imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 松葉杖の体験 2022年11月

40代の前半、足のけがをして松場杖をついていたことがある。

 

その時自転車通勤をしていたのだけれど、やむなく電車通勤に変えた。たかだか15分から20分の乗車だったが、満員である。初日は本当に恐る恐る乗った。窓付近は押されるのが怖かったので、座席方面に何とか移動していくと、驚いたことに座っていた人が席を譲ってくれたのである。通勤電車で席の譲り合いがあるとは思わなかった。感謝して座らせてもらったのである。足が曲げられないので、申し訳ないがまっ直ぐ伸ばしっぱなしである。ホッとして座っていると、乗換駅で、かなりの人の乗降があった。その時に伸ばした足が持って行かれるのである。下りる人たちは必死なので私の足をそれほど構っていられない。かなり痛かったのである。

今日はたまたま親切な人に当たったのだろうと、翌日また同じ行動をとったのである。するとまた席を譲ってくれるのである。実は座りたくなかったのだけれど、その気持ちに感謝をして座って、また同じ痛さを経験した。

この日以降も席は毎回譲られた。譲ってくれた人はさまざまである。若者から初老まで。特に男性に多かった。

日本人も捨てたものではないな、と思ったのである。

 

仕事の帰り、久しぶりに新宿のデパ地下でショップが集まっているあたりをうろうろした。松葉杖で歩くのに慣れていないので、あまり早く歩けない。お店の前をゆっくり見て歩きたいという気持ちもあって、松葉杖をいいことに立ち止まりながら商品を見て回った。それまでは店員の視線が気になってどうしてもゆっくり歩けなかったのである。

で、それ以降、松葉杖を言い訳に店頭でよく立ち止まるようになった。店員がしつこく売り付けるような、心配していたことは何も起こらなかったのである。

その後松葉杖なしで歩けるようになった時、松葉杖があったときには出来て、無いときには出来ない、という何の物理的理由も無いだろう、ということに気が付いて、以降、普通に立ち止まれるようになったのである。

 

ある状況で出来ることは、直接の影響がない限り、必ず別の状況でも出来るものなのだ。

例えば、皆で出来たのなら、1人でも出来るはずである。皆で出来て、1人で出来ないのは、ただ衆を頼んでいるだけである。

例えば、以前行ったことのある外国を訪問するとき、それほど緊張せずに行けるのなら、初めて訪れる外国もそれほど緊張せずに行けるはずである。することはどちらも同じだからである。飛行場に着いたらまず両替をして公共交通手段を探して市内まで行く。ただ少しスムーズに進まないだけである。

 

足を怪我した当初は、憂鬱な気分だったが、いざ松葉づえ生活が始まると、予想外のことに出会い、とても楽しかったのである。

当たり前だけれど、わざわざ松葉杖生活を送る人はいない。偶然が非日常をもたらして、楽しみながら新しいことを知ったのである。

 

最近の日本人だけでなく、偶然に左右される人の人生もまた捨てたものではない、と思ったのである。