imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

仮説 人の欲望が社会の平準化を促した 2024年2月2日

表題を見ると、民衆の欲望が支配者の権益を掘り崩していく、と言うように読めるが、これから書くことはその逆である。

 

歴史を学んでいると、しばしば見かけるのだけれど、力を持った特権階級が下層民に対して可能な限り収奪しようとする。すると、始めのうちこそ下層民は従順に従うが、生活が成り立たなくなってくるので、反旗を翻し始める。そして、死を覚悟の暴動、団結が起こる。結果、特権階級が譲歩せざるを得なくなり、社会の平準化が少し進む。もしくは権利の平準化が少し進む。

 

歴史はこれの繰り返しだと思う。大きな前進で言えば、名誉革命も、フランス革命も、アメリカ独立戦争も、小さなもので言えば、一つ一つの選挙権の拡大や、労働者の権利の拡大や。

 

特権階級の欲が深いものだから、言い変えれば、人間の欲が深いものだから、適度なところで要求を止められず、持続可能な線を越えてしまうのである。結果、下層民の我慢の限度を超えてしまい、死ぬ覚悟での抵抗を招いてしまう。

 

その時々に多くの人たちの命の毀損が生じ、それと引き換えに社会の平準化が進む。

 

つまり社会の平準化、権利の拡大の原動力は、人の欲望の強さ、ということになる。

 

しかし日本の近代ではヨーロッパの支配者のような強い圧政はなかった。故に、下層民の暴動は少なく、故に権利の平準化が進まなかったのだ、と思う。

それはつまり支配者と下層民の距離が近かったのだ。支配者が下層民に共感することが出来たのだと思う。共同体としての仲間意識があったのだ。

 

本来、人権の拡大は、人々の不断の努力のたまもの、と言うように、抑圧される側の努力が強調されるが、私の実感だと、抑圧する側の際限の無い欲望のたまもののように見える。

 

追記

 

  • これに似たような現象を時々身の回りで見かける。

時間をかけて、少しずつ自分の陣地を増やしていく人のことだ。これだけ取れたのだから、もう少し取れるだろう、ということを繰り返し、最後には相手の堪忍袋の緒が切れて、すべてを失い、最初の地点に立っている。

 

私はこれを、元の木阿弥戦法、と名付けている。

 

  • アメリカ独立戦争を考えると、植民地のイギリス人が極貧に喘いでいたので、やむなく本国に反旗を翻した、と言うほど、植民地のイギリス人は追い詰められてはいなかったと思う。彼らが意識したのは、本国からの規制によって、今後得られるであろう利益の損失である。それがあまりに大きかったので、暴動を起こしたのだ。

だとすると、下層民が暴発する基準は、絶対的な貧困度ではなく、相対的な貧困度なのだろう。言い換えれば、実感できる損得差の大きさによるのだろう。