imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

“空気を読む” 加工できない快・不快と加工できる損・得

空気を読む、とはもはや日本人の習い癖のように言われているが、そもそもを考えると、他者と関係を持つ、とは、全く自分の好きには振る舞えない、なぜなら相手が不快になって関係を維持できなくなる、故に譲歩できる範囲で自分の行動を変える、と言うことが基本になる。それはつまり空気を読むことである。他者と関係を持つ、とはすなわち共同体で生きる、社会で生きることを意味する。故に社会で生きていくためには、空気を読むことは不可避である。

 

譲歩することを可能にする条件は、自分の欲求を抑えて相手に譲るという不快と、相手と関係を持つことによる快、との総和が快に傾く、と予想できた時に可能になる。

 

故にすべての社会的動物は、比喩的に言えば、空気を読んでいる。なのでドライと思われているアメリカ人も、当然空気を読んで日々を暮らしているのである。

 

日本で日常的に使用する〝空気を読む〟とは、その行為が過剰であることが意識されていると思う。つまり快と不快の総和が不快に振れているほど、空気を読みすぎているのではないか、と言うことだ。

 

1 例えば官僚が空気を読んで首相の意図に沿うように行動するのは、今後の自分の出世を考えてのことなので、総和は快に振れている。ゆえに”空気を読んだ”のではなく、忖度という別の言葉が適用される。

 

2 例えば友達との日常会話で、皆と違った考えを表明するのを憚ったなら、その理由は以下のことが考えられる。

1) 仲間外れになる可能性を感じて、言えない。

もし仲間外れになりたくなく、しかもその可能性があるのなら、これは合理的判断だといえる。つまり総和が快に振れている。

 

2) なんとなく、言いづらいようなら、”空気を読ん”でいることになる。つまり総和は不快に振れていると考えられる。不快を選択したのだから、生き物として不合理な行動をとったことになる。

しかしよく考えてみると、人と違うことを言えば相手の気持ちを損ね、そのことが自分を不快にさせる、と予想しているのだろうから、総和はやはり快に傾いているのである。

結局、空気を読みすぎることになる原因は、僅かな相手の拒否反応に過剰に反応してしまうことなのだ。多少の批判を受け流すことが出来ない。つまり、自己肯定感が低いが故の反応なのである。

 

まとめると、共同体の中で生きるのであれば、空気を読むことは不可避である。そして空気を読み過ぎるのは自己肯定感が低いからである。まぁ、当たり前の結論になってしまった。

 

追加

 

1 自己肯定感の低い人の、理性を使った問題の乗り越えかた

 

例えば他人から批判めいたことを言われたとする。その時は以下のように考えればいいと思う。

 

自分と全く同じ考え方の人は世の中に存在しない。他人は必ず自分とは違う意見を持っている。故に、私のある考えに同意しない人は当然存在する。そして同意しないことを表明する人もいれば、しない人もいる。この人はたまたま表明しただけに過ぎない。

結局、世の中にはいろんな人がいる。ただそれだけのことだ。身もふたもない事実である。

 

2 快・不快と損・得

 

快・不快は感情なので変えようがない。ある時に感じた不快は、どこからどう眺めても心から湧き出てくるので変えようがない。

損・得はある出来事に対する評価なので、加工することが可能である。ここを利用すれば、損が得になり、その結果、不快を快にすることが出来る。そこまでいかなくとも、損が損でなくなり、結果、不快をなくすことが出来る。

 

例えば、壁の薄い安宿の隣の部屋で誰かが夜中ガサゴソと大きな音を立てている。

知らない奴が音を立てている、とすれば、なぜ俺はこの部屋に通されたのか、別の部屋もあったというのに、同じ金を払って、俺は損をしているではないか。つまり不快になる。

しかし隣室には家族がいて、明日の出発の準備をしてくれている、と分かれば、そんな家族に感謝し、恵まれた環境に感謝するだろう。つまり快になる。

 

このように損・得はある出来事に対する評価なので、どうにでも加工できるのである。ならばある出来事を損と評価して不快になるよりは、得と評価して快になるほうが合理的であろう。

 

40代半ば、高い木から落ちて足の靱帯を損傷したことがあった。その時、私はホッとしたのである。なぜなら、いつまでも若いつもりでいた私は、自分の行動を抑制できなかった。自転車や単車のスピードを抑えられなかったし、山道に関係なく山を直登したりしていた。いつか大きな事故を起こしてしまうだろうな、と感じていたが、やめれなかった。しかし靱帯を損傷したことで、以前のような動きがしたくても出来なくなったのである。

 

その一年後、自転車で転んだ時、損傷した側の足をかばって、反対側の足の膝の皿にひびを入れた。その時私は喜んだのである。なぜなら、一年前に靱帯を損傷して以来、体のバランスが崩れてしまい、困っていた。損傷した足をかばってしまうからである。それが、反対側も傷んだことにより、体バランスが元に戻ったのである。

 

つまり出来事自体は変えられないが、出来事に対する評価は自由に変えられるのだ。それによって快・不快もかなりの程度、操作できると思う。