imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

性格を変えるもの 感情と態度と性格の関係

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先日、岸見一郎著 'アドラー 性格の心理学’を読んだ。考えたことを書いてみたい。

始めに

まずアドラーは性格をいくつかに分類している。 攻撃的なものとして、虚栄心(野心を含む)・嫉妬(羨望を含む)・憎しみ・敵意。 課題逃避的なものとして、控えめ(自分は理解されない)・不安(相手役が必要)・臆病。そこに収まらないものとして、原理主義(細事にこだわる)・卑屈・気分屋(戦略的に気分を変える)などをあげている。そして性格を、もともとのライフスタイル(無自覚な人生目標)があって、人と接した時にそこから浮き上がってくるものと定義した。 またアドラーは性格を、利益を得るための表現型と捉えている。 つまりある性格を持つことが自分にとって利益があるからそれを選択している、と考える。例えば不安な性格の人は、相手に同情されることによって自分の目的を達成しようとしている、と考える。
選択されるべき理想の性格は、共同体感覚と考えた。

私の理解

性格を、感情との関係で言えば、いろいろ生起した感情の中から都合のよいものを選択して表出する。その選択の仕方に特徴があり、それが性格として表現されている。

以上のことを参考にして考えた。

私の前提

他者と接して与えられるものは侵害と承認しかない。
アドラーを参照すれば、自ら選んだ性格は、快を得るために世界操作(自己・他者を含む)をする手段である。
自己肯定感が低いほど侵害感は大きくなる。
同じ人間でも、目の前にいる相手の大きさ次第で侵害度が変わり、攻撃型か課題逃避型に変わる。相手を大きく感じれば課題逃避型へ、相手を小さく感じれば攻撃型に変わる。
アドラーは優先される感情や態度を自ら選んだ性格とし考察したが、私は感情や態度が現れる条件を考えた。

表の説明

表1
侵害されるものとして、相手と共有する大切な価値、一体感、自分のテリトリー、意識世界全体があり、相手が大きい場合に選択される感情態度と、相手が小さい場合に選択される感情態度の区別がある。 相手が大きい場合は課題逃避型になり、自分の価値を引き下げることによって侵害された世界を回復しようとする。 相手が小さい場合は攻撃型になり、相手の価値を操作することによって侵害された世界を回復しようとする。

以上は侵害された場合に選択される感情だが、承認された場合も相手の大きさによって生じる感情が違う。 承認された場合は、自分の価値が侵害されていないので、戦略的に感情を選択する必要がなく、自然な感情の生起に任せていると思う。それは以下のことと関係する。
侵害されることによって生起される感情は、嫉妬や憎しみ・敵意と複雑だが、承認される場合は、生起される感情は、優しさ・嬉しさと単純である。 逆に言えば承認される場合は、生起された感情を細かく名指し・分類する必要がなかった。承認されるものが、相手と共有する大切な価値であろうと、一体感であろうと、自分のテリトリーであろうと、生起する感情を細かく見分ける必要がなかった。

例えば嫉妬を性格として形作ってる人は、相手と共有する大切な価値の範囲を不必要に拡大する傾向があるとも考えられるし、敵意を性格として形作っている人は、自分のテリトリーを不必要に拡大する傾向があるとも考えられる。

一体感はテリトリーの部分集合なので、相手をテリトリー内に入れなければ一体感を得れない。 つまり侵害を恐れているとテリトリー内に相手を入れることができず、一体感は得れない。ヤマアラシのジレンマ。

表2
相手の大きさを左右するのはリビドーと自己肯定感で、リビドーが大きければ相手は小さくなる。 自己肯定感が低ければリビドーの強弱を誇張し、小さい相手はより小さく、大きい相手はより大きくしてしまう。 自己肯定感が高ければ侵害感が減少するので等身大の大きさで相手を見れる。相手の大きさを中和する。

以上の2要素で相手の大きさが決まると相手に接する態度が選択される。
大きな相手に対しては、承認獲得の方法は、同情されることによって獲得しようとし、相手との距離は遠くなり、社会への態度は、なるべく社会に踏み出さず、楽をして生きようとする。相手との距離が一時的に極限にまで遠くなれば、社会拒絶と言う態度で表現され、他者からの承認でさえ諦める。

表3
リビドーと自己肯定感の関係。自己肯定感が低くリビドーが大きければ攻撃型に、小さければ課題逃避型になる。
第2・第3象限は理想である。 必ずしもそうなるわけではないが、ある条件が整えば仙人型や穏やかで皆で楽しむ型、アドラーのいう共同体感覚型、が現れると思う。

表4 
私の年来の課題である利他との関係  この表で新しい意味は見つけられなかった。表3で書いた、ある条件が整えば、とは利他のことである。

まとめると
侵害される対象によって、生起される感情が異なる。表1
相手の大きさは生きる力であるリビドーと自己肯定感で決まり、相手の大きさが決まると、態度が選択される。表2
相手への態度が決まると、自ずと性格の型も決まる。表3
相手の大きさと利他度が決まるとやはり性格の型が決まる。表4 

結論

リビドーの大小と自己肯定感の高低が決まると、相手の大きさが決まり、相手への態度が選択される。
自己肯定感とは自分を大切にすることで、利他とは相手の中に見える自分を大切にすることだから、利他は自己肯定感の部分集合になる。
アドラーのいうように、自分の都合で性格は選択されている、と考えると、リビドーを操作するのは難しいので、変えれる部分は自己肯定感になる。
しかしいきなり自己肯定感を高めるのは難しいので、変わろうという決断がまずあって、その決断が相手の大きさを僅かに変え、それが自己肯定感に影響を与えるのだと思う。自己肯定感が変われば相手の大きさが変わり、、、とループしていくのだろう。


自己肯定感について 子供は万能感を持って生まれてくるようだが、成長する過程で思うようにならないことに出会い、万能感を喪失していく。しかし周りにいる人たちの承認つまり他者承認によって、それを自己承認に置き換え、自己肯定感を涵養していく。自己肯定感の低い人は他者承認をあまり得られなかったか、他者承認を自己承認に変換する方法がうまくなかった可能性がある。大人になるとは、他者承認を自己承認に変換して、それを積み上げて自己肯定感を高め、むやみに他者承認を求めなくて良くなることだと思う。