imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

自己評価と社会からの評価 2022年9月

私は昆虫が好きである。小学生の時は昆虫博士になるのが夢だった。友達から、昆虫博士、とおだてられると、非常に嬉しかったものだ。 

私のその夢も、中学に入ったときのお袋の一言でついえてしまった。曰く、そんなあほなこと言ってんと、さっさと勉強しなさい、である。

 

2006年に出版された「昆虫ー驚異の微小脳」と言う本を読んでいるのだけれど、知らないことだらけである。多少は人より知識を持っているだろう、と自負していたが、そうなんや、の連続である。ついつい没入してしまうのである。完全変態類(幼虫・蛹・成虫の明確な区別がある)の出現の意味を自分なりに考えてきたが、その答えが簡潔に書かれていて、ぐうの音も出ない。その答えを要約すれば、成長と繁殖での自己資源の効率化である。

当たり前ではあるが、素人の思い付きでは膨大な学問の蓄積を参照している研究者には到底かなわない。足元にも及ばないのである。

 

で、私は考えることをやめるべきか。時間の浪費ではないのか。チョコレートでも齧りながら、コーヒーを飲んでいるほうがよいのではないか。

 

全くそうは思わないのである。

 

例えば、私が高校3年生の数学の知識を持っていて、その後30年かけて独力で一般相対性理論にたどり着いたとする。

そのことを社会はどう評価するだろうか。学問的には、つまり社会的にはそれは全く無意味であろう。社会的に既知になっている領域から一歩も出ていないからだ。

では私から見れば、どういう評価になるのか。もちろん偉業を成し遂げたのである。大したものである。議論の余地がない。

 

で、どちらの評価が大切なのか。もちろんそれも議論の余地がない。私の評価が大切に決まっているのである。社会とはこの場合数学者や物理学者が中心になるだろうが、彼らが評価してくれないのは残念だが、そのことで私が成し得たことへの私の評価は変わらないのである。

 

煎じ詰めれば、他人の評価をより大切にするか、自分の評価をより大切にするか、になると思う。

 

もちろん私は自分の楽しみを優先させる。私のしていることが社会にとって時代遅れであろうと、場違いであろうと関係ないのである。これからも周回遅れのなぞ解きに挑戦し続けるのだろう。



もう少し話を進めると、今までの話は他人と自分のどちらの評価を大切にするか、と言うことであったが、もう一つの評価軸として、今楽しいことを評価するか、明日楽しいことを評価するか、がある。もう少し具体的に言うと、今この瞬間を過ごすときに、今が楽しいことを大切にするか、それとも明日を楽しく過ごすことを大切にして今を我慢するか、だ。

後者を選択する人が多いかもしれないが、実は明日は永遠に来ないのである。明日に生きる人は、明日になると、明後日の為に明日を我慢するのである。明後日になるとまたその次の日の為に、、、と永遠に繰り返してしまうのだ。

 

それに気が付いて今日からこの瞬間を大切にして楽しもう、と思っても意外なことにそれができない。何故ならそもそもメンタリティ、心の傾きがそうなっているので容易には変えられないからだ。

それは自分の評価より他人の評価を大切にしてしまう人も同じである。容易には変えられない。気付いたからと言ってすぐに変えられるのなら、苦労はしないのである。

だからカウンセリングやコーチング、心理療法、もろもろの書籍がある。

 

結局は覚悟を決めて取り組むしかないのだと思う。

解決策を大別すれば、世界認識を変えるか、過去の経験を読み替えるか、になると思う。

当たり前であるが、他人より自分の評価を大切に、明日より今の評価を大切にしたほうが断然生き易くなる。

 

楽しい昆虫の話から、気の重い話になってしまった。これからも毎日の生活の中で、あれっ、と感じたことを自分なりに考えて、ワクワクしながら生きていきたいと思う。