imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

映画評 レビュー 「トスカの接吻」ダニエル・シュミット監督1984年公開 2024年1月5日

ダニエル・シュミット監督の作品は「ヘカテ」(1982年公開)を観たことがある。

そのブログはこちら

 

https://imakokoparadise.blog.jp/archives/23936015.html

 

監督はオペラにも造詣が深く、実際にオペラの演出も手掛けている。

 

私は全くオペラを知らないが、題名のトスカの接吻とは、プッチーニのオペラ「トスカ」の第2幕終わりに主人公の女トスカが相手にキスをするふりをしてナイフで刺し殺す場面の意味だそうである。

この名前は、このドキュメンタリー映画に中心的に出てくる、1920∼30年代に活躍したオペラ歌手サラ・スクデリが得意とした役柄トスカからきている。

 

映画の舞台は「ヴェルディの家」と呼ばれる、引退した音楽家のためにヴェルディが作った老人ホームであり、自身もそこに葬られている。

その中で暮らす元音楽家たちのドキュメンタリーだ。

 

あらすじ

 

https://www.caring-design.or.jp/2020/03/17/3418/

 

上記のサラ・スクデリ(1906∼87)はミラノのスカラ座でオペラ歌手として7年間の契約を結んでいる。スカラ座の花形オペラ歌手だったのだ。何故そんな人がこんなところに住んでいるのだろう、と私は思うが、このヴェルディの家は趣味を同じくする人達のための、ただの老人ホームではないのかもしれない。

 

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あらすじで紹介した上記のサイトは監督の姿勢を好意的にとらえているが、私は逆である。悪意があると思う。具体的には、

カメラが回っているから、皆その前で演じているのである。サービス精神で歌ったり、オペラの舞台を演じてくれている。が、その前提抜きに、その場面だけ切り取ると、まるで過去の栄光から抜け出せない人たちのように見える。かっての得意曲を自信満々に歌う場面があるが、そう見えるシーンを切り取っているだけである。

特に悪意がはっきりしている演出は、

薄暗い物置部屋で、衣装トランクを開け、昔を回顧してオペラの衣装を着て歌う場面がある。もちろんカメラが回っているから演じているのだ。でなければ、いったい誰が誰もいない物置部屋で、一人で歌い続けるだろう。その映像を他の場面を挿入しながら繋いでいるので、見る側からすると、場面が戻るたびに「この人、まだやってる」と思う演出になっている。変な人に見える演出である。

 

ドキュメンタリーなので、これが事実だ、と思ってしまうと間違える。何を撮影して、どのようにつなぐかは、監督の意図次第である。

オペラが好きなはずなのに、何故こんな演出をするのか不明である。

 

私なら、出演者に失礼なので、このような演出方法はとらないだろう。

 

良く解釈すれば、人はこのようにしか生きられない、ことの提示とも考えられる。このようにとは、自分が輝いていた時代を思い出し、再体験してビビド感を実感してしか人は生きられない、ということである。年をとれば、人はなべて若かりしときを思い出し、今に再現し、その世界を瞬間、刹那の間、生きる。

つまり監督は、これは将来のあなたですよ、と提示している可能性がある。

 

果たして本当にそうなのかは、私はまだ還暦を過ぎたばかりなので分からないが。

 

だとしても、相手の善意を利用した、あまり気分の良くない表現手段だと思う。それを表現したければ、フィクションで映画を撮ればよいのだ。であれば、誰も傷つかない。

 

トスカがキスをするふりをしてナイフで刺す、という映画の題を深読みすれば、表面的には毒にも薬にもならない老人たちの回顧談義の戯れというキスは、実は私達にどう生きるかの鋭い切っ先を突きつけている可能性がある。あなた達はこの老人たちの懐古趣味を馬鹿にしているが、あなたが年老いた時、このようにならないと言い切れるのか、と。今そうならないような生き方を実践していますか、と。

 

だとしたら、恐ろしい問いかけである。

 

映画の題名から考えると、これが監督の主題である可能性が高い。これが主題であれば、出演者たちに対する失礼な演出もある程度理解できる。

 

今回はたまたま映画の題名から監督の主題に気付いたが、題名が無ければ私は気付かなかった。世の中には、映画に限らず、現実の現象に接するとき、もっと自分に役立つ解釈があるのに、そのことに気付かずに過ぎてしまうことが無数にあるだろう。

ひとつの現象をどれだけ多様に解釈できるか。どうしたら新しい気付きを見出せるか。何でもない表層から、とんでもない深層を見ることが出来るか。こちらの心持ち次第だと思う。

 

これだから人生はやめられない。





追記

 

映画の感想は以上であるが、他に気になったことがある。

 

  • 社員寮や社員旅行のあった日本の発想かもしれないが、”社員老人ホーム”は出世しなかった人は生涯肩身の狭い思いをして過ごさなければならないのではないか。演出かも知れないが、花形オペラ歌手は堂々として輪の中心にいるが、現役時代の仕事での地位が引退後もそのまま引き継がれると、無名で引退した人にとっては、たまったものではないだろう。

同じ業界の人が集まる老人ホームは、趣味が同じでいいこともあるが、現役の肩書がそのまま価値を持ち続けることもできるから、それはそれで大変そうである。

 

  • 1930年代、40年代前半のイタリアで活躍しようと思えば、ムッソリーニ政権に協力的であることが必須だったであろう。反戦や、反ファシズムを表明すれば、職に就くことさえ難しかったに違いない。

この映画の出演者の一人であるジュリエッタ・シミオナドGiulietta Simionato(1910~2010)の人気が出たのは1940年代後半からである。

 

  • この映画の中で、世界公演の思い出話の中に、リオデジャネイロが何度か出てくるが、ヨーロッパやニューヨークはともかく、それら大都市に伍してリオデジャネイロが出てくるのは、今の感覚では違和感がある。

BRICSの一員として名を連ねてはいるが、今のブラジルがそれほど繁栄しているイメージはない。

20世紀前半のブラジルは今より勢いがあったのだろう。資源輸出国として重要だったのかもしれない。

 

  • サラ・スクデリSara Scuderi(1906~1987)は映画公開の3年後である1987年に亡くなっている。ヴェルディの家は、医療ケアが必要になると退所しなければならないだろう、と思っていたが、調べてみると、要介護でも退所の必要はないようだ。だとしたら、サラ・スクデリはここで生涯を閉じたかもしれない。

 

https://www.mri.co.jp/knowledge/mreview/202002-3.html

 

  • この映画の登場人物が本当に過去の栄光、または若き日々の思い出の中に逃避して生きていたかどうかは、私には分からない。

即興でピアノ曲を演奏する作曲家がいたが、彼は今を楽しんでいるように見える。

 

  • 実を言うと、私はこの映画を観ている間、悪意ある演出にずっと腹が立っていた。観終わってから監督の経歴を調べると、何とオペラが好きなようである。不可解さが増した。結局は上記のように監督の主題が分かって納得したのだが、前に観た「ヘカテ」も私が浅読みしている可能性がある。あの映画もモロッコの価値をバカにした感じがあって、観ている間、私はずっと不愉快だった。