ヘカテとはもともと古代ギリシャ神話の冥府神の女神の一人で、いろいろな役割を持っているようだが、この映画の原作の題が、「ヘカテと彼女のイヌ達」ということなので、この場合のヘカテは、松明を持って地獄のイヌを連れて夜の三差路に現れる、という表象だと思う。三叉路とは地獄と天国につながる特別な場所のようだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%82%AB%E3%83%86%E3%83%BC
原作の小説は1954年にポール・モランドによって書かれた。wikipediaによると、著者は1888年に生まれ、上流階級に属し、長く外交官生活を経験した。白人優越主義者で、民族差別、ユダヤ差別を当然視し、階級差別は当然で望ましいものだと思っていたようだ。ドイツ占領下のヴィシー政権で、スイス大使を経験している。
https://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Morand
原作の舞台は、1920年代のモロッコのタンジールである。タンジールはジブラルタル海峡を隔てた対岸のアフリカ側の町である。当時はフランス・イギリス・スペインの共同統治になっていたようだ。
さて話は映画に移る。
あらすじは
https://cinemarche.net/lovestory/hecate-takizawa/
舞台は1932年の北アフリカで、多分タンジールだろう。33年にはドイツでナチスが政権をとるので、その前年に当たる。
フランス本国から外交官として派遣された独身の若い男の主人公が、一人で住んでいるアメリカ人女性と関係を深めていくお話である。
主人公が女に、お前は何者だ、と聞く場面が何度かあるが、そのたびに女は、あなたが望んでいる女だ、と答える。
この映画では私はここにこだわりたい。
お馴染みの主題である。あなたが望んでいる女だ、とは、自分の欲望の合わせ鏡になっていることを表現している。つまり自分の欲望がそのまま表現されているのだ。
そのとき人はどうなるのか、が主題である。自分の欲望がすべて叶えば、人はどうなるのか。
「夢の涯てまでも」(ヴィム・ヴェンダース監督)でも、自分の夢を覚醒時に見れる場面があった。そのとき人は廃人のようになった。
この映画でも堕落していき、廃人のようになっている。あとで主人公が出会うことになる、女の夫も、シベリアで廃人のようになっていた。
他の男と関係する女に、主人公が嫉妬する場面があるが、これも主人公の欲望・望みなのだと思う。それを女が演じてるに過ぎない。
で、主人公は増々ビビドな人生を生きるのである。感情が昂ぶって、生きてる感が充実するのである。感情に振り回されて、外から見ると、堕落していくのだ。
フランス政府から任地を召還され、女と物理的に離れる。10年後スイスのベルンの上流社会の人達が利用するレストランで出会う。主人公は元気そうである。そこで二人はオシャレな会話をして別れる。
そこで映画は終わるが、そのあとのストーリーはこうであろう。
当然のごとく、主人公は女に近づき、昔と同じような関係を築き、”堕落・破滅”していくのである。
追記
◎ 些末なことだが、映画の舞台が1932年になっているのに、女の夫がシベリアで軍務についている。小説の舞台は1920年代なので、シベリアでの軍務とは1918年から1922年まで続いたシベリア出兵のことだと考えられるが、1932年にフランス軍がシベリアで軍務についていることは考えにくい。もちろんスパイ活動でもなかった。
◎ タンジールでの主人公たちの暮らしは場違いである。私はモロッコに行ったことがあるが、モロッコ人からすると、主人公たちの住んでいる家の広さ、室内の内装、調度品、の全てが場違いである。一介の外交官が何ゆえにこんなに贅沢な暮らしが出来るのだろう。
それはモロッコ人が労働によって創り出した富を、武力によってただ同然で奪ったからである。モロッコ人がこの映画を観たら、今でも屈辱を感じるだろう。何ゆえにモロッコで、モロッコ人が、フランス人にひざまずいているのだろう、と。
世界中で似たような風景が出現した。