imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

目的と手段 1目的と手段の関係 2022年11月

当たり前だけれど、目的が決まらなければ、手段は決めようがない。例えば富士山の頂上に立つ、と言う目的があるから、富士吉田まで電車で行って、駅から歩いて頂上を目指す、という手段が決まる。目的が決まっていなければ、あれっ、俺なんで今ここを歩いているんだろう、と言うことになってしまう。しかし世間では手段自体がプラス価値を持ってしまい、つまり自己目的化してしまい、前段の目的を問わずに手段を絶対視することがよくある。

例えば読書、例えばスポーツ、例えばパソコン上達法。

本来ならまず目的があって、その目的を達成するために、手段としての読書やスポーツやパソコン上達法があるはずである。

 

と言うような疑問を持って、目的と手段の関係について考えてみた。

 

私を例にすると、私の最終目的は、

1今を楽しむことである。

ではその目的を達成するための手段は、と言うと

1) 仲間づくり、2) 夢の実現、である。

では例えば2)夢の実現を達成するための手段はと言うと、

1)) 健康維持、2)) 生活維持である。

では例えば1))の健康維持を達成するための手段はと言うと、1))) 懸垂20回、2)))アブローラー20回、等々である。

 

つまり大目的を達成するために幾つかの手段があり、次にその幾つかの手段がそれぞれに中目的になり、その中目的を達成するために更なる幾つかの手段がある。更にその幾つかの手段がそれぞれに小目的になり、その小目的を達成するために更なる幾つかの手段がある。

と言うように幾つもの目的と手段が入れ子状態に重なっているのである。手段がその下の手段を達成するための目的になっていて、逆から見ると目的がその上の目的を達成するための手段になっているのである。そしてその過程の自分に近い側に、読書やスポーツやパソコン上達法などの具体的実践がある。

 

何が言いたいかと言うと、大目標が決まらないと、それ以下の入れ子構造の手段が決まらないということだ。

例えば読書をする、という目的があったとすると、では何のために読書をするのか、つまり目的が必要になる。知識を得て偏差値の高い大学に入学するため、と言う目的ならば、自ずと読書をする内容が決まってくる。次に、大学に入学する目的は何か、が更に問われる。と言うように順々に上に上がっていき、最後に大目的にたどり着く。というか実際はまず大目的を決めて、順々に降りてきて、最後に、だからこれこれの読書をするのだ、という流れになるだろう。

 

と言うことを考えると、お金持ちになる、とか、総理大臣になる、とか、医者になる、というのは大目的になりえない。

何かがしたいからお金が必要で、その為にお金持ちになりたいのだろう。日本をこんなふうに変えたい、と思うから総理大臣になりたいのだろう。患者の苦しみを少しでも減らしたいなどと思うから医者になりたいのだろう。

何かしたいことがあって、それを達成するためにそれほどお金がかからない手段があるのなら、お金持ちになる必要はないだろう。

総理大臣も医者も同じである。目的を達成するためにより効率のいい手段が見つかれば、さっさと変更すべきである。

また同じように、政党が選挙の時にマニフェストを発表する時、そこにはまず何よりも大目的、例えば、皆が幸せを感じる社会の実現、などが書かれていて、その次にはそれを達成するための手段、別の見方をすれば、中目的が書かれていなければならないと思う。で、いろいろ入れ子を通った後の最後に、だから増税が必要なのだ、とか、減税が必要なのだ、という順番であるはずだろう、と思う。目的が決まらなければ、手段は決まらないのだから。

 

余談

 

1  感情から見た目的の設定は2種類あって、ひとつは、快への追求、もうひとつは不快からの逃避である。

例えば、ここは陽が当たらなくて寒いから陽の当たる場所に移動しよう、は不快からの逃避である。そしてそれだけで目的と手段が完結している。非常に短い目的から手段に至る過程である。

例えば夢の実現は快追求である。

過程が短ければ短いほど、情動に支配されている。例えば、腹が立ったから怒鳴る、のは、不快になったので怒鳴って解消し目的を達成した、という非常に短い過程で完結している。前頭葉がほとんど介入していない。爬虫類脳と言われる所以だろう。

逆に過程が長ければ長いほど理性、つまり前頭葉を使っていることになる。例えば、叶えたい夢は通常長い過程を持っている。

 

2  目的にいざなうおおもとの快には2種類あると思う。ひとつはワクワク系の快感で、もうひとつはしみじみ系のしあわせ感である。

私の偏見かも知れないが、人生の最終的な大目標は、しみじみ系になっていくと思う。我田引水すれば、今ここパラダイスは典型的なしみじみ系である。