imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

物語と共同体の関係 共同体と感情から見た物語

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いくつかの前提


聞き手と主人公の関係  近ければ(ex.体験談)臨場感が強いので、内容自体はあまり問われない。遠ければ(ex.辿れない先祖や隣村の夫婦)聞き手は臨場感を持ちにくく、興味が湧きにくいので、惹きつける内容が選ばれる。

既知の場所と未知の場所も同じ関係にある。

つまり関係が遠ければ、冒険話・都市伝説・昔話など興味を惹く形態をとらざるを得ない。


話し手と主人公の関係  話し手が話の主人公から直接聞いた場合と、伝聞で聞いた場合も同じことが起こる。伝え聞いた話は臨場感が弱いので、物語は陶冶される。


物語を生むいくつかの力   抑圧されたものの日常生活への回帰

1 血の記憶の喪失  辿れなくなった先祖が例えば無縁墓を生み、断絶して弔う者のいない死者が意識されることによって、喪失した血の記憶がよみがえり、日常を脅かす。封建的な家父長制を疎んじる価値の台頭のもと、農村共同体の解体過程で起こる。

また血の記憶の喪失は、先祖を辿れず自らの由来が不明になった者に不安を呼び起こす。


2 土地の記憶の喪失  先住共同体がある場合は、先住共同体の記憶・価値が新住民に軽視・無視され、故に物語を喪失した記憶の無い土地に新住民は無意識に不安を抱く。農村共同体が新興住宅地に侵食される過程で起こる。


   2’  もとから住んでいた先住共同体なしの場合  記憶の喪失はそもそもない。それまで人の住んだことのない土地を開拓するとき、そこにいる精霊を鎮めるために地鎮祭が行われる。社会の外側(精霊)との交流がある。


3  贈与・利他の記憶の喪失   家族・氏族社会の原理の1つだった贈与が定住社会の中で喪失され、交換原理、つまり利他行為に駆逐される中で、抑圧された贈与が楽園イメージとして日常に呼び起こされる。


ある歴史社会に存在した物語の型は、それ以降の社会で存続し続ける。例えば噂話は狩猟採集社会から存在し、大規模定住社会の現代まで存在する。その逆は無い。

例えば昔話は大規模定住社会になって初めて姿を現したが、それ以前の社会では存在しえなかった。


以下、物語の型の説明


日常の体験談  体験者である話し手と、聞き手の間で共感と承認のやり取りが行われ、一体感を強化する。会話の最初期から存在する物語。親密な共同体の中でやり取りされる。サルのグルーミングに相当。


噂話  共同体の中にいる人の噂をする。会話をする両者の間での親密さの確認。ある人を疎外することによって共同体の中のより小さな仲良しグループを確認。実際に血の繋がりのある氏族集団で存在。


伝説・伝承  共同体メンバーの辿れる先祖が主人公で、舞台は共同体の内側。

1 辿れる先祖が主人公の場合  

氏族共同体で成立。過去から現在までの共同体の継続が意識され、時間を超えた共同体への一体感を強化。血の記憶による、共同体の過去から未来までの意識化。先祖に感謝し子孫のために生きる動機づけを与える。

2 物語のテーマが人よりも特定の土地に重きを置く場合 例えば村の池や泉、橋など。  

血族関係の定かでは無い人たちが共同体を構成しているとき、血族関係を超えて、同じメンバーであることの確認。土地の記憶による、共同体の過去から未来までの意識化。

1の物語のほうが早く成立した。


神話   主人公は辿れない(空想の)先祖。舞台は実際に存在する特定の場所。世界と共同体の関係を説明する。共同体とその外側が一体と感じられる社会では成立しない。

かつ神話は共同体の外側を記述するが、その動機は、自分たちではどうしようもない日常的に起こる不条理な出来事を納得するため。病気やケガ、死、大雨、動物や人からの攻撃。

神話における世界と共同体の関係は、血の記憶における先祖と個人の関係に相似。


ーーー  血縁関係のある氏族社会からその連合体である部族社会に移行したとき、それまでの氏族社会の氏神信仰から、その連合体をまとめる為の象徴として物語が創られる。それが氏神信仰から転化した部族の宗教だと思う。ーーー


昔話  主人公は、話し手・聞き手にとって未知、かつ場所も未知。伝聞で伝わり、親近感を持ちにくい話なので、心に響く物話に陶冶されていく。具体的には、無意識を刺激する、非日常の世界を描写。大規模定住社会はその成立のために多くのルールを人々に強いた。多くの不自由なルールに縛られた人々がその外側を求めた。無意識へ抑圧されたものが意識に回帰。


冒険話?  ここは考察中   主人公は、話し手・聞き手にとって共同体の外側、かつ場所も共同体の外側。隣接した共同体の"凄いやつ"の話。遊動社会?または定住社会で成立。


都市伝説   主人公は未知、舞台は既知。農村共同体が伝えてきた土地の記憶が、新興住宅地化する中で、土地の伝承が途絶えたとき、外来住民の中で発生。自分たちの住んでいる場所の由来の分からなさが都市伝説を生む。人口流動性の高い社会で成立。


考察 または独り言

血の記憶や土地の記憶を人は気に掛ける。それは自分の由来、自分が何者であるかにこだわるからだ。何故それにこだわるのか。自分の存在が不確かに感じられるからだ。そこには存在の不安がある。果たしてそれは遊動社会からあったのだろうか。神話は世界と共同体を時間軸でつなぐ役割を果たす。そのことで共同体に安心をもたらす。また世界の成り立ちを説明することで、不条理な人生に折り合いをつけさせる。ブッシュマンには神話は確認されていないが、ヤノマミにはある。ブッシュマンは多くても100人までのバンドで暮らしているが、ヤノマミは200人以上の共同体をつくることがある。この共同体構成員の数の違いが、掟の縛りの数に関係し、それが個人の存在の不安に関わって神話を生み出すのかも知れない。自然に仲間と思える数の上限、つまりダンバー数は120~150人だ。200人はある種の我慢を構成員に課す。

しかし私の感覚で言えば、僅かな掟で暮らしている狩猟採集民が存在の不安を強く感じる必然性があるとは思えない。もしかしたらスペイン人入植者と過去に接したときに、ヒントを得たのかもしれない。だとしても神話が存続する為にはそれを必要とする下地、つまり共同体側の欲求が必要だ。

だとしたら、社会にとっての神話の位置づけは、不条理な世界を記述する為だけにあるのかも知れない。


物語と共同体の関係 共同体と感情から見た物語

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いくつかの前提

聞き手と主人公の関係 近ければ(ex.体験談)臨場感が強いので、内容自体はあまり問われない。遠ければ(ex.辿れない先祖や隣村の夫婦)聞き手は臨場感を持ちにくく、興味が湧きにくいので、惹きつける内容が選ばれる。
既知の場所と未知の場所も同じ関係にある。
つまり関係が遠ければ、冒険話・都市伝説・昔話など興味を惹く形態をとらざるを得ない。

話し手と主人公の関係 話し手が話の主人公から直接聞いた場合と、伝聞で聞いた場合も同じことが起こる。伝え聞いた話は臨場感が弱いので、物語は陶冶される。

物語を生むいくつかの力 抑圧されたものの日常生活への回帰
1 血の記憶の喪失 辿れなくなった先祖が例えば無縁墓を生み、断絶して弔う者のいない死者が意識されることによって、喪失した血の記憶がよみがえり、日常を脅かす。封建的な家父長制を疎んじる価値の台頭のもと、農村共同体の解体過程で起こる。
また血の記憶の喪失は、先祖を辿れず自らの由来が不明になった者に不安を呼び起こす。

2 土地の記憶の喪失 先住共同体がある場合は、先住共同体の記憶・価値が新住民に軽視・無視され、故に物語を喪失した記憶の無い土地に新住民は無意識に不安を抱く。農村共同体が新興住宅地に侵食される過程で起こる。

2’ もとから住んでいた先住共同体なしの場合 記憶の喪失はそもそもない。それまで人の住んだことのない土地を開拓するとき、そこにいる精霊を鎮めるために地鎮祭が行われる。社会の外側(精霊)との交流がある。

3 贈与・利他の記憶の喪失 家族・氏族社会の原理の1つだった贈与が定住社会の中で喪失され、交換原理、つまり利他行為に駆逐される中で、抑圧された贈与が楽園イメージとして日常に呼び起こされる。

ある歴史社会に存在した物語の型は、それ以降の社会で存続し続ける。例えば噂話は狩猟採集社会から存在し、大規模定住社会の現代まで存在する。その逆は無い。
例えば昔話は大規模定住社会になって初めて姿を現したが、それ以前の社会では存在しえなかった。

以下、物語の型の説明

日常の体験談 体験者である話し手と、聞き手の間で共感と承認のやり取りが行われ、一体感を強化する。会話の最初期から存在する物語。親密な共同体の中でやり取りされる。サルのグルーミングに相当。

噂話 共同体の中にいる人の噂をする。会話をする両者の間での親密さの確認。ある人を疎外することによって共同体の中のより小さな仲良しグループを確認。実際に血の繋がりのある氏族集団で存在。

伝説・伝承 共同体メンバーの辿れる先祖が主人公で、舞台は共同体の内側。
1 辿れる先祖が主人公の場合
氏族共同体で成立。過去から現在までの共同体の継続が意識され、時間を超えた共同体への一体感を強化。血の記憶による、共同体の過去から未来までの意識化。先祖に感謝し子孫のために生きる動機づけを与える。
2 物語のテーマが人よりも特定の土地に重きを置く場合 例えば村の池や泉、橋など。
血族関係の定かでは無い人たちが共同体を構成しているとき、血族関係を超えて、同じメンバーであることの確認。土地の記憶による、共同体の過去から未来までの意識化。
1の物語のほうが早く成立した。

神話 主人公は辿れない(空想の)先祖。舞台は実際に存在する特定の場所。世界と共同体の関係を説明する。共同体とその外側が一体と感じられる社会では成立しない。
かつ神話は共同体の外側を記述するが、その動機は、自分たちではどうしようもない日常的に起こる不条理な出来事を納得するため。病気やケガ、死、大雨、動物や人からの攻撃。
神話における世界と共同体の関係は、血の記憶における先祖と個人の関係に相似。

ーーー 血縁関係のある氏族社会からその連合体である部族社会に移行したとき、それまでの氏族社会の氏神信仰から、その連合体をまとめる為の象徴として物語が創られる。それが氏神信仰から転化した部族の宗教だと思う。ーーー

昔話 主人公は、話し手・聞き手にとって未知、かつ場所も未知。伝聞で伝わり、親近感を持ちにくい話なので、心に響く物話に陶冶されていく。具体的には、無意識を刺激する、非日常の世界を描写。大規模定住社会はその成立のために多くのルールを人々に強いた。多くの不自由なルールに縛られた人々がその外側を求めた。無意識へ抑圧されたものが意識に回帰。

冒険話? ここは考察中 主人公は、話し手・聞き手にとって共同体の外側、かつ場所も共同体の外側。隣接した共同体の"凄いやつ"の話。遊動社会?または定住社会で成立。

都市伝説 主人公は未知、舞台は既知。農村共同体が伝えてきた土地の記憶が、新興住宅地化する中で、土地の伝承が途絶えたとき、外来住民の中で発生。自分たちの住んでいる場所の由来の分からなさが都市伝説を生む。人口流動性の高い社会で成立。

考察 または独り言
血の記憶や土地の記憶を人は気に掛ける。それは自分の由来、自分が何者であるかにこだわるからだ。何故それにこだわるのか。自分の存在が不確かに感じられるからだ。そこには存在の不安がある。果たしてそれは遊動社会からあったのだろうか。神話は世界と共同体を時間軸でつなぐ役割を果たす。そのことで共同体に安心をもたらす。また世界の成り立ちを説明することで、不条理な人生に折り合いをつけさせる。ブッシュマンには神話は確認されていないが、ヤノマミにはある。ブッシュマンは多くても100人までのバンドで暮らしているが、ヤノマミは200人以上の共同体をつくることがある。この共同体構成員の数の違いが、掟の縛りの数に関係し、それが個人の存在の不安に関わって神話を生み出すのかも知れない。自然に仲間と思える数の上限、つまりダンバー数は120~150人だ。200人はある種の我慢を構成員に課す。
しかし私の感覚で言えば、僅かな掟で暮らしている狩猟採集民が存在の不安を強く感じる必然性があるとは思えない。もしかしたらスペイン人入植者と過去に接したときに、ヒントを得たのかもしれない。だとしても神話が存続する為にはそれを必要とする下地、つまり共同体側の欲求が必要だ。
だとしたら、社会にとっての神話の位置づけは、不条理な世界を記述する為だけにあるのかも知れない。

子供の幼い時の写真を見ると、なぜ胸が痛くなるのか

自分の息子や娘の幼い頃の写真を見て胸が痛くなった経験は、多くの人が持っていると思う。 私は長らくその原因が、ちゃんと子育てが出来なかった、という後悔から来ているものだと思っていた。 きちんと子育てできた人はこのような後悔を持つことがないのだろう、と思っていた。 


ある時、子育てをきちんとできていた、と仮定したら、どういう気分になるか思考実験をしてみた。が、やはり胸が痛くなった。その時に分かったことは、どうしたって胸が痛くなるようだ、ということだった。


その原因を考えると、

1 100%完璧な子育てなどありえないから。 つまり後悔は必ず付きものなのだ。


2 後悔とは別のところも刺激されているから。


以下2について考えた。


幼い子供の笑顔や姿の向こうに、子供の無垢さを見ているのだと思う。 ではなぜ子供の無垢さを見ると胸が痛くなるのか。 

子供の無垢さの向こうに、自分の中の幼い頃の無垢さ・純粋さを見ているのだと思う。 今はすでに失われてしまった無垢さを見て、胸が痛くなっているのだと思う。


付け加えれば、写真は、自分の子供でなければ何故か胸が痛くならない。 他人の子供の写真を見ても、そのような感慨が起こらないのだ。 また自分自身の子供時代の写真でもそれは起こらない。別の感情が立ち上がってしまうからだ。

ある人物の向こうに無垢な自分を見るためには、とても繊細な設定が必要なのだと思う。


話が飛ぶが、夕焼けを見て何とも言えない切ない気持ちになるのは、無垢だった子供の頃に見た夕焼けを思い出すからだと思う。その夕焼けの記憶が、今はすでに失われた自分の無垢さを呼び起こすのだと思う。


更に話を飛ばせば、自分の最も奥深いところにある、自分の核となっているもの、無意識に常に参照する原点は、無垢な自分だと思う。


子供の幼い時の写真を見ると、なぜ胸が痛くなるのか

自分の息子や娘の幼い頃の写真を見て胸が痛くなった経験は、多くの人が持っていると思う。 私は長らくその原因が、ちゃんと子育てが出来なかった、という後悔から来ているものだと思っていた。 きちんと子育てできた人はこのような後悔を持つことがないのだろう、と思っていた。

ある時、子育てをきちんとできていた、と仮定したら、どういう気分になるか思考実験をしてみた。が、やはり胸が痛くなった。その時に分かったことは、どうしたって胸が痛くなるようだ、ということだった。

その原因を考えると、
1 100%完璧な子育てなどありえないから。 つまり後悔は必ず付きものなのだ。

2 後悔とは別のところも刺激されているから。

以下2について考えた。

幼い子供の笑顔や姿の向こうに、子供の無垢さを見ているのだと思う。 ではなぜ子供の無垢さを見ると胸が痛くなるのか。
子供の無垢さの向こうに、自分の中の幼い頃の無垢さ・純粋さを見ているのだと思う。 今はすでに失われてしまった無垢さを見て、胸が痛くなっているのだと思う。

付け加えれば、写真は、自分の子供でなければ何故か胸が痛くならない。 他人の子供の写真を見ても、そのような感慨が起こらないのだ。 また自分自身の子供時代の写真でもそれは起こらない。別の感情が立ち上がってしまうからだ。
ある人物の向こうに無垢な自分を見るためには、とても繊細な設定が必要なのだと思う。

話が飛ぶが、夕焼けを見て何とも言えない切ない気持ちになるのは、無垢だった子供の頃に見た夕焼けを思い出すからだと思う。その夕焼けの記憶が、今はすでに失われた自分の無垢さを呼び起こすのだと思う。

更に話を飛ばせば、自分の最も奥深いところにある、自分の核となっているもの、無意識に常に参照する原点は、無垢な自分だと思う。

今、合意できることを合意する

保守か革新か、右か左かではなく、今すぐ合意できることをさっさと合意して実行したい。


国家と国家

紛争はないほうがいいに決まってるでしょ。 ここ半年ほどのエチオピア政府軍とエリトリア軍によるティグレ地方での虐殺・強姦・略奪は市民が対象になっている。  これに賛成する人は誰もいないでしょ。  これは、中国が一帯一路政策でアジアやアフリカで投資を増やしてアメリカに対抗していることに対する評価よりも、明らかに国際的に合意を得やすいでしょ。  ならばさっさと国際的な与論を形成して制裁をかけたり、外交ルートを通じて軍の撤退を促せば良いと思う。

みんなが合意できて、しかも確実に不幸を減らすことができるでしょ。


紛争は兵隊だけではなく市民に被害を与える  非正規の部隊による紛争は止めづらいが、国家の軍隊による紛争は正規ルートを通せば圧力をかけやすい。

  

イスラエルによるパレスチナ侵略。  トルコ・シリア・イラクによるクルド人への弾圧。  中国によるチベット人ウイグル人・モンゴル人への弾圧。

これらに賛成する人も誰もいないでしょ。ならばさっさと合意を形成して不幸を減らしたほうがいいでしょ。


国内

ベトナムやフィリピンで高額の借金を負わされて、労働者として日本に働きに来る。  借金の返済のためどんな仕事でも拒むことができず、パスポートも取り上げられて逃げることもできない。  この状態に賛成する人は誰もいないでしょ。 ならば東京オリンピックを開催するか、しないかと言う議論に大きな労力をかけるよりも、さっさとこの奴隷労働を禁止する法律を制定すべきでしょ。  すでにその法律があるのなら、実行力を持たせるべきでしょ。  

これは、みんなが合意できて、しかも確実に不幸を減らすことができるでしょ。


コミュニティ内

自分の立場を利用して、嫌がる他人を自分の思い通りに動かそうとするパワーハラスメントセクシャルハラスメント。  被害者がうける精神的ダメージを考えれば、誰もこれに賛成する人はいないでしょ。  全ての国民の同意が取れるのだから、後はいかにしてこれを減らしていくかを、国会やメディアを通して考えればいいでしょ。 これを減らすことは確実に不幸を減らすことになるでしょ。


相対

DVや子供への虐待に賛成する人は誰もいないでしょ。すべての国民の同意が取れるのだから、さっさと有効な対応策を考えれば良いでしょ。 これらを理性だけで止めるのは難しいから、どうしてそういうことをしてしまうのかを、国会やメディアを通して議論すればいいでしょ。


簡単に合意ができて、しかも確実に不幸を減らせることができるなら、さっさと実行に移せばいいでしょ。


個人

国会や地方議会ができることはたくさんあるけれど、私たち個人もすぐに出来ることがあるでしょ。

パワハラやセクハラや DV や虐待やマウンティングをしてしまうのは、結局は自己肯定感が足りないからだ。 自己肯定感の不足は、他者からの承認不足によって生じる。 だから私たちができることは、身の回りの大人や子供にたくさんの承認を与えることでしょ。お金もかからないし、時間もかからない。今すぐできることでしょ。 会う人すべてでなくて、もちろん良い。 一番身近なところから始めていけば良い。 一番大切な人から始めていけば良い。 


今、合意できることを合意する

保守か革新か、右か左かではなく、今すぐ合意できることをさっさと合意して実行したい。

国家と国家
紛争はないほうがいいに決まってるでしょ。 ここ半年ほどのエチオピア政府軍とエリトリア軍によるティグレ地方での虐殺・強姦・略奪は市民が対象になっている。 これに賛成する人は誰もいないでしょ。 これは、中国が一帯一路政策でアジアやアフリカで投資を増やしてアメリカに対抗していることに対する評価よりも、明らかに国際的に合意を得やすいでしょ。 ならばさっさと国際的な与論を形成して制裁をかけたり、外交ルートを通じて軍の撤退を促せば良いと思う。
みんなが合意できて、しかも確実に不幸を減らすことができるでしょ。

紛争は兵隊だけではなく市民に被害を与える 非正規の部隊による紛争は止めづらいが、国家の軍隊による紛争は正規ルートを通せば圧力をかけやすい。

イスラエルによるパレスチナ侵略。 トルコ・シリア・イラクによるクルド人への弾圧。 中国によるチベット人ウイグル人・モンゴル人への弾圧。
これらに賛成する人も誰もいないでしょ。ならばさっさと合意を形成して不幸を減らしたほうがいいでしょ。

国内
ベトナムやフィリピンで高額の借金を負わされて、労働者として日本に働きに来る。 借金の返済のためどんな仕事でも拒むことができず、パスポートも取り上げられて逃げることもできない。 この状態に賛成する人は誰もいないでしょ。 ならば東京オリンピックを開催するか、しないかと言う議論に大きな労力をかけるよりも、さっさとこの奴隷労働を禁止する法律を制定すべきでしょ。 すでにその法律があるのなら、実行力を持たせるべきでしょ。
これは、みんなが合意できて、しかも確実に不幸を減らすことができるでしょ。

コミュニティ内
自分の立場を利用して、嫌がる他人を自分の思い通りに動かそうとするパワーハラスメントセクシャルハラスメント。 被害者がうける精神的ダメージを考えれば、誰もこれに賛成する人はいないでしょ。 全ての国民の同意が取れるのだから、後はいかにしてこれを減らしていくかを、国会やメディアを通して考えればいいでしょ。 これを減らすことは確実に不幸を減らすことになるでしょ。

相対
DVや子供への虐待に賛成する人は誰もいないでしょ。すべての国民の同意が取れるのだから、さっさと有効な対応策を考えれば良いでしょ。 これらを理性だけで止めるのは難しいから、どうしてそういうことをしてしまうのかを、国会やメディアを通して議論すればいいでしょ。

簡単に合意ができて、しかも確実に不幸を減らせることができるなら、さっさと実行に移せばいいでしょ。

個人
国会や地方議会ができることはたくさんあるけれど、私たち個人もすぐに出来ることがあるでしょ。
パワハラやセクハラや DV や虐待やマウンティングをしてしまうのは、結局は自己肯定感が足りないからだ。 自己肯定感の不足は、他者からの承認不足によって生じる。 だから私たちができることは、身の回りの大人や子供にたくさんの承認を与えることでしょ。お金もかからないし、時間もかからない。今すぐできることでしょ。 会う人すべてでなくて、もちろん良い。 一番身近なところから始めていけば良い。 一番大切な人から始めていけば良い。

苦は生き物の常態である

人は言語を生み出し、文字を発明して、知識を蓄積した。科学と技術を発展させ、 多くの苦い経験から、より快適な社会を創り出そうとしてきた。 


今、世界を見渡せば、イスラエル国際法に違反して、パレスチナ人の家を壊してパレスチナに入植を続けている。パレスチナ人は合法に住んでいる家を壊され、追い出されている。

アメリカでは、丸腰の黒人が警察に殺され続けてきた。日常生活の中で、警察に呼び止められるだけで、極度の緊張を強いられる。

日本では、夜中にバス停の椅子に座っていたホームレスの女性が、石を入れたビニール袋で殴られて殺される。高架下で寝ていたホームレスが若者に石で殴られ殺される。

家賃が払えずアパートを出るなど、ネットカフェに泊まるその日暮らしの人は東京だけで4千人いる。明日がどうなるかわからない不安の中、住所不定で仕事を探す。


ネットでは誹謗中傷で人々は傷付けられている。相対では言えないことが、匿名の立場なら相手の気持を考えずに言えてしまう。朝の満員電車では、見ず知らずの人と押し合い、心を殺して通勤している。老後のために今を我慢して働いている。会社では嫌な人間と我慢して一緒にいる。友達とは、仲間外れにされないために言いたいことを言わずに我慢して相づちをうっている。


なぜ人の生は苦がこれほどに多いのか。そして周りを見渡してみる。


よく踏まれる地面ではオオバコが優先する。 踏み圧が強くて他の植物が生き残れないからだ。  もし人の行き来が変更され踏まれなくなると、たちまち背の高い植物に覆われて日陰になったオオバコは日光不足で枯れていく。  

私達の目の前にある植物は、過酷な競争を勝ち残った結果の姿としてある。 多くの種子がそこで発芽したが、競争に負けて枯れていったのだ。  


何年も地中で生きた後、盛夏に羽化したセミは、1ヶ月ほどあとに寿命を迎える。衰えて盛夏の草むらに落ちる。そして生きながらアリに群れられ、齧られていく。


ライオンは百獣の王と呼ばれるが、子供が大人に成長するのはとても厳しい。2歳児生存率は2割程度と言われる。 飢えや捕食者に食べられてしまうのだ。飢えて死ぬのは苦だ。 生きながら食べられるのも苦だ。


ホモサピエンスは30万年ほど前に出現したと言われる。  捕食獣に食われ、怪我をしても抗生物質は無く、体力が落ちると腐敗を止めれなかった。そして多くの場合飢えていた。



つまり全ての生き物の生は苦とともにある。

この世界で人を除くすべての生き物は、苦としての不快や痛み、恐怖をただ受け入れている。人だけが発達した大脳ゆえに苦しさや不幸、悲しみ、怒り、将来の不安を感じて鬱々と日々を生きている。

環境をコントロールできない彼ら生き物の生も苦、環境をコントロールしてきた私たちの生も苦だった。  大脳が発達し科学技術を進歩させてきたが、人生の苦はなくならなかった。


社会構造や行動の進化、心理の進化が分かってきても、日常の苦をなくすことができない。  しかし周りを見渡せば全ての生き物の生は苦に満ちている。  苦はすべての生き物の常態だ。

苦は生き物の常態である

人は言語を生み出し、文字を発明して、知識を蓄積した。科学と技術を発展させ、 多くの苦い経験から、より快適な社会を創り出そうとしてきた。

今、世界を見渡せば、イスラエル国際法に違反して、パレスチナ人の家を壊してパレスチナに入植を続けている。パレスチナ人は合法に住んでいる家を壊され、追い出されている。
アメリカでは、丸腰の黒人が警察に殺され続けてきた。日常生活の中で、警察に呼び止められるだけで、極度の緊張を強いられる。
日本では、夜中にバス停の椅子に座っていたホームレスの女性が、石を入れたビニール袋で殴られて殺される。高架下で寝ていたホームレスが若者に石で殴られ殺される。
家賃が払えずアパートを出るなど、ネットカフェに泊まるその日暮らしの人は東京だけで4千人いる。明日がどうなるかわからない不安の中、住所不定で仕事を探す。

ネットでは誹謗中傷で人々は傷付けられている。相対では言えないことが、匿名の立場なら相手の気持を考えずに言えてしまう。朝の満員電車では、見ず知らずの人と押し合い、心を殺して通勤している。老後のために今を我慢して働いている。会社では嫌な人間と我慢して一緒にいる。友達とは、仲間外れにされないために言いたいことを言わずに我慢して相づちをうっている。

なぜ人の生は苦がこれほどに多いのか。そして周りを見渡してみる。

よく踏まれる地面ではオオバコが優先する。 踏み圧が強くて他の植物が生き残れないからだ。 もし人の行き来が変更され踏まれなくなると、たちまち背の高い植物に覆われて日陰になったオオバコは日光不足で枯れていく。
私達の目の前にある植物は、過酷な競争を勝ち残った結果の姿としてある。 多くの種子がそこで発芽したが、競争に負けて枯れていったのだ。

何年も地中で生きた後、盛夏に羽化したセミは、1ヶ月ほどあとに寿命を迎える。衰えて盛夏の草むらに落ちる。そして生きながらアリに群れられ、齧られていく。

ライオンは百獣の王と呼ばれるが、子供が大人に成長するのはとても厳しい。2歳児生存率は2割程度と言われる。 飢えや捕食者に食べられてしまうのだ。飢えて死ぬのは苦だ。 生きながら食べられるのも苦だ。

ホモサピエンスは30万年ほど前に出現したと言われる。 捕食獣に食われ、怪我をしても抗生物質は無く、体力が落ちると腐敗を止めれなかった。そして多くの場合飢えていた。


つまり全ての生き物の生は苦とともにある。
この世界で人を除くすべての生き物は、苦としての不快や痛み、恐怖をただ受け入れている。人だけが発達した大脳ゆえに苦しさや不幸、悲しみ、怒り、将来の不安を感じて鬱々と日々を生きている。
環境をコントロールできない彼ら生き物の生も苦、環境をコントロールしてきた私たちの生も苦だった。 大脳が発達し科学技術を進歩させてきたが、人生の苦はなくならなかった。

社会構造や行動の進化、心理の進化が分かってきても、日常の苦をなくすことができない。 しかし周りを見渡せば全ての生き物の生は苦に満ちている。 苦はすべての生き物の常態だ。

もやしをつくる 生き物を食べる

野菜の種子をまいて発芽させ、開花・結実・収穫する中で、最も心が動く瞬間は発芽した時だ。 黒い土の中から芽が出て、緑の双葉がすくっと展開する。 あんなに乾燥して、コロコロと転がっていたけれど、本当に生きてたんだな、と思う。


種子を見るととりあえず発芽させたくなる。 よく玄米を食べるのだけれど、1日水に浸してザルに上げ、数日置いて発芽させてから炊く。 

玄米が発芽することが当たり前の感覚になってくると、スーパーで袋詰めで売られている玄米を見ても種子に見える。 こいつら生きてるのにパック詰めされて売られてるわ、と思う。 

大豆ももちろん発芽させる。 一晩水につけてザルに上げ、数日置いて発芽させ蒸す。 発芽させると甘みが増し、かつ柔らかくなるので調理時間も短くなって便利だ。

今では全ての豆、つまりひよこ豆やレンズ豆や雁喰豆や、、は発芽させて食べている。発芽させた豆の何粒かは、植木鉢で育てている。 


こうやって見みると私の台所に置いてある食材は、葉野菜・根菜は当然のこと、ほとんどのものが生きている。 動物性食材で置き換えれば、豚や鶏が食べられるのを待って台所でうろうろしているようなものだ。 


大豆もやしを蒸し始めた当初は、何を感じることもなく鍋に火を入れていたが、大豆が生きていることを実感して以降、点火する時に何らかの感慨に襲われる。 こいつら、蒸し殺されるんかぁ、と。

玄米を茶碗に盛って発芽している米粒が目につくと、お前、茹で殺されたんか、と思う。 


豆も玄米も古くなると発芽率が落ちる。 つまり人知れず死んでいる。 私が安らかに眠っている部屋で、保存ビニール袋の中で、一粒また一粒と力尽きて日毎に死んでいる。 


冷蔵庫の野菜室に入れた人参は、非常にゆっくりと芽を出してくる。 私は人参を使う時、しなびやすい尻尾の方から切って使っていく。 昨日使った時より今日の方が少し芽を伸ばしている。 明日使う時の方が今日よりも芽を伸ばしているだろう。 

人参からすれば何とか生き延びようとして芽を伸ばしているのだけれど、尻尾の方から少しずつ切断されていっているのだ。 自分に当てはめて考えれば恐ろしい事態だ。 


やはり食材は丁寧に扱い、大切に食べなければと思う。



ここで言う生きているとは、個体として生きているということで、細胞が生きているということを意味しない。細胞レベルで見れば、生肉も生きているということになる。

もやしをつくる 生き物を食べる

野菜の種子をまいて発芽させ、開花・結実・収穫する中で、最も心が動く瞬間は発芽した時だ。 黒い土の中から芽が出て、緑の双葉がすくっと展開する。 あんなに乾燥して、コロコロと転がっていたけれど、本当に生きてたんだな、と思う。

種子を見るととりあえず発芽させたくなる。 よく玄米を食べるのだけれど、1日水に浸してザルに上げ、数日置いて発芽させてから炊く。
玄米が発芽することが当たり前の感覚になってくると、スーパーで袋詰めで売られている玄米を見ても種子に見える。 こいつら生きてるのにパック詰めされて売られてるわ、と思う。
大豆ももちろん発芽させる。 一晩水につけてザルに上げ、数日置いて発芽させ蒸す。 発芽させると甘みが増し、かつ柔らかくなるので調理時間も短くなって便利だ。
今では全ての豆、つまりひよこ豆やレンズ豆や雁喰豆や、、は発芽させて食べている。発芽させた豆の何粒かは、植木鉢で育てている。

こうやって見みると私の台所に置いてある食材は、葉野菜・根菜は当然のこと、ほとんどのものが生きている。 動物性食材で置き換えれば、豚や鶏が食べられるのを待って台所でうろうろしているようなものだ。

大豆もやしを蒸し始めた当初は、何を感じることもなく鍋に火を入れていたが、大豆が生きていることを実感して以降、点火する時に何らかの感慨に襲われる。 こいつら、蒸し殺されるんかぁ、と。
玄米を茶碗に盛って発芽している米粒が目につくと、お前、茹で殺されたんか、と思う。

豆も玄米も古くなると発芽率が落ちる。 つまり人知れず死んでいる。 私が安らかに眠っている部屋で、保存ビニール袋の中で、一粒また一粒と力尽きて日毎に死んでいる。

冷蔵庫の野菜室に入れた人参は、非常にゆっくりと芽を出してくる。 私は人参を使う時、しなびやすい尻尾の方から切って使っていく。 昨日使った時より今日の方が少し芽を伸ばしている。 明日使う時の方が今日よりも芽を伸ばしているだろう。
人参からすれば何とか生き延びようとして芽を伸ばしているのだけれど、尻尾の方から少しずつ切断されていっているのだ。 自分に当てはめて考えれば恐ろしい事態だ。

やはり食材は丁寧に扱い、大切に食べなければと思う。


ここで言う生きているとは、個体として生きているということで、細胞が生きているということを意味しない。細胞レベルで見れば、生肉も生きているということになる。