5月のことだったと思う。近所の建物に付属した簡易屋根からひな鳥の鳴き声がしきりに聞こえてきた。一体何処にいるのだろうと、探してようやく見つけたのは、屋根の補強材として使われている、横に渡した鉄パイプの中からだった。こんなところに巣を作っているのか、としばらく様子を窺っていると、スズメが一匹近くの電柱に留まった。が、なかなか鉄パイプに行かない。こんなに警戒することがあるのだろうか、とさらに観察を続けると、数分後にようやく巣に戻った。そのすぐ後にまた飛び立っていったのだが、親鳥が出かけている間、雛はずっと鳴きっぱなしだった。これでは天敵に狙われるだろう。ここにはカラス以外に天敵はいないだろうが。
私は昆虫が好きである。夜明け前にいつも軽く散歩をするのだが、私の住むアパートの廊下の電灯にいろいろな昆虫が集まってくる。カメムシ、セミ、ガ、コガネムシ、クサカゲロウ、ナミホシテントウ。
光に向かって飛び続け、ただ疲弊していく昆虫や、新聞配達人に踏みつぶされた昆虫を見ると、昆虫を引き寄せない光源を使えないものか、と思う。毎日、膨大な数の昆虫が疲弊し、踏み潰されて死んでいっているだろう。
更に明け方には、スズメやセグロセキレイが飛んできて、エサを探す。今年は同じと思われるスズメが毎日やってきてアパートを順に訪問している。スズメも学習するのである。夜明け前に見たスズメガの羽だけが落ちているのを見ると、何とか守れないものかと思う。が、ずっと廊下に付いている訳にもいかない。結局毎日のようにガの残骸を見ることになる。
先日早朝、明るくなってから散歩に出ると、以前巣があった近くの電線に3羽のスズメがいた。見ているとそのうちの一羽が私のアパートに飛んでいった。そして私は了解した。私が見ていたガの残骸は、彼らの仕業であったことを。
そして私は元気そうな3羽のスズメをもう一度見返した。
ああ、元気に育ったのか、と思った。そして胸のつかえが下りたのである。
当たり前の話であるが、それぞれの生き物はただ一生懸命に生きている。私達人間はそこのどこに焦点を当てるかで、受け取り方が変わってくる。ライオンに焦点を当てれば、シマウマを狩れて良かったと思う。シマウマに焦点を当てると、ライオンは残酷な生き物に見える。サバンナの草から見れば、シマウマは繰り返し食べにくる、成長を妨げる愚鈍な生き物に見える。サバンナに生えているその草は他の草との競争に勝ち抜いてそこに生えている。そこに草が生えているということは、そこで成長できなかった多くの植物があった。
と言うようなことをあのスズメは思い出させてくれた。なまじ私の感情で野生動物に介入してはいけない。
追記
人も自然の一部である。であるなら人の行為も自然の一部である。と言うことは、人がする自然破壊も自然の一部である。
という視座からすれば、人がどれだけ繁栄して、どれだけ自然を破壊しても、そして人が気候変動で滅んでも、核戦争で滅んでも、自然はいっさい織り込み済みであろう。何事もなかったように、復元力を発揮するだろう。かつて人が占めていたニッチには別の生き物たちが入ってくるだろう。