imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

なぜ釈迦は衆生の救済という夢を持ったのか

インドのガヤで釈迦が悟りを開いた時、釈迦には全てのこと・ものが相対的に見えたと思う。絶対平安の心境だったろう。その釈迦が、弟子に請われて衆生を救おうと、文字通り立ち上がった。そのまま座ったままで、絶対平安を楽しむことが出来たのに、である。

 

釈迦はなぜ夢を持ったのだろう。夢を持つ、とは価値が生じることである。優先順位が生じることである。

すべてが相対的である、という境地にせっかく達したのに、夢を持てば、また煩悩を抱えることになる。業に悩まされることになる。

また、大きな夢を持つことは、リビドー(生きる力)を上げなければならないと思う。それは穏やかに生きることを不可能にすると思う。それともリビドーを上げたまま、平安な世界を楽しめるのだろうか。

 

以下が、私が考えたことである。

 

この矛盾する二つのことを同時に成立させるには、どうすれば良いか。

基本的には絶対平安の世界に住みながら、仮の世界と割り切ったうえで、夢実現の世界を生きる、という方法がある。

 

しかしもしそうだとすると、どういう気持ちで仮の世界を生きたのだろう。釈迦は、すべての生き物の苦しみを解放したい、という慈悲の心を持ったが、それは対象に対してで、自分がどのような気持でその世界を生きたか、ではない。もちろん苦しいということはなかっただろう。楽しかったのだろうか、それとも何も感じなかったのだろうか。

もっともありそうなのは、絶対平安の世界では、何も感じなかったが、仮の世界では、生き物と苦楽を共にした、だろう。

しかしこれだとどこまで行っても絶対平安の世界と仮の世界は交わらない。お互いに何の影響も与えていない。隔絶している。一人の人間の中でそんなことが可能だろうか。

ここに何か橋を掛けなければ、私には釈迦を理解することが出来ない。

 

今のところここまでが、私の限界である。

 

以下はこれを参考にして、私たちの生き方を少し考えてみたい。

 

私たちはまだ絶対平安の世界に到達していない。そのような私たちが、仮の世界で夢を持てば、つまり煩悩を持てば、ただ業に苦しめられるだけではないのか。その夢が、たとえ衆生の救済だったとしてもである。

だとすれば、世俗を捨てて、さっさと瞑想三昧に耽るのが良いことだと思うが、私はどこかで間違っているのだろうか。

 

今のところここまでが、私の限界である。