imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

世界と向き合うために 楽しい人生の過ごしかた

人は感情に振り回される生き物である。感情は制御できないからだ。なぜなら感情は無意識から湧き出してくるからだ。脳科学的に言えば、感情をつかさどる中枢の扁桃体と、記憶の中枢である海馬との間で情報をやり取りすることで感情が生起するが、やり取りされる海馬の情報の大部分は意識に上らない記憶だからだ。

では振り回されっぱなしかと言うとそうではない。別の回路が用意されている。思考をつかさどる中枢の前頭葉扁桃体と情報のやり取りをして、ある程度は感情の制御が出来るようになっている。

感情をコントロールするにはここを使うしかない。つまり思考する事によって扁桃体に介入するのだ。

 

ではさっそく思考していこう。

 

1 物理世界から介入する  要諦は、とにかく具体的に考えることである。

人を悩ます感情は、不安・怒り・憎しみ・妬みなどだ。まず不安を例にして考える。

 

1)まず不安の正体を突き止める。これは物理世界の中で探せばよい。不安は未知なものと接するときに生じる。例えば、近々試験があるが、どんな結果になるかわからない。今度大切な人に会うが、うまく対応できるかわからない。

 

2)具体的な不安の原因が分かれば、最悪の場合を具体的に予想する。ほとんどの場合、命にかかわらないだろう。せいぜい他人からの自分の評価が下がるぐらいだ。試験に落ちた、試合に負けた、としても、人生いくらでもやり直しがきくし、どうにでも生きていくことが出来る。漠然と感じていた、天地がひっくり返るようなことは起こらない。

 

3)今までの経験から予想する。ほとんどの場合、今まで何とか切り抜けられただろう。であるなら確率から言って、今回も切り抜けられる可能性が高い。

 

4) 以上のことを、心から納得するまで、具体的に考えてみる。

 

次に怒りについて考える。

1’)まず怒りの正体を突き止める。怒りは尊厳を傷つけられた時に感じる。別の言葉で言えば、承認されなかった時に感じる。例えば、喋りかけたが全く無視された。対等だと思ってた人に、上からものを言われた。信用してた人に裏切られた。

 

2’)具体的な原因が分かれば、

   1)) まず相手の行為が怒るに値するか確認する。つまりもし自分が相手ならどうしたか、を想像する。悪意の有無も確認する。怒るに値すると思えたら

 

   2))  その相手に承認されなかったことが自分にとってどれほどの意味があるのかを考える。どってことのない人に承認されなかったからと言って、ストレスを増大させて怒る価値が本当にあるのか。私のことをほとんど何も知らない人に承認されなかったからと言って、本気で怒る必要があるのか。よくあるのが、通りすがりに見知らぬ人から不愉快な思いをさせられることだ。クレーマータイプやひと悶着起こして充実感を味わいたい人かもしれない。そうと知っていれば、相手にもしないのに、普通の顔をして歩いているから、気が付かずに、まともに相手をしていることがある。

 

   3))  非常に大切な人に尊厳を傷つけられた場合。その気持ちを相手に伝え、それでも相手が変わらなければ、相手は自分のことを大切に思っていないと言うことだから、悲しいけれど、その関係を終わらせるしかない。これ以上傷つけられないために、相手のことを特別の場所から降ろす。

 

3’) 以上のことを、心から納得するまで、具体的に考えてみる。

 

以上のように、出来る限り具体的に詰めて考える。ほとんどの場合、不快感情に囚われるのは、馬鹿げたことだと気が付くはずだ。

 

2  抽象世界から介入する。自分が認識している世界は自分の脳内で立ち上がっている世界に過ぎないと実感することである。私にとって絶対的に存在する世界などない、と実感することである。つまり世界がどのように見えるかは、私次第なのである。

 

1) 私たちは外界そのものを直接認識することはできない。感覚器官を通して、脳内で再現するしかない。感覚器官を通すとは、間接的にしか外界を認識できないことを意味する。脳内で再現するとは、個々人の偏見(過去の経験)の影響を受けることを意味する。つまり同じ経験をしてきた人は2人といないので、自分と全く同じ外界を見ている人も2人といない。外界は、偏見を持ってしか見ることが出来ない。偏見は人それぞれ色々である。故に自分が選んだ偏見で外界を見てもいいのだ。つまり自分の好きなように外界を見てもいい。

このことを腑に落ちるまで実感することが大切である。

 

2) とはいうものの、長年の経験から、目の前に拡がっている世界を絶対的な世界ではない、と実感するのは難しい。それを乗り越える方法は

 

   1)) 具体的によく考えて、論理的に納得する。  

 例えば、いつもと同じ景色なのに、いつもと違って見えるのはなぜか、と言うことを考えてみる。この考察によって、人は過去の経験によって世界を見ていることを実感する。

 

次に、自分にとって都合の良い偏見を選び

  2)) 瞑想をして自分に信じ込ませる。瞑想を使って 無意識の境界trans consciousnessに近づき、自己暗示をかける。

言葉にすると分かりにくいが、要は瞑想をして、自分に都合の偏見を言い聞かせるのである。

例えば、世界は自分の意識の反映に過ぎず、実は絶対安全空間である、とか、世界は私が拡大したものである、など。

大切なのは、世界と私は等価である、世界は私を脅かさない、という実感である。

 

3 世界を以上のものと認識するのと並行して、人生に向きあう態度も意識する。

 

1) 覚悟を決める。 自分で考えて、自分で決めて、自分で責任を取る。そう覚悟を決めると、自分に対して胸を張れるようになる。

 

2) 今後の人生は未来に属することなので、予測しきれない。前もって知ることが出来ない。故に必ず間違った選択・対応をすることがある。故に失敗・ぶざまは不可避である。不可避であるなら気にしないことだ。その失敗を気にしも良いことは何もない。

 

3) 世界は意味を持たない。意味に向かって動いていない。よって世界の部分集合である人生も本質的には意味を持たない。突然殺されることもあるし、悪くもないのに謝らなければならないときもある。つまり世界は理不尽である。それは受け入れるしかない。その覚悟を決める。

4) 何事にも一生懸命にあたる。言い訳・逃げ道が用意された人生は充実しない。人生は本質的に意味を持たない、言い換えれば、空虚である。社会は意味であふれているが、あえて作っているに過ぎない。空虚さから逃れるためには、独自の価値を作るしかない。そしてそれに向かって一生懸命に生きることしか、虚しさから逃れる道はないと思う。