imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

レビュー アメリカンビューティー 2023年8月

今更この有名な映画のレビューでもなかろうと思うが、思うところがあったので書いてみたい。

 

この映画は少なくとも日本ではいろいろな人が批評しているので、私が今ここで何かを言っても、後出しじゃんけんにしかならないだろうが、それを承知で書いていこう。

 

批評は例えば

https://youtu.be/qyWP3ZkMs7k

解説は後半からで、登場人物の心理分析が中心  山田玲司

 

https://youtu.be/3XwGSo8Idqc

映画の作られた背景も含めて  町山智浩

 

1999年公開で、ビデオレンタルが始まってすぐに借りたと思う。映像がとても美しく、もう一度見たいと長らく思っていた映画である。

若いときに読んだり観た作品は私の能力の為にとても浅薄な評価しかできていなかった、と言うことに最近気付いたので、この作品をどう感じるか楽しみだった。

 

シカゴ郊外に住む、日本から見れば、閑静な住宅街に住む、しあわせそうに見える家族の物語である。

40歳を過ぎた冴えない主人公レスター(ケビン・スペイシー)の妻キャロライン(アネット・ベニング)はアメリカの価値を体現した強烈なキャラクターである。

コントロール欲求が強く、生活環境の全てを意識して、それぞれを向上させていこう、今の気持ちを抑圧しても、理想の人生を追求しよう、というマインドである。社会的成功の追求であり、それは価値・意味に満ちた人生、とも、価値・意味に縛られた人生ともいえる。映画に表現されているように、もちろん周囲の人を幸せにしない。

 

対する負け組である主人公レスターは、妻からまともに相手にされず、自らも自分の価値をそう思い込んでいる。

が、あることをきっかけに諦めていた人生に穴が開き、生き生きとした心が甦る。そして自分を閉じ込めていた社会的価値のばからしさに気が付き、そのあとは大暴れである。

今の自分の気持ちに素直に生きることにしたのだ。会社を辞めて、取り合えず稼ぐためにバーガーチェーン店でパテを焼く。若い頃憧れていたスポーツカーの赤いファイヤーバードを買う。娘の友達に本気で恋をする。

私の座右の銘、今ここパラダイスである。

 

両者を通して表現されているのは、アメリカの価値(American way of life)は人を幸せにしない。正しいと思った価値を追求したのに、社会として失敗してしまった、と言うことだ。

 

アメリカの価値は経済的繁栄をもたらしたが、貧困な人間関係を導き、気付けば、家族さえばらばらである。このストレスフルな社会で鬱屈を抱えて生きていかなければならない。関係の貧困の成れの果ての現在進行形のアメリカが、鬱屈した人たちによる、トランプ現象であり、キリスト教原理主義の隆盛であり、排外主義の台頭であり、社会の二極化である。簡単に言えば、ストレスを抱えているので、非寛容なのである。

トランプ個人は早晩退場するが、構造が変わらないので、第2のトランプが登場する。

 

イギリスでは、外国人労働者排斥意識が高まってブレグジットが達成され、フランス、ドイツ、イタリアでも極右政党が躍進している 。

 

20年たった今、先進国を見渡せば、「アメリカン ビューティー」が提示した問題が正しかったことが証明されていると思う。

 

で、そのような不幸を回避するための一つの生き方が、レスターの生き方である。確実に生活水準を落とすだろうが、生き生きとした人生を送れるだろう。以前は娘のことに関心を持てなかったが、覚醒後、娘の友達から、娘は幸せである、と言うことを聞いて心から満足する。関係の大切さを知ったのである。

私見だが、継続する幸せは、関係の中にしかないと思う。

 

話は変わるが、中年のおじさんが若いタイ人と結婚した過程を書いた本がある。「死ぬなら今‐婿殿のチェンマイ日記」という題名で、これが意味するところは、今が一番幸せなので、死ぬなら今、なのだ。

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784946515309

 

これを敷衍すると、レスターも「死ぬなら今」だった。覚醒したレスターは、10年後に死んでも良かったし、今死んでも良かったのだろう。人は死ぬ直前になって、あれもしとけば良かった、これもしとけば良かった、と後悔しながら、恐ろしい時間を過ごすようだが、レスターにはその経験は無用だろう。

 

補足

 

ここにもう一人特異な登場人物がいる。隣家の退役軍人の息子リッキーだ。父は非常に厳格で、快感情に抑圧的である。リッキーに対しては暴力をふるってでも自分の価値を強要する。この背景によって、監督が描きたかったリッキーのキャラクターが作り出されている。

リッキーは死に魅せられた青年だ。監督が描きたかったのは死そのものではなく、生きる意欲の向こう側だと思う。欲望達成でもなく、欲望抑圧でもない世界だ。空っぽさ(emptiness)である。意思の外側だ。ただ流れに身を任せる。ビニールが風に舞う場面を私はそう捉えた。

 

つまり以下の構造である。

キャロラインとレスターの存在は、如何に生きるか、という点で対立概念になっている。更にこの両者が前提としている、よりよく生きたい、という欲求とリッキーの空っぽさの間には、如何に存在するか、が対立概念になっている。

(キャロラインvsレスター)vsリッキー

という関係だ。



雑記

 

・もしレスターが退役軍人に殺されていなかったら、その後どんな人生を生きただろうか。いろんなことが想像できるだろう。あなたならどんな行動を予想するだろうか。

 

で、あなたが想像したことをあなた自身が実行してみてはどうか。それがあなたが周りの目を気にしてできないことだから。

 

・監督はリッキーの世界を本気で描こうとはしていない。物語が複雑になり過ぎるからだろう。

監督のその後の作品を見たことが無いが、必ず追及しているはずである。

 

・実はゲイであった退役軍人がレスターに関係を拒否されて、恥辱を晴らすために殺すのはコメディである。監督はここに深い意味を持たせていないと思う。

 

・リッキーは空っぽさに憧れているが、まだ目的地を見つけていない繭のような存在だと思う。まだ監督自身も答えを見つけていないのだろう。

 

・キャサリンが映画の最後にピストルでレスターを殺そうとするのは全く不可解である。撮影したのでそのカットを捨てるのが惜しくて無理やり挿入したのだろう。