imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

映画評 レビュー 「街のあかり」(アキ・カウリスマキ監督)をもう一度観た 2024年1月2日

「街のあかり」アキ・カウリスマキ監督2006年公開 を観た感想を以前書いた。

 

https://imakokoparadise.blog.jp/archives/23149043.html

 

その後アキ・カウリスマキ監督の作品を何本か観たので、一番始めに観た、そして手持ちの中ではもっとも最近の映画である「街のあかり」をもう一度見ると、どう感じるか気になっていた。

 

新たな感想

 

以前気付かなかったことがいくつかあった。

 

男はボスの女に裏切られたことを明白に意識し、そして悲しんでいる。

一回目では社会の底辺の存在は、主人公の男と屋台の女しか見えなかったが、他にボスの女も、不本意にボスに利用されている底辺の存在であった。他にも犬を連れている褐色の少年も、そして犬も同類である。

屋台の女と少年と犬の連携で、男は救われた。

 

そして相変わらず不可解なまま残されたことどもがある。

 

男は自分を騙したボスの女を訴えない。そして屋台の女の諦めない男への恋。男の突然の向こう見ずなボスへの襲撃。

 

明示された手掛かりはない。不可解なまま現象だけが羅列され、解釈は視聴者に委ねられている。

この不可解な現象を可能にする唯一の説明は、男がボスの女にぞっこんであった、以外にないと思う。

 

ここから、人生にはそんな瞬間があるものだ、というのが監督の主題である、という結論を引き出すこともできるが、そんなわけがないであろう。男の恋が主題であれば、もっと他の展開があったはずである。

つまり男のいちずな恋は物語の道具立てなのだ。自分の価値を信じ、環境にあまり影響されない男の暮らしを監督は描きたかったのだと思う。そのために一つの価値が必要であった。その一本通った男の暮らしの筋に社会の底辺の人たちを絡ませたかった。もっと言えば、男が屋台の女の手を取るラストのシーンが監督のイメージにまずあって、それに向けて物語を調整したのではないか、と思う。

 

それはそれとして

 

一度目に観た時には、演出かどうか分からない、と書いた寒々とした街は、明らかに演出であった。

と言うのも、映画の冒頭にこの無機質な街が映し出され、そこにテロップが流れる。明らかに意識をしている。

 

以上のことから考えると、監督の主題は以下であると思う。

 

無機質な街はコミュニティが崩壊した社会の象徴である。コミュニティ障害の男はそんな社会のありきたりの犠牲者である。そういう社会の底辺を生きる人々が、寄り添いながらも右往左往して生きている。

 

私の心に響く主題はこの映画にはなかった。



追記

 

レニングラードカーボーイズ ゴーアメリカ」に特に強く見られるパロディーはこの映画では抑制されはすれ滲み出ている。もちろん意識もされているが。

男の異性への接し方に監督のその趣味が現れている。

この性向は世界への基本的な監督の接し方なのだろう。