imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

歌手と歌詞 美に正しさは宿るのか 2022年8月

むかし山口百恵と言う国民的歌手がいた。彼女が、やはり国民的男優だった三浦友和と結婚する少し前に、「乙女座 宮」と言う曲を発表した。その歌詞の中に「今は獅子座のあなたに夢中よ」と言う部分があった。さてそれ以降、芸能情報番組などで、獅子座のお相手探しの”大騒ぎ”になった。

もちろん芸能リポーターを含め、情報を流す側は、本当のお相手を知ったうえでの”大騒ぎ”である。

調べてみると曲の発表が1978年2月のことである。恋人宣言が1979年10月で、結婚は1980年11月であった。

 

山口百恵とこの歌詞を肴に皆で大騒ぎをしたのである。私は高校通学時の車内の吊り広告でこの騒ぎを知った。いろんな人の名前が挙がっていて、へぇ、そうなんだ、と思って読んでいた。

 

その後恋人宣言があり、お相手が三浦友和だと分かったとき、話が違うじゃないか、という批判が出た。その時、ある芸能リポーターが、テレビでこういったのを覚えている。

「本当のことを知った上で、みんなお遊びで騒いでいたでしょ」と。

しかし少なくとも私は知らなかった。騙された気分であった。高校生であった私は、素直に週刊誌やテレビを信じたのである。そしてその時、二度と芸能リポーターのことは信じないでおこう、と決めた。

 

という少し長い話を紹介した。

 

これから分かることは、私たちは歌手と歌詞を結び付けがちである、と言うことだ。

古くて申し訳ないが、例えば河合奈保子の「けんかをやめて」という歌がある。私の為に2人の男が喧嘩をしているのだ。で、私の為に争わないでくれ、と言っているのである。ある人がこの曲を聞いて「かわいくないとこんな歌、唄えないな」と言うのを聞いた。

 

私たちは知らず知らずに、歌手に歌詞を帰属させている。歌詞を聞いてその内容を歌手が経験したことに重ね合わせている。かわいい歌手が恋心を歌うのを聞いて、彼女を主人公に見立てて心震わせているのである。幻想の醸造である。見たいものを見ているのである。かわいい歌手が恋の遍歴を歌った山口百恵のときに起こったのと同じ、幻想を醸造しているのである。

 

人はその傾向があると思う。美人が恋心や失恋を歌うと、それを想像して共感するのだ。イケメンが恋心を歌うと胸がキュンと来るのだ。

美男美女には美しい言葉が似合う、と言うことだと思う。

 

その類推から以下のことが言えると思う。

 

あるプラスの価値には別のプラスの価値も宿る。

 

例えば、(容姿が)美しい人は、優しい。美しい人は正しい。美しい人は控え目である。美しい人は道徳的である。美しい人は良い匂いがする。

他にも、頭のいい人は行いも正しい。五輪金メダリストは礼儀正しい。ノーベル賞受賞者は人格者である。

 

身近な人を見れば、もしくはニュースを見れば明らかだが、どれもでたらめである。美に真実が宿る、そんな訳が無いのである。それぞれの価値の発現が全体の10パーセントなら、二つの価値を併せ持つ人は1パーセントしかいない。三つの価値を併せ持つ人は0.1パーセントしかいないのだ。

 

しかし事実は幻想に負けてしまいがちなのである。人は、美しいものに美しいものが宿るのを見たいのである。

 

それにしても最近はその傾向が強いと思う。かっては不細工だが、歌のうまい歌手がいたものである。見栄えは良くはない男優が、かっこのいい役を演じることがあった。ただ昔から悪役はブ男が演じるものと相場が決まっていたが。

 

この傾向は、多分、快適さを求めることと関係があると思う。醜に美が宿るときに感じる違和感、心の引っ掛かりを軽減させたいのだ。醜に美が宿るより、美に美が宿ったほうが心地よいのである。心が感じる摩擦が少ないのである。

 

快適さの追求は今に限ったことではない。生き物の永遠の悲願である。なぜ今この傾向が強く現れているのか。

 

1 科学の進歩により、生活のいろんな場面で快適指数が向上して、それに伴って、美と醜が同居することの違和感、不快指数が相対的に上昇した。

 

2 共同体が解体して、個がむき出しになり、不安感から抑うつ的になり、不快さの許容度が低下した。

 

以上のことが相まって起こっている現象だと思う。そして以上のことが原因であるなら、それ故に今後それが進むことこそあれ、反転することは無いだろう。

 

結論はこうである。

1 まず、ブ男や醜女にはたまったものではない。ふざけるな、と言う、非常に単純な話である。現実をよく見ろ、と。

 

2 美しい人の言うことが正しい、とすれば、簡単に印象操作をされることになるだろう。容姿がよくて卑しい人などいくらでもいるからだ。

 

現象を認識するのに、前頭葉を使わないと、どうしようもないな、と思う。もちろん前頭葉を使うことは現状認識を変えることにつながるので、そもそも快適ではない。つまり快適さを強く求める人には、行為矛盾になる。

だとすれば、なぜそこまで快適さを求めるのか、の自省から始めなければならないだろう。それも行為矛盾になるが。

つまり、何か大きなきっかけが必要なのだと思う。