結婚後も長男は実家で生活を続ける。妻入り婚である。これは人口抑制対策のようだ。結果、許可されれば、次男、3男も長男の妻と関係を持つ、一妻多夫婚が成立する。

モンゴルやチベットでは、これとは別の形の、出家という宗教を利用した地域社会維持システムが生まれたのかもしれない。

タイでも貧しい農家の次男、3男は子供のときから出家して寺で生活する。これも貧困層の増加を抑制して地域社会を安定・維持するシステムだと思う。



西川の中国潜入以降の人生を振り返ると、3つに分かれる。敗戦を知るまでの、敵地を探るスパイとして自覚していた時期。敗戦後、好奇心のままに旅をつづけた時期。強制帰国後の日本での人生。

 

本書では日本での人生については僅かしか触れられていない。しかし私は、アジアで解放感を経験した人物が、日本での生活をどのように考えていたのか、とても興味がある。

西川は旅の記録を出版しようと帰国後の数年を執筆に費やしたのち、1958年、40歳で結婚し盛岡に引っ越す。そして年老いるまで仕事を淡々と続けたようだ。

 

結婚をしたからには、相手の希望を汲まなければならないだろう。子供が生まれたからには、働いて養育をしなければならないだろう。しがらみに雁字搦めになった気分だったろう。西川は、結婚後の早い時期に人生の夢や希望を諦めたのではないか、と思う。だから家族への義務として淡々と生きた。

もしそうだとしたら、そのことを家族に気付かせなかったことも西川のすごいところだと思う。

 

本書著者の沢木氏は何度も西川氏と会っているが、その沢木氏が言うには、西川はもともと淡々とした人で、旅の最中も淡々と過ごし、帰国後も淡々と過ごした、と書いている。

しかし私には、沢木氏の描いた西川が、チベットやインドを淡々と旅したとはとても感じられない。好奇心が旺盛で、夢や希望が次々に湧いてくるような人に見える。

 

だとしたら、帰国後は残酷な人生だったが、立派な人生でもあった、と思う。

 

追記

 

強制帰国させられた理由は以下のようである。

 

同じように中国に潜入していたある日本人とその道中に時々すれ違うことがあった。その人が、自主申告すれば日本人は罰せられず日本に送還される、という情報にインドで接し、自ら申し出て、かつ担当官に、西川の名前を親切心で出したのだ。西川も行き詰って、帰国したかろう、と。

実際はビルマ入りの準備も整い、あともう少しで入国できるところだった。