imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

障害戦略 自分の能力が一般より劣っていることを受け入れると生きるのが楽になる 2024年5月8日

精神医学の最近の傾向を見ていると、精神障害精神疾患)や発達障害の範囲をなるだけ広義に解釈しよう、という流れがあるように思う。

その根底には、生きづらく感じている、より多くの人を対象にしたい、という意図があると思う。

 

また疾患と障害の境があいまいになってきているようにも思う。同じ対象として扱おう、としているように感じる。その根底には、良い薬がが出てきて、どちらの症状にも薬が有効であることが分かってきたからではないか、と思う。元来、障害とは、症状が固定した状態に対して使われる言葉である。薬が効く障害、とは障害の概念から外れる。

 

私は、世の中の1/3は発達障害、1/3は知的障害、1/3は親子関係から来る低い自己肯定感を持った人たちではないか、という印象を持っている。当の私は発達障害の部類に入る。

 

相手が何らかの障害や精神疾患を持っていると思うと、相手の言動があまり気にならなくなる。ああ、これはこの人の能力の限界だから、変えようがないんだな、と思えるのである。この理解不能な言動は、あの障害のあの特徴から来るんだな、と納得できるのである。

 

同じように、自分に障害がある、と自覚すると、人との齟齬があまり気にならなくなる。目的の無い茶飲み話が私には苦手だが、これも発達障害、特にASDの特徴だと考えると、何だ、そうだったのか、と思う。俺にはそもそもこういうことが向いてないのだ、と納得して終わりである。

他人との間で長年感じてきた多くの疑問が、自分が発達障害である、と考えた途端、ほとんどすべてが一気に氷解した。なんだ、そうだったのか、である。ああ、アホくさ。

 

私はこれを生きづらさを解消するための戦略として使えばいいのではないかと思う。

 

そのためにはあるていど精神障害発達障害の概念を知り、特定の行動と結び付けられるようになることが必要である。

 

が、私たちは治療者ではないので、誤診断しても問題はない。繰り返し”診断”しているうちに、よりうまく診断できるようになるだろう。

大切なのは、相手との齟齬をどう理解し、解消するかである。

 

追記

 

今、重い障害で苦しんでいる人達を軽んじる気持ちも、茶化す気持ちもないつもりです。障害の軽重に関わらず、すべての人が生き易くなれば、と思っています。