imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

生きづらさから生じるもの 2024年5月8日

まず始まりに集団生活があった。ヒトは集団にならなければ、捕食者から身を守れなかったからである。

 

たとえ小さくても集団生活は軋轢を生む。全く自由には振る舞えないのだから当たり前である。つまりそこに、生きづらく感じる必然性がある。

 

ではその生きづらさを思考できるようになったヒトはどうやって乗り越えるか、または解消するか。

1その原因を自分に帰着させれば、コンプレックス化する。

2外部に帰属させれば、外部を変えることによって生きづらさを解決しようとする。自身の変化は訪れない。

 

1 コンプレックスが生きづらさの原因だと思った場合、解消する方向は2つある。

1)修行型  コンプレックスを努力によって克服する。既存の自己アイデンティティを基礎にして不足している部分を強化する。または既存の一部を改良する。

強化したにもかかわらず、相変らず生きづらければ、修行が足りないと考え、更に修行を続ける。

 

2)自分探し型  古い自分を捨てて、新しい自分に成り替わることによって、生きづらさを回避する。根本的に無効にする。

新しい自分に生まれ変わったにもかかわらず、相変らず生きづらければ、外部に原因を求めるしかない。そうそう新しい自分には生まれ変われないからだ。

 

さて、原理的に生きづらさは解消することはない。なぜなら集団生活をしているからだ。故にどれだけ修行をしても、どんなに上手に新しい自分を探しても、生きづらさが解消することはない。

修行型は新たな生きづらさを吸収できるが、自分探し型はその中に吸収できず、外部に転嫁するしかない。外部に転嫁するとは、具体的に言えば、社会を変えることである。

 

ここが両者の大きな違いだと思う。

 

修行型は伝統的に日本の模範的な成長のイメージだった。日本では遅くまで地域共同体が残っていた。共同体は役割分業を伴う。役割分業はお互いのアイデンティティを固定する。故に新しいアイデンティティを許容しづらい。つまり新しいアイデンティティを必要とする自分探しの土壌を提供しない。結果、アイデンティティを強化する方向、つまり修行することによってしか自己成長を描けなかった。

自分探し型が成立可能な社会とは、共同体の縛りが弱い社会だろう。個人の自由度が高い社会である。

 

ここ20年程、性的マイノリティーからの社会への強い抗議がある。ポリティカル コレクトネスだ。

性的マイノリティーとは、私の認識が間違っていなければ、新しい自分を探し得た人達だと思う。すべての人と同じように、彼らは生きづらさを抱えていた。それを新しく生まれ変わることによって克服した。もしくは、したと思った。新しい自分に強く同一化を感じた。にもかかわらず、新しく獲得したアイデンティティに起因する生きづらさを日常生活で感じる。

そんな時、自分探し型は外部に原因を探すしかない。

 

性的マイノリティーが強く社会批判を展開するのは、この構造が原因の一つにあると思う。

 

既存の伝統的マイノリティー、例えば女性、黒人、日本だと在日、は自分探しの結果として獲得したアイデンティティではない。気が付いた時には既にあった。

伝統的マイノリティーも社会批判を当然に展開するが、母数の大きさを考えると、性的マイノリティーにその広がりは遥かに及ばないと思う。





追記

 

自分探し型の人物の中に修行型は共存可能だ。というか、日々の暮らしの中では修行型を使わなければ関係は改善方向に向かわない。

 

補記

 

「修行」と「自分探し」という対のイメージは内田樹氏の共著「新しい戦前」から得た。