2022年4月に出版された本である。この本を読んで思ったことを書いてみたい。
今まではあまり一般的ではなかった映画の見方が紹介されている。以下箇条書きにすると、
1 仲間との会話に加わるために、あらすじだけ知っておきたい。
2 見たいものだけ見たい。見たくないものを見て、心を揺さぶられたくない。
3 心地よい場面や音楽だけに触れていたい。
4 疲れたくない。重いものを見たくない。
5 文脈を読みたくない。すべて言語化して欲しい。
6 ザッピング。あれでもない、これでもない。
7観る前に自分が観たい映画かどうかを知りたい。 失敗・間違いをして時間を無駄にしたくない。
さて私の見たところ、
1 はお馴染みのパターンである。仲間外れにされたくない。同調圧力に弱いタイプである。自己肯定感の低い人たちの典型である。
2 心を揺さぶられたくない人は、悲しい場面や、不快な場面を観ると、心にその感情がダイレクトに入ってくる。人は他人と接するとき、距離を置いて接する。人との間にバッファゾーンがある。しかしこの手の人はバッファゾーンが狭いので、他人の感情が直に侵入して、我がことのようにビビドに感じてしまうのだ。剥き出しで世界と接している。容易に他人の価値を取り込んでしまう。他人の価値のうちのひとつが感情、と言うより、価値の中心が感情である。その感情を取り込んでしまう。戯画化すると、自分を差し出しているのである。結局それは、自分より世界が大きすぎることが原因なのだ。世界が大きすぎて、世界が侵害しているのだ。逆に言えば、世界より自分が小さすぎて、世界に脅かされている。
3 快適な情報だけに包まれていたい人も、2と同じで、世界が大き過ぎて常に侵害してくるので、快適さ、心地よさを過剰に求めてしまう。
4と5は、作品を娯楽として観ている。文脈なんか読みたくない。映画を観て疲れたくない。考えたくない。心をかき乱されたくない。心に負荷をかけたくないのだ。誰にでもそういう瞬間はあるが、それが常態になれば、何ものかを意味しているだろう。楽をして生きることが人生の目的になっている可能性がある。人生を楽しむのではなく、楽をして生きたいのだ。つまりリビドーが低下している。だから未知の世界に出れないのだ。リビドーが低い理由は、日常的に侵害されているからだろう。やはり世界のほうが大きすぎるのだ。
と、バッサバッサと切ってしまった。さて本論。
1から5が映画を探すときの目的だとすると、6と7はそこに到達するための手段や心構えである。目的の映画を探すためにザッピングして効率よく目的の映画を探す。必要のない映画を観て時間を無駄にしたくない。
以下この行為について考える。
6と7の手段を好む人は、簡単に言えばコストパフォーマンス・効率を求めているのである。コストパフォーマンスの対象には、お金と時間がある。
お金を節約することについては、節約して余ったお金は更なる目的の達成に使えるので、つまり同じ価値を投入して得られるリターンが増加するので合理的な態度だといえる。もちろんほかの要素、時間や手間とのバランスはあるが。
6と7で意識されているのは、もちろん時間の節約のほうである。
ではどうやって時間を節約するのか。人に聞くのが最も手っ取り早いだろう。どの映画がよかったか。自分の好みに合う映画はどれか。ネットが無かったころは、周りの人に聞くしかなかった。その疑問に答えられる人は10人もいなかっただったろう。その中に自分が求めた答えがある可能性は更に低い。が、今はネットで検索すれば、求めた答えがいくらでも出てくる。
で、時間を節約して、どうするのか。多くの人は生活時間の全てを効率的に使っているわけではない。時間を節約して新たに作り出した時間は、何か特別なことに使うわけではなく、なんとなく使っているだろう。ではなぜ時間を節約するかといえば、無駄に時間を使いたくない、という強い意識がなさせるのだと思う。無駄なことはこれっぽっちもしたくないのである。
無駄とは具体的に言うと、幾つかの映画に目星をつけて、実際に観ることだ。それがすべて外れの可能性もある。そこで思わぬ発見があったりもする。それが試行錯誤と言うことだろう。試行錯誤とは、学習ともいえるし、偶有性に踏み出している、ともいえる。しかしそれでは効率が悪いのだ。
つまり試行錯誤を無駄と感じるのだ。
言い換えれば、かけた時間に比例してリターンが欲しい。それが前提にしていることは、世界は計算可能で秩序だっている、つまり世界はシンプルで操作可能である、という感覚だと思う。すぐ手の届くところに答えがあるだろう、という感覚だ。
しかし実際は世界は複雑なので、操作不可能である。がそれを見たくないので、見ないようにしているのだ。別の言い方をすれば、実生活では、思ったようにならないので、せめて一人でいる時間は世界操作可能感を感じていたいのだ。
つまり私がこの本を読んで得たことは以下のことだ。
試行錯誤を時間の無駄、と感じるほど、強く世界操作可能性を実感していたい。世界はシンプルで計算可能なのだから、早く答えをくれ、と。そういう人たちが増えている。
この原動力は、ひとつは世界が思い通りにならない、つまり世界が自分より大きすぎることに原因がある。ここ20~30年でその傾向が大きくなっているのは共同体が解体して、個人が孤立して不安を感じる閾値が下がっているからだ。
もうひとつは、ヒトは科学技術の進歩に応じて、効率をより求めていく生き物だから、だろう。と言うより効率を求めて科学技術が進歩してきた。より効率的に、より清潔に、より見栄えが良く、より快適に。それはとどまることが無いのだと思う。
以上の態度を敷衍すれば、以下のことが起こると思う。
掛けた時間と手間に比例したリターンが得られる、ことと最も縁遠いのが人間関係である。
大切な人との関係に損得を計算して接する人はいないだろう。
人間関係は損得関係だけでは成り立たない。感情のやり取りがあるからだ。相手からプラスの感情を受け取ったり、心の底からプラスの感情が湧き上がったり。
しかし関係によって生起する感情は不確実で不安定である。なぜなら相手の対応が完全には予測できないからである。そもそも計算可能性が高くないのである。偶有性に支配されているのである。
故に人間関係に効率は求められない。それはお門違いである。もし求めれば、相手の反応が不確実であるがゆえに効率つまりコストパフォーマンスは悪くなるだろう。なのでそれを避けるには、人と疎遠になるしかない。
余談
◎ ネットが無かった時代に、ある疑問を抱いた時、答えを得るためには、自分で考える、人に尋ねる、書籍・資料から探す、しかなかった。いずれも時間が掛かり、試行錯誤が必要だった。望まない経験が伴った。
しかし、それが当時の人たちにとって、最も効率が良かったのである。
つまり望んで試行錯誤したのではなく、やむなく試行錯誤したのである。
その結果として、いろんなことを学習したのだ。
ネット時代になって、浮かんだ疑問の答えがより効率的に得られるようになった。試行錯誤する必要性が減少したのだ。答えはネットの中にある、ということになった。答えは自分で創造するのではなく、どこかから見つけ出してくるものになった。それは、世界はシンプルな構造をしている、というイメージに結びついた、と思う。
結果として予想外の学習をすることが少なくなった。
◎ 便利の究極の形は、今ここで希望が叶うことである。映画の情報に関しては、それが実現しつつある。
ある個人が便利さに抗することは出来るが、僅かの例外を除いて(私の知る限りクウェーカー教徒のみ)、マスとしての人間が便利さに抗することは歴史上なかった。
つまり求めた答えが効率よく分かるのなら、人は必ずそれを利用する、と言うことだ。定向進化で逆戻りできない。
◎ 特に人生を対象にしたとき、無駄とは試行錯誤の別の謂いである。そして試行錯誤とは学習のことである。