10代の夏休み、近所の小学校のプールに夜よく泳ぎに行った。
若い頃は、”まぁ、これぐらいはいいやろう”という軽い気持ちで、法律に触れるようなことを気軽にやった。
60歳になった今、例えば家の近所のマンションで策を乗り越えて屋上に上ってやろう、とは思わない。それをしたからと言って、誰かの不利益になるとは思わないが、それがバレたら、近所の人からの信用を失うだろうな、と思うのである。
コトの善悪は自分の価値(倫理)で決めてやろう、とは思っているが、集団的価値(道徳)を無視できなくなっているのである。大した信用ではないが、今まで築いてきた信用が失われるではないか、と思うのである。今まで築いてきた関係が壊れてしまうのではないか、と思うのである。別の言い方をすると、常識に従って自分を律することが出来るようになったのである。もう少し範囲を狭めると、大切な人たちの信用を失わないために、自分を律することが出来るようになったのである。
若い頃はそんな気持ちが全くなかった。そんなもの、まさに関係なかったのである。
ではなぜ今それが気にかかるのか。なぜ関係を大切にしようと思うのだろうか。
人は関係の中で生きている、という実感が強くなったのだと思う。それは、関係の中で生かされている、ともいえる。関係の大切さを知った、と言うことだろう。若い頃は関係の大切さなど分からなかった。
逆に言えば、若い頃に分かっていれば、もっとリラックスして生きてこれたと思う。
社会の中で孤立して、ストレスをため込んで、事件を起こす人たちがいる。例えば秋葉原無差別殺傷事件の実行者、例えば広島の自動車工場での無差別殺傷事件の実行者。
もし彼らに仲の良い友達が一人でもいれば、彼女がいれば、あのような事件を起こすことはなかったと思う。
関係の中で生きていなかったのだ。
関係は社会からの侵害を守るためのバッファゾーンになる。かつ関係は利他的な動機づけを与える。
年を取ると、長い付き合いの人が増えてくる。より緊密な関係の中に埋め込まれていく。
それは私に関係の中で生きていることを実感させる。できればその関係を大切にしてこれからも生きていきたいと思う。
だから周りの人達の信用を失わないようにしたいと思う。
人として年を取るとはそういうことだと思う。