imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

映画評 レビュー 「夢の果てまでも」監督ヴィム・ヴェンダース 公開1991年 2023年11月28日

英語では「Until the End of the World」でそのまま訳せば、世界の終りまで、だ。邦訳のほうが映画にあっていると思う。

私が観たのは、ディレクターカットで287分であった。

 

内容は

https://cinemalamour.hatenablog.com/entry/2021/12/02/165005

 

世界を転々としながら撮影されているが、それが何か意味があるとは思わなかった。ロシアや中国や日本の場面があったが、なぜこれを載せたのか分からない。もっと縮小できるし、冗長さを避けれたと思う。

 

私にとってのこの映画の見どころは、自分の夢を覚醒中に見た時に人はどうなるか、である。そこから離れられなくなる、という発想は面白いと思う。この映画では、アディクションに陥り、廃人のようになる。

ユングは夢に補償作用を見出したが、今ではそれに否定的な意見のほうが多いようだ。

 

そのアディクションからどうやって抜け出すのか、に興味があったが、非常に安易な筋書きであった。1990年ごろの知識がどれ程だったのか分からないが、こんなこと、具体的には、アボリジニと一緒に寝るとか、自分を思ってくれている人が書いた自分の物語を読む、とかで、アディクションから抜け出せるとはとても思えない。

 

前半の世界移動も冗長だったが、後半の研究室でのやり取りも冗長だった。あまりにも長くて、監督の意図した主題がぼやけていると思う。

 

核衛星の爆発?で放射線汚染で世界の終わりが疑われているときに、研究室周辺に人々が避難してきて、核あとの世界が始まるのかと思いきや、食糧不足も起こらず、密な環境での関係の悪化も起こらず、ひどく平和なのである。アボリジニの世界にいることでそれを省略している。

 

ディレクターズカットという長尺で監督は何を表現したかったのだろう。「パリ、テキサス」を若いときに見たことがあるが、内容を覚えていない。なのでどういう傾向のある監督か分からないが、この映画を観る限りその主題は、男と女の出会いや別れは偶然の積み重ねである、だろうか。

 

いろいろ否定的なことを書いてきたが、これが今の私の限界である。

 

追記

 

wikipediaによると、この映画のストーリーは監督と主演女優の二人で作り上げたようである。

 

・ディレクターズカットという言葉の対はプロデューサーズカットあたりだと思う。つまりふつう私たちが観ているのはプロデューサーズカットだ。それは出資者がリターンが最大になるように編集されたカットのことだ。具体的にはより多くの人が面白いと思うカットだ。

それに対してディレクターズカットは監督という芸術家が、利益が出ることを前提に、自分の芸術性を可能な限り追求したカットだと思う。なのでしばしばプロデューサーズカットより長くくどくなってしまうのだと思う。

また監督によっては、せっかく撮影したカットを捨てるのが惜しくて、ついつい盛り込んでしまうのかもしれない。