学びて思わざれば則ち罔し
とは教えてもらって、自分で考えなければ、道理が理解できない。
思いて学ばざれば則ちあやうし
とは既存の学問を利用しないで、自分一人で考えると、独断になって、危ない。
私は今まで違った文章と解釈をしていた。
思いて学ばざれば則ち罔く 学びて思わざれば則ちあやうし
と思っていた。
以下が私の解釈である。
思うとは倫理的に考えることである。具体的に言うと、他者のことを思い遣ることだ。(自分の利益を第一にすることは、別に考える必要はない。すべての動物がしていることである)だとすると、この文章の解釈は、
いくら倫理的に考えても、学問の蓄積を利用しなければ、新しいものを生み出せない。逆に学問の知識を豊富に獲得しても、倫理感が無ければ危険である。
これを身近なことに引き付けて言うと、倫理観のない経済行動は危険である、ということになる。
具体的に思い描いていたのは以下のような行動である。
自分の利益の為に共同体の基盤を掘り崩す行為である。環境問題はその典型である。他に思い浮かぶのは、儲けるための先物取引やデリバティブである。そもそもこれらの取引はリスクを分散させるために生み出された。しかしこれは儲けるためにも使うことが出来る。
個人がこれを使って大損するのはともかく、巨大投資銀行が大量の資金をリスクヘッジではなく儲けのために使い、巨大損失を抱えた時、市場の信用は失われる。公共の基盤が掘り崩されるのである。
というような間違った文章とそれ故に間違った解釈をしていた。
これを書いていて気付いたのだけれど、どちらも同じことを言っている気がする。思う、と学ぶ、の意味の取り方次第である。
論語では、学ぶ、とは教えてもらうことで、その教えの中には倫理が組み込まれていることが前提になっている。君子が善政を引くことを目的に組み立てられた理論なので当然なのかもしれない。
現代の、学ぶ、とは、学問を納める、という意味で、その学問の中に倫理、つまり価値は含めないようにしているだろう。
この意味の取り違えが、私の間違った文章を生み出したのだと思う。