imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

ホームレスと心失者

DaiGo氏がホームレスは死んだ方がいいと言ったらしい
植松聖死刑囚は"心失者"は生きている価値が無いと言った。
私の考えをまとめてみた。

社会の特性
社会は全体でバランスが取れているので、ある一部が気に入らないからといって、それを除去することができない。 もしそれを除去するのであれば、なぜそれが存在しているのかと言う理由を見つけだし、全体を変えることによってその部分を除去する必要がある。

例えば、以下は古典的なセオリーだが、公共事業は、景気の調節弁として政策に使われる。 景気が悪い時は、政府は景気を良くするために公共事業の支出を増大する。 景気が良くなれば、公共事業の支出を減少させる。 それに合わせて雇用も増大と減少を繰り返す。 当然そこで働く人たちも就労と失業を繰り返す。 政府の政策は彼らの存在を前提として行われている。逆に言えば、彼らの存在がなければこの政策はうまく働かない。

生産性のない人について
共同体とは皆で支えるものである。 共同体に貢献する人は共同体にとって良い人である。 共同体にゆとりがある時は、顔なじみでもある、共同体に貢献しない人を養うことができる。 しかし共同体に余裕がなくなり人々が生き残るのがやっとの時、自分が生き残るのに役に立たない人のことを考慮しない。 誰と組めば生き残れるかという生存戦略で行動する。
考える必要があることは,今がその時なのか、ということだ。 どこにも餓死者は出ていない。 生きるか死ぬかの非常事態はどこにも無い。
ではどういう時が非常事態なのか。 個人から見れば、そういうことさえ思いつかない時が非常事態なのだと思う。 本当に非常事態になれば体が先に動いているだろう。

ではなぜ生産性だけで人の価値を判断しようとする風潮が出てくるのか。
共同体が解体し、人々は孤立し、鬱屈し、追い詰められ、精神的に非常事態モードになっているからだと思う。

補足

仲間と他人
仲間であればその言動の理由が推測できる。 ホームレスは死んだ方がいいと言ったとしても、その生い立ちや経験、日頃の言動を知っていれば、どうしてそんなことを言ってしまったのか、その理由を推測できるし、その真意を直接尋ねることもできる。 そしてその発言故にその人を全否定することもありえない。
見知らぬ他人の発言は、その生い立ちや経験を知らないが故に、その発言からその人の全人格を判断してしまう。 故にある発言をもって全否定が起こってしまう。
人類の歴史の中では、見知らぬ人との出会いはごく限られた場面でのみ起こり、人生のほぼすべてを顔見知りの人達だけで暮らしてきた 。
見知らぬ人との接し方を、私たちはまだ獲得していないのだと思う。 故にリテラシー・学習が必要なのだと思う。

他者を判断すること
もし私がその人だったらどうするか、どう感じるか。
これが人と接する時のルールだと思う。 もしある人が私と違う言動を取った時は、なぜなのかを考える。 人は意識の上では合理的に判断しているので、ある言動には必ず合理的な判断がある。 それは私たちにも理解可能なはずだ。
ならばある人が、ホームレスは死んだ方がいい、と言った時、なぜその人はそういう判断をしたのかを理解しようとする態度が大切だと思う。
ホームレスを見たときも同じで、もし環境が同じなら、私もホームレスになる可能性があった、と想像することが大切だと思う。

知人を判断すること
知人と接する時、相手の生産性が高いか低いかは、直接自分に利害をもたらさない。故にあまり気にしない。
どれだけ侵害しないか、どれだけ承認を与えてくれるか、が大切になる。 つまり知人を判断する時に大切なのは生産性ではなく人柄だ。

生産性が高いことと役に立つこと
生産性が高いとは大きな付加価値を生み出すということで、通常は金銭に換算され、たくさん稼ぐ、という意味になる。たくさん稼ぐということは、多くの人が欲しくなるものを作ったということで、社会に貢献している。
役に立つとは、例えば親にとって子供は生産性は高くはないが、喜びを与えてくれ、人生を豊かにする、という意味で社会に貢献している。

社会または共同体の維持
社会は皆で支えていく必要がある。 生産性至上主義の人の発言を聞いていると、社会は所与の前提で、そこからどれだけの利益を引き出せるかを重視している。 もちろん社会から利益を引き出すことは大切だが、社会が弱体化してはどうしようもない。 社会を維持する努力が失われれば脆弱なものになり、維持費用がかさみ、利益を引き出しにくくなる。
利他行為がなければ、家族でさえ成り立たない。

ホームレスは状態である

当たり前だけれど、ホームレスは生得的なものではなく、一時的な状態である。 生まれてこの方、ずっとホームレスだという社会的階層は存在しない。


ところで生得的なものに対する公的な場での差別・存在否定は、例えば SNS ではアカウント停止が十分に考えられるほど厳重に対応されるが、 それは、本人の意思によって変えることができないからだ。性別、民族、障害の有無など。


では一時的状態に対しての差別・存在否定は許されるのか、もしくは、より基準が緩くなっても良いのか。


全く順序が逆だと思う。 一時的な状態を理由にして、その存在を否定することはそもそも変なのだ。

例えば五十歳までずっと働いてきた人が、コロナで仕事を無くし、ホームレスになって初めて公園で寝たとき、ホームレスであるというだけでその人の存在を否定するのは明らかにおかしいだろう。


生得的な属性を理由にした存在否定をひっくり返すには、同じ人間じゃないか、あたりを持ち出すしかないが、一時的状態を理由にした存在否定をひっくり返すには、その状態以前は私たちと“同じ"だった、さらにはなぜその状態に陥ったかを考えることによって、修正を促すことができる。ある意味、非常に簡単なことだと思う。簡単つまり明白で、一時的状態の存在否定の誤りの証明は生得的より明らかだと思う。


一時的状態の存在否定は、お話にもならないと思う。

ホームレスは状態である

当たり前だけれど、ホームレスは生得的なものではなく、一時的な状態である。 生まれてこの方、ずっとホームレスだという社会的階層は存在しない。

ところで生得的なものに対する公的な場での差別・存在否定は、例えば SNS ではアカウント停止が十分に考えられるほど厳重に対応されるが、 それは、本人の意思によって変えることができないからだ。性別、民族、障害の有無など。

では一時的状態に対しての差別・存在否定は許されるのか、もしくは、より基準が緩くなっても良いのか。

全く順序が逆だと思う。 一時的な状態を理由にして、その存在を否定することはそもそも変なのだ。
例えば五十歳までずっと働いてきた人が、コロナで仕事を無くし、ホームレスになって初めて公園で寝たとき、ホームレスであるというだけでその人の存在を否定するのは明らかにおかしいだろう。

生得的な属性を理由にした存在否定をひっくり返すには、同じ人間じゃないか、あたりを持ち出すしかないが、一時的状態を理由にした存在否定をひっくり返すには、その状態以前は私たちと“同じ"だった、さらにはなぜその状態に陥ったかを考えることによって、修正を促すことができる。ある意味、非常に簡単なことだと思う。簡単つまり明白で、一時的状態の存在否定の誤りの証明は生得的より明らかだと思う。

一時的状態の存在否定は、お話にもならないと思う。

一部のホームレスは好きでホームレスをやっているのか

ホームレスについて語られる時、一部のホームレスは好きでホームレスをやっている、という人がいるが、どうしてそう思ったのだろう。


定性性の問題

多分あるホームレスと話をした時に、本人がそう言ったからだと思う。 本人がそう言っているのだから、これほど確かなことはないだろう、と 。

しかし例えばセックスワーカーが、これは私の天職です、と言った時に,それを言葉通り素直に信じる人がどれほどいるだろうか。 多くの人はそれを言わせた背後の状況を想像するだろう。 

同じようにホームレスが、好きでやっている、と言った時も、それを素直に信じるのではなく,それを言わせた背後の状況を想像する必要があると思う。 機会があるのなら、直接本人に尋ねるのも良いと思う。


つまり、自分にとって都合のいい答えが来た時は、それを素直に信じ、自分にとって都合の悪い答えが来た時は、その背後を探ろうとする。 


定量性の問題

100人いたホームレスのうち、たまたま一人が、好きでホームレスをやっている、と言った時、その割合は1%だが、「一部のホームレスが」と言うと、私なら2割前後を想像してしまう。 世の中にはいろんな人がいるので、そのごく一部の存在をもってその集団の一部の性質であるかのように言うのは正しくない。 

もしくは聞く側のリテラシーとして、定量性の問題を常に意識しておく必要がある。


一部のホームレスは好きでホームレスをやっているのか

ホームレスについて語られる時、一部のホームレスは好きでホームレスをやっている、という人がいるが、どうしてそう思ったのだろう。

定性性の問題
多分あるホームレスと話をした時に、本人がそう言ったからだと思う。 本人がそう言っているのだから、これほど確かなことはないだろう、と 。
しかし例えばセックスワーカーが、これは私の天職です、と言った時に,それを言葉通り素直に信じる人がどれほどいるだろうか。 多くの人はそれを言わせた背後の状況を想像するだろう。
同じようにホームレスが、好きでやっている、と言った時も、それを素直に信じるのではなく,それを言わせた背後の状況を想像する必要があると思う。 機会があるのなら、直接本人に尋ねるのも良いと思う。

つまり、自分にとって都合のいい答えが来た時は、それを素直に信じ、自分にとって都合の悪い答えが来た時は、その背後を探ろうとする。

定量性の問題
100人いたホームレスのうち、たまたま一人が、好きでホームレスをやっている、と言った時、その割合は1%だが、「一部のホームレスが」と言うと、私なら2割前後を想像してしまう。 世の中にはいろんな人がいるので、そのごく一部の存在をもってその集団の一部の性質であるかのように言うのは正しくない。
もしくは聞く側のリテラシーとして、定量性の問題を常に意識しておく必要がある。

性格を変えるもの 感情と態度と性格の関係

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先日、岸見一郎著 'アドラー 性格の心理学’を読んだ。考えたことを書いてみたい。

始めに

まずアドラーは性格をいくつかに分類している。 攻撃的なものとして、虚栄心(野心を含む)・嫉妬(羨望を含む)・憎しみ・敵意。 課題逃避的なものとして、控えめ(自分は理解されない)・不安(相手役が必要)・臆病。そこに収まらないものとして、原理主義(細事にこだわる)・卑屈・気分屋(戦略的に気分を変える)などをあげている。そして性格を、もともとのライフスタイル(無自覚な人生目標)があって、人と接した時にそこから浮き上がってくるものと定義した。 またアドラーは性格を、利益を得るための表現型と捉えている。 つまりある性格を持つことが自分にとって利益があるからそれを選択している、と考える。例えば不安な性格の人は、相手に同情されることによって自分の目的を達成しようとしている、と考える。
選択されるべき理想の性格は、共同体感覚と考えた。

私の理解

性格を、感情との関係で言えば、いろいろ生起した感情の中から都合のよいものを選択して表出する。その選択の仕方に特徴があり、それが性格として表現されている。

以上のことを参考にして考えた。

私の前提

他者と接して与えられるものは侵害と承認しかない。
アドラーを参照すれば、自ら選んだ性格は、快を得るために世界操作(自己・他者を含む)をする手段である。
自己肯定感が低いほど侵害感は大きくなる。
同じ人間でも、目の前にいる相手の大きさ次第で侵害度が変わり、攻撃型か課題逃避型に変わる。相手を大きく感じれば課題逃避型へ、相手を小さく感じれば攻撃型に変わる。
アドラーは優先される感情や態度を自ら選んだ性格とし考察したが、私は感情や態度が現れる条件を考えた。

表の説明

表1
侵害されるものとして、相手と共有する大切な価値、一体感、自分のテリトリー、意識世界全体があり、相手が大きい場合に選択される感情態度と、相手が小さい場合に選択される感情態度の区別がある。 相手が大きい場合は課題逃避型になり、自分の価値を引き下げることによって侵害された世界を回復しようとする。 相手が小さい場合は攻撃型になり、相手の価値を操作することによって侵害された世界を回復しようとする。

以上は侵害された場合に選択される感情だが、承認された場合も相手の大きさによって生じる感情が違う。 承認された場合は、自分の価値が侵害されていないので、戦略的に感情を選択する必要がなく、自然な感情の生起に任せていると思う。それは以下のことと関係する。
侵害されることによって生起される感情は、嫉妬や憎しみ・敵意と複雑だが、承認される場合は、生起される感情は、優しさ・嬉しさと単純である。 逆に言えば承認される場合は、生起された感情を細かく名指し・分類する必要がなかった。承認されるものが、相手と共有する大切な価値であろうと、一体感であろうと、自分のテリトリーであろうと、生起する感情を細かく見分ける必要がなかった。

例えば嫉妬を性格として形作ってる人は、相手と共有する大切な価値の範囲を不必要に拡大する傾向があるとも考えられるし、敵意を性格として形作っている人は、自分のテリトリーを不必要に拡大する傾向があるとも考えられる。

一体感はテリトリーの部分集合なので、相手をテリトリー内に入れなければ一体感を得れない。 つまり侵害を恐れているとテリトリー内に相手を入れることができず、一体感は得れない。ヤマアラシのジレンマ。

表2
相手の大きさを左右するのはリビドーと自己肯定感で、リビドーが大きければ相手は小さくなる。 自己肯定感が低ければリビドーの強弱を誇張し、小さい相手はより小さく、大きい相手はより大きくしてしまう。 自己肯定感が高ければ侵害感が減少するので等身大の大きさで相手を見れる。相手の大きさを中和する。

以上の2要素で相手の大きさが決まると相手に接する態度が選択される。
大きな相手に対しては、承認獲得の方法は、同情されることによって獲得しようとし、相手との距離は遠くなり、社会への態度は、なるべく社会に踏み出さず、楽をして生きようとする。相手との距離が一時的に極限にまで遠くなれば、社会拒絶と言う態度で表現され、他者からの承認でさえ諦める。

表3
リビドーと自己肯定感の関係。自己肯定感が低くリビドーが大きければ攻撃型に、小さければ課題逃避型になる。
第2・第3象限は理想である。 必ずしもそうなるわけではないが、ある条件が整えば仙人型や穏やかで皆で楽しむ型、アドラーのいう共同体感覚型、が現れると思う。

表4 
私の年来の課題である利他との関係  この表で新しい意味は見つけられなかった。表3で書いた、ある条件が整えば、とは利他のことである。

まとめると
侵害される対象によって、生起される感情が異なる。表1
相手の大きさは生きる力であるリビドーと自己肯定感で決まり、相手の大きさが決まると、態度が選択される。表2
相手への態度が決まると、自ずと性格の型も決まる。表3
相手の大きさと利他度が決まるとやはり性格の型が決まる。表4 

結論

リビドーの大小と自己肯定感の高低が決まると、相手の大きさが決まり、相手への態度が選択される。
自己肯定感とは自分を大切にすることで、利他とは相手の中に見える自分を大切にすることだから、利他は自己肯定感の部分集合になる。
アドラーのいうように、自分の都合で性格は選択されている、と考えると、リビドーを操作するのは難しいので、変えれる部分は自己肯定感になる。
しかしいきなり自己肯定感を高めるのは難しいので、変わろうという決断がまずあって、その決断が相手の大きさを僅かに変え、それが自己肯定感に影響を与えるのだと思う。自己肯定感が変われば相手の大きさが変わり、、、とループしていくのだろう。


自己肯定感について 子供は万能感を持って生まれてくるようだが、成長する過程で思うようにならないことに出会い、万能感を喪失していく。しかし周りにいる人たちの承認つまり他者承認によって、それを自己承認に置き換え、自己肯定感を涵養していく。自己肯定感の低い人は他者承認をあまり得られなかったか、他者承認を自己承認に変換する方法がうまくなかった可能性がある。大人になるとは、他者承認を自己承認に変換して、それを積み上げて自己肯定感を高め、むやみに他者承認を求めなくて良くなることだと思う。

性格を変えるもの 感情と態度と性格の関係

1  侵害・承認されるものの種類と表出される感情の関係


相手が大きい場合

相手が小さい場合

1侵害される場合

課題逃避型

攻撃型

ある感情を選択する目的

自分の価値を引き下げることによって侵害された世界を回復

相手の価値を操作することによって侵害された世界を回復

毀損・侵害されるものの種類



相手と共有する大切な価値

価値のない自分の確認


嫉妬

相手との一体感

控えめ(自分は理解されない)

憎しみ

テリトリー ・自分の領域

尻込み   臆病

敵意

認識世界・意識世界

不安

虚栄心

2承認される場合

受動的包摂

能動的包摂

大切な価値~認識世界

嬉しさ・喜び

優しさ



2   1 相手の大きさを決定する要因と、2 決定後の相手への態度

1 要因



  リビドー(強度)

低い→相手は大きく

高い→相手は小さく

  自己肯定感(侵害耐性)

低い→リビドーを誇張

高い→中庸へ

2 態度



 1)個人に対して

大きな相手に対して

小さな相手に対して

  他者承認獲得方法

同情されることによって獲得

積極的に相手を操作することによって獲得

  相手との距離

遠い

近い

 2)社会に対して



  人生エンジョイ方法・

  無自覚の人生目標

なるだけ社会に踏み出さず楽をして生きる

新しいものを求めて楽しく生きる


3  性格の象限図 (相手の見え方)


                                                  高←自己肯定感→低   (小 ←侵害度→大)



リビド

↓低


共同体感覚型

穏やかで皆と楽しむ型

(一緒に楽しむ)



攻撃型 

(攻撃される前に攻撃する)


仙人型

穏やかで楽しい型

(居ても居なくてもよい)



課題逃避型

(攻撃される前に逃げる)


4 利他との関係


                利他 ⇔ 利己


大↑相手↓小


共同体感覚型





攻撃型


仙人型





課題逃避型


先日、岸見一郎著 'アドラー 性格の心理学’を読んだ。考えたことを書いてみたい。  


始めに


まずアドラーは性格をいくつかに分類している。  攻撃的なものとして、虚栄心(野心を含む)・嫉妬(羨望を含む)・憎しみ・敵意。 課題逃避的なものとして、控えめ(自分は理解されない)・不安(相手役が必要)・臆病。そこに収まらないものとして、原理主義(細事にこだわる)・卑屈・気分屋(戦略的に気分を変える)などをあげている。そして性格を、もともとのライフスタイル(無自覚な人生目標)があって、人と接した時にそこから浮き上がってくるものと定義した。 またアドラーは性格を、利益を得るための表現型と捉えている。 つまりある性格を持つことが自分にとって利益があるからそれを選択している、と考える。例えば不安な性格の人は、相手に同情されることによって自分の目的を達成しようとしている、と考える。

 選択されるべき理想の性格は、共同体感覚と考えた。


私の理解


性格を、感情との関係で言えば、いろいろ生起した感情の中から都合のよいものを選択して表出する。その選択の仕方に特徴があり、それが性格として表現されている。


以上のことを参考にして考えた。


私の前提


他者と接して与えられるものは侵害と承認しかない。 

アドラーを参照すれば、自ら選んだ性格は、快を得るために世界操作(自己・他者を含む)をする手段である。

自己肯定感が低いほど侵害感は大きくなる。

同じ人間でも、目の前にいる相手の大きさ次第で侵害度が変わり、攻撃型か課題逃避型に変わる。相手を大きく感じれば課題逃避型へ、相手を小さく感じれば攻撃型に変わる。

アドラーは優先される感情や態度を自ら選んだ性格とし考察したが、私は感情や態度が現れる条件を考えた。


表の説明


表1

侵害されるものとして、相手と共有する大切な価値、一体感、自分のテリトリー、意識世界全体があり、相手が大きい場合に選択される感情態度と、相手が小さい場合に選択される感情態度の区別がある。 相手が大きい場合は課題逃避型になり、自分の価値を引き下げることによって侵害された世界を回復しようとする。 相手が小さい場合は攻撃型になり、相手の価値を操作することによって侵害された世界を回復しようとする。


以上は侵害された場合に選択される感情だが、承認された場合も相手の大きさによって生じる感情が違う。 承認された場合は、自分の価値が侵害されていないので、戦略的に感情を選択する必要がなく、自然な感情の生起に任せていると思う。それは以下のことと関係する。

侵害されることによって生起される感情は、嫉妬や憎しみ・敵意と複雑だが、承認される場合は、生起される感情は、優しさ・嬉しさと単純である。 逆に言えば承認される場合は、生起された感情を細かく名指し・分類する必要がなかった。承認されるものが、相手と共有する大切な価値であろうと、一体感であろうと、自分のテリトリーであろうと、生起する感情を細かく見分ける必要がなかった。 


例えば嫉妬を性格として形作ってる人は、相手と共有する大切な価値の範囲を不必要に拡大する傾向があるとも考えられるし、敵意を性格として形作っている人は、自分のテリトリーを不必要に拡大する傾向があるとも考えられる。 


一体感はテリトリーの部分集合なので、相手をテリトリー内に入れなければ一体感を得れない。 つまり侵害を恐れているとテリトリー内に相手を入れることができず、一体感は得れない。ヤマアラシのジレンマ。


表2

相手の大きさを左右するのはリビドーと自己肯定感で、リビドーが大きければ相手は小さくなる。 自己肯定感が低ければリビドーの強弱を誇張し、小さい相手はより小さく、大きい相手はより大きくしてしまう。 自己肯定感が高ければ侵害感が減少するので等身大の大きさで相手を見れる。相手の大きさを中和する。


以上の2要素で相手の大きさが決まると相手に接する態度が選択される。

大きな相手に対しては、承認獲得の方法は、同情されることによって獲得しようとし、相手との距離は遠くなり、社会への態度は、なるべく社会に踏み出さず、楽をして生きようとする。相手との距離が一時的に極限にまで遠くなれば、社会拒絶と言う態度で表現され、他者からの承認でさえ諦める。


表3

リビドーと自己肯定感の関係。自己肯定感が低くリビドーが大きければ攻撃型に、小さければ課題逃避型になる。 

第2・第3象限は理想である。 必ずしもそうなるわけではないが、ある条件が整えば仙人型や穏やかで皆で楽しむ型、アドラーのいう共同体感覚型、が現れると思う。


表4 

私の年来の課題である利他との関係  この表で新しい意味は見つけられなかった。表3で書いた、ある条件が整えば、とは利他のことである。


まとめると

侵害される対象によって、生起される感情が異なる。表1

相手の大きさは生きる力であるリビドーと自己肯定感で決まり、相手の大きさが決まると、態度が選択される。表2

相手への態度が決まると、自ずと性格の型も決まる。表3

相手の大きさと利他度が決まるとやはり性格の型が決まる。表4 


結論


リビドーの大小と自己肯定感の高低が決まると、相手の大きさが決まり、相手への態度が選択される。

自己肯定感とは自分を大切にすることで、利他とは相手の中に見える自分を大切にすることだから、利他は自己肯定感の部分集合になる。

アドラーのいうように、自分の都合で性格は選択されている、と考えると、リビドーを操作するのは難しいので、変えれる部分は自己肯定感になる。

しかしいきなり自己肯定感を高めるのは難しいので、変わろうという決断がまずあって、その決断が相手の大きさを僅かに変え、それが自己肯定感に影響を与えるのだと思う。自己肯定感が変われば相手の大きさが変わり、、、とループしていくのだろう。



自己肯定感について 子供は万能感を持って生まれてくるようだが、成長する過程で思うようにならないことに出会い、万能感を喪失していく。しかし周りにいる人たちの承認つまり他者承認によって、それを自己承認に置き換え、自己肯定感を涵養していく。自己肯定感の低い人は他者承認をあまり得られなかったか、他者承認を自己承認に変換する方法がうまくなかった可能性がある。大人になるとは、他者承認を自己承認に変換して、それを積み上げて自己肯定感を高め、むやみに他者承認を求めなくて良くなることだと思う。


物語としての映画 映画から学ぶ人生への態度

先月1ヶ月 Netflix を契約して、映画を何本か見た。
監督の意図は別にして、私から見た映画の主題について感じたことを書いてみたい。

物語から見た映画の型
1 異質なものとの出会い
主人公が異質なものと出会い、
1) 摩擦が起こり、その摩擦を解消するためにある決断をする。
1)) 止揚型 包摂する、または包摂される。つまり主人公の変容が生じる。主人公の決断は利他で、感動を呼び、多くの場合、映画のクライマックスになる。
例 "グラン・トリノ" 異質な外来者モン人を受容し、彼らのために命をかける。
2)) 対決型 異質なものと対決し、勝つまたは負ける。 主人公の変容は起こらない。
例 "ロッキー" 主人公がモンスターのような選手に挑戦して勝つ。
"パラサイト" 主人公家族が異質な世界(上流社会)に出合い、摩擦が最大になったとき、対決し、破れ、家族は解体する。
どちらも主人公の変容は起こっていない。

2) 摩擦は起こらず、主人公は異質世界に馴染む。つまり主人公に変容が生じる。物語の主題は変容には無くて、その後の主人公にある. 多くの場合、変容した主人公は元の世界に戻るが、圧倒的マイノリティなので、外部に働きかけることはできず、覚醒した少数者として成り済まして生きる。
例 "マトリックス" 覚醒したネオは元の世界に戻り、なりすましながら仲間を探す。

2 世界そのものを問う
主人公が世界に翻弄されて生きる姿を描く。
例 "この世界の片隅に" すずの成長、結婚、戦争体験を通して、世界とはどう言うものかを描く。


映画は重層的に描かれる、または解釈できるので,複数の型を見つけることができる。

映画から学ぶ人生への態度

以上見てきた映画の型の中で、人生への態度として大切と思えるのは、変容を伴う型だと思う。
異質なものと出会っても変容しなければ、以前の自分と同じだ。 いろんなことを経験しても変容しなければ、変化のない世界に住み続けていることになる。 わくわくドキドキのない単調な世界だ。 せっかくの経験が学びに繋がらない。

成長するとは、異質なものと出会い、摩擦が生じ、包摂する・コラボする・変身する、つまり変容することだと思う。

物語としての映画 映画から学ぶ人生への態度

先月1ヶ月 Netflix を契約して、映画を何本か見た。 

監督の意図は別にして、私から見た映画の主題について感じたことを書いてみたい。


物語から見た映画の型

1 異質なものとの出会い

主人公が異質なものと出会い、

 1)  摩擦が起こり、その摩擦を解消するためにある決断をする。

  1)) 止揚型   包摂する、または包摂される。つまり主人公の変容が生じる。主人公の決断は利他で、感動を呼び、多くの場合、映画のクライマックスになる。

例  "グラン・トリノ"  異質な外来者モン人を受容し、彼らのために命をかける。

  2))  対決型 異質なものと対決し、勝つまたは負ける。 主人公の変容は起こらない。

例  "ロッキー"  主人公がモンスターのような選手に挑戦して勝つ。

"パラサイト"  主人公家族が異質な世界(上流社会)に出合い、摩擦が最大になったとき、対決し、破れ、家族は解体する。

どちらも主人公の変容は起こっていない。


 2)  摩擦は起こらず、主人公は異質世界に馴染む。つまり主人公に変容が生じる。物語の主題は変容には無くて、その後の主人公にある. 多くの場合、変容した主人公は元の世界に戻るが、圧倒的マイノリティなので、外部に働きかけることはできず、覚醒した少数者として成り済まして生きる。 

例 "マトリックス"  覚醒したネオは元の世界に戻り、なりすましながら仲間を探す。


2 世界そのものを問う

主人公が世界に翻弄されて生きる姿を描く。

例 "この世界の片隅に"  すずの成長、結婚、戦争体験を通して、世界とはどう言うものかを描く。



映画は重層的に描かれる、または解釈できるので,複数の型を見つけることができる。


映画から学ぶ人生への態度


以上見てきた映画の型の中で、人生への態度として大切と思えるのは、変容を伴う型だと思う。

異質なものと出会っても変容しなければ、以前の自分と同じだ。 いろんなことを経験しても変容しなければ、変化のない世界に住み続けていることになる。 わくわくドキドキのない単調な世界だ。 せっかくの経験が学びに繋がらない。


成長するとは、異質なものと出会い、摩擦が生じ、包摂する・コラボする・変身する、つまり変容することだと思う。

物語としての映画 映画から学ぶ人生への態度

先月1ヶ月 Netflix を契約して、映画を何本か見た。
監督の意図は別にして、私から見た映画の主題について感じたことを書いてみたい。

物語から見た映画の型
1 異質なものとの出会い
主人公が異質なものと出会い、
1) 摩擦が起こり、その摩擦を解消するためにある決断をする。
1)) 止揚型 包摂する、または包摂される。つまり主人公の変容が生じる。主人公の決断は利他で、感動を呼び、多くの場合、映画のクライマックスになる。
例 "グラン・トリノ" 異質な外来者モン人を受容し、彼らのために命をかける。
2)) 対決型 異質なものと対決し、勝つまたは負ける。 主人公の変容は起こらない。
例 "ロッキー" 主人公がモンスターのような選手に挑戦して勝つ。
"パラサイト" 主人公家族が異質な世界(上流社会)に出合い、摩擦が最大になったとき、対決し、破れ、家族は解体する。
どちらも主人公の変容は起こっていない。

2) 摩擦は起こらず、主人公は異質世界に馴染む。つまり主人公に変容が生じる。物語の主題は変容には無くて、その後の主人公にある. 多くの場合、変容した主人公は元の世界に戻るが、圧倒的マイノリティなので、外部に働きかけることはできず、覚醒した少数者として成り済まして生きる。
例 "マトリックス" 覚醒したネオは元の世界に戻り、なりすましながら仲間を探す。

2 世界そのものを問う
主人公が世界に翻弄されて生きる姿を描く。
例 "この世界の片隅に" すずの成長、結婚、戦争体験を通して、世界とはどう言うものかを描く。


映画は重層的に描かれる、または解釈できるので,複数の型を見つけることができる。

映画から学ぶ人生への態度

以上見てきた映画の型の中で、人生への態度として大切と思えるのは、変容を伴う型だと思う。
異質なものと出会っても変容しなければ、以前の自分と同じだ。 いろんなことを経験しても変容しなければ、変化のない世界に住み続けていることになる。 わくわくドキドキのない単調な世界だ。 せっかくの経験が学びに繋がらない。

成長するとは、異質なものと出会い、摩擦が生じ、包摂する・コラボする・変身する、つまり変容することだと思う。