無意識とは意識が介入できない場所だと思われている
だけど無意識はある程度介入できると思う より正確に言えば介入はできないかもしれないが変容はできると思う
具体的には
無意識に一番近い意識の層は当然介入できる つまりゆったりした気持ちになって自分が変えたいと思うことを心に思い浮かべる
すると意識に一番近い層の無意識が影響を受ける 心に思い浮かべることを何度も繰り返していくとこの無意識の層が強く影響を受ける
意識に一番近い無意識の層が強く影響を受けるとさらにその奥の無意識の層が影響を受け始める 以下同じようにしてより深い無意識に影響を与えられる
香港の国家安全維持法
なぜこの時期に強行に中国共産党は香港の国家安全維持法を制定したのだろう。
いろんな考えがあると思う。
去年の香港での民主化デモが予想以上に大きくなり、指導部の責任を回避するために何かしなければならなかった。
新型コロナウイルスで欧米の強国が外国に対応している余裕がない時を見計らって実行した。
トランプ政権のアメリカとの経済対立が決定的になったのでアメリカの顔色を見る必要がなくなった。
私は別の見方があると思っている。
中国の経済成長率は1990年代初頭以降一貫して高かった。それに伴って貧富の差も広がったが全体として人々は豊かになっていった。 西側の生活水準に近づき、その思想も流入した。 中国の人たちは自分たちの自由が制限されていることを意識したが、経済が順調で豊かになっていくことが実感できたので、自由の制限に目をつぶることができた。
しかし今後今までのような経済成長は期待できないだろう。
そうなった時、今までのようには豊かになれないと気づいた人たちは、目をつぶってきた自由の制限を不満に思い始めるだろう。
そうなった時、隣に香港のような民主化運動をしている地域があれば、連帯して大きな力になる可能性がある。 そうなる前に香港の民主化運動を制圧しようとしたのだと思う。
つまりこの法律の制定は経済成長の鈍化を見越し、国民の不満が高まることを見越していると思う。
香港の国家安全維持法
なぜこの時期に強行に中国共産党は香港の国家安全維持法を制定したのだろう。
いろんな考えがあると思う。
去年の香港での民主化デモが予想以上に大きくなり、指導部の責任を回避するために何かしなければならなかった。
新型コロナウイルスで欧米の強国が外国に対応している余裕がない時を見計らって実行した。
トランプ政権のアメリカとの経済対立が決定的になったのでアメリカの顔色を見る必要がなくなった。
私は別の見方があると思っている。
中国の経済成長率は1990年代初頭以降一貫して高かった。それに伴って貧富の差も広がったが全体として人々は豊かになっていった。 西側の生活水準に近づき、その思想も流入した。 中国の人たちは自分たちの自由が制限されていることを意識したが、経済が順調で豊かになっていくことが実感できたので、自由の制限に目をつぶることができた。
しかし今後今までのような経済成長は期待できないだろう。
そうなった時、今までのようには豊かになれないと気づいた人たちは、目をつぶってきた自由の制限を不満に思い始めるだろう。
そうなった時、隣に香港のような民主化運動をしている地域があれば、連帯して大きな力になる可能性がある。 そうなる前に香港の民主化運動を制圧しようとしたのだと思う。
つまりこの法律の制定は経済成長の鈍化を見越し、国民の不満が高まることを見越していると思う。
続続 宝の持ち腐れ または選択の幅
江戸時代、町民の食事は和食のみだった。 洋食もインド料理も中華料理もなかった。 さらに言えば暑い夏にアイスクリームもかき氷もなかった。 だからといって町民は自分たちの食事の幅が狭いとは思っていなかったはずだ。それは今の私たちを見ればわかる。 私たちは世界中の料理を知っている。 食べたければレストランに行くこともできるし、 レストランが遠ければ外国の調味料をネットで注文して、ネットでレシピを見ながら調理することもできる。 レトルトを注文することもできる。 だから自分たちの食事の幅が狭いとは思っていない。と言うよりも全てが揃っていると感じているだろう。 しかし200年後の人類から見たら、今の私たちの食生活の幅は限られているように見えるだろう。 私たちにとって与えられた現状がすべてであって、その外の選択肢は通常は見えない。 江戸時代の町民は和食の中に全ての選択肢を見ていたのだ。
当事者にとっては与えられた部分が常に全体として意識される。 それは、心の中に占めていた大きな不安が解決されると、それまで小さかった不安が大きくなって前の不安と同じ面積を占めるのと似ている。
1万年後の人類の食事の選択肢も、2万年後の人から見たら幅が狭いと感じるだろう。 つまり食事の幅の全てを知ることはできない。 知ることができるのは常に部分だけだ。
以上のことを前提にした上で、宝の持ち腐れの精神になぞらえれば、目の前にいくつかの選択肢が広がっている時に、その外側を意識することが、宝を見つけることにつながると思う。見えてる部分は宝を見つけるヒントなのだ。見えてる部分だけに意識を集中すると、宝が持ち腐れてしまう。
例えば、現代の食事を前提にした時、100年後に意識をずらしてみる。調理器具や調理法、加熱方法を想像してみる。今知っていることが全てではなく、その外側があるのだけれど見えてないだけだ、と知ることが宝の発見に繋がると思う。
ずらす方向はいくつかある 。前記のように時間をずらす。
他には見る場所をずらす。例えば上空から見る。
見ている人間をずらす。例えばトランプ大統領から見る。
宝の持ち腐れの主題をまとめると、
宝の持ち腐れでは、物の役割の最大化に注目した。
続 宝の持ち腐れでは、物の属性の多面さに注目した。
続続 宝の持ち腐れでは、物事に連なる外側に注目した。
つまり人生、宝だらけなのだ。
続続 宝の持ち腐れ または選択の幅
江戸時代、町民の食事は和食のみだった。 洋食もインド料理も中華料理もなかった。 さらに言えば暑い夏にアイスクリームもかき氷もなかった。 だからといって町民は自分たちの食事の幅が狭いとは思っていなかったはずだ。それは今の私たちを見ればわかる。 私たちは世界中の料理を知っている。 食べたければレストランに行くこともできるし、 レストランが遠ければ外国の調味料をネットで注文して、ネットでレシピを見ながら調理することもできる。 レトルトを注文することもできる。 だから自分たちの食事の幅が狭いとは思っていない。と言うよりも全てが揃っていると感じているだろう。 しかし200年後の人類から見たら、今の私たちの食生活の幅は限られているように見えるだろう。 私たちにとって与えられた現状がすべてであって、その外の選択肢は通常は見えない。 江戸時代の町民は和食の中に全ての選択肢を見ていたのだ。
当事者にとっては与えられた部分が常に全体として意識される。 それは、心の中に占めていた大きな不安が解決されると、それまで小さかった不安が大きくなって前の不安と同じ面積を占めるのと似ている。
1万年後の人類の食事の選択肢も、2万年後の人から見たら幅が狭いと感じるだろう。 つまり食事の幅の全てを知ることはできない。 知ることができるのは常に部分だけだ。
以上のことを前提にした上で、宝の持ち腐れの精神になぞらえれば、目の前にいくつかの選択肢が広がっている時に、その外側を意識することが、宝を見つけることにつながると思う。見えてる部分は宝を見つけるヒントなのだ。見えてる部分だけに意識を集中すると、宝が持ち腐れてしまう。
例えば、現代の食事を前提にした時、100年後に意識をずらしてみる。調理器具や調理法、加熱方法を想像してみる。今知っていることが全てではなく、その外側があるのだけれど見えてないだけだ、と知ることが宝の発見に繋がると思う。
ずらす方向はいくつかある 。前記のように時間をずらす。
他には見る場所をずらす。例えば上空から見る。
見ている人間をずらす。例えばトランプ大統領から見る。
宝の持ち腐れの主題をまとめると、
宝の持ち腐れでは、物の役割の最大化に注目した。
続 宝の持ち腐れでは、物の属性の多面さに注目した。
続続 宝の持ち腐れでは、物事に連なる外側に注目した。
つまり人生、宝だらけなのだ。
続続 宝の持ち腐れ または選択の幅
江戸時代、町民の食事は和食のみだった。 洋食もインド料理も中華料理もなかった。 さらに言えば暑い夏にアイスクリームもかき氷もなかった。 だからといって町民は自分たちの食事の幅が狭いとは思っていなかったはずだ。それは今の私たちを見ればわかる。 私たちは世界中の料理を知っている。 食べたければレストランに行くこともできるし、 レストランが遠ければ外国の調味料をネットで注文して、ネットでレシピを見ながら調理することもできる。 レトルトを注文することもできる。 だから自分たちの食事の幅が狭いとは思っていない。と言うよりも全てが揃っていると感じているだろう。 しかし200年後の人類から見たら、今の私たちの食生活の幅は限られているように見えるだろう。 私たちにとって与えられた現状がすべてであって、その外の選択肢は通常は見えない。 江戸時代の町民は和食の中に全ての選択肢を見ていたのだ。
当事者にとっては与えられた部分が常に全体として意識される。 それは、心の中に占めていた大きな不安が解決されると、それまで小さかった不安が大きくなって前の不安と同じ面積を占めるのと似ている。
1万年後の人類の食事の選択肢も、2万年後の人から見たら幅が狭いと感じるだろう。 つまり食事の幅の全てを知ることはできない。 知ることができるのは常に部分だけだ。
以上のことを前提にした上で、宝の持ち腐れの精神になぞらえれば、目の前にいくつかの選択肢が広がっている時に、その外側を意識することが、宝を見つけることにつながると思う。見えてる部分は宝を見つけるヒントなのだ。見えてる部分だけに意識を集中すると、宝が持ち腐れてしまう。
例えば、現代の食事を前提にした時、100年後に意識をずらしてみる。調理器具や調理法、加熱方法を想像してみる。今知っていることが全てではなく、その外側があるのだけれど見えてないだけだ、と知ることが宝の発見に繋がると思う。
ずらす方向はいくつかある 。前記のように時間をずらす。
他には見る場所をずらす。例えば上空から見る。
見ている人間をずらす。例えばトランプ大統領から見る。
宝の持ち腐れの主題をまとめると、
宝の持ち腐れでは、物の役割の最大化に注目した。
続 宝の持ち腐れでは、物の属性の多面さに注目した。
続続 宝の持ち腐れでは、物事に連なる外側に注目した。
つまり人生、宝だらけなのだ。
続 宝の持ち腐れ
人が作ったものはすべて役割を示す名前がついている。 ドライバーといえばネジを回す役割を担った物だ。 スピーカーといえば電気を使って音を出す役割を担った物だ。
ソーサーはカップを乗せる役割を担ったもので、平らだからと言って目玉焼きは乗せない。
コップは、人が液体を飲むために一時的に液体を保存する役割を担ったものだ。 液体を保存できるからと言ってそれが尿瓶に使えるとは思いつかない。
おしゃれなお店で店員が 、今売れてる作家さんが作ったコップです、と言って尿瓶の形をした物を見せられれば、私たちはそれをコップとして扱うだろう。
しかし物にはいろんな属性がある。 目の前に分厚い本が一冊あるとする。 これの文字に書かれた情報に注目すれば、これは本である。 しかし形に注目すれば踏み台になる。 質量に注目すれば重しになる。 素材に注目すれば燃料になる。
宝の持ち腐れ、でも見たように、バイオリンは美しい音楽を奏でる役割を担った物だ。 私の持っているバイオリンが宝であることに気付くということは、素晴らしい音楽を奏でられることに気づくことだ。 形に注目して行司の軍配に使うことではない。
それは役割名詞の役割を最大限に発揮することだ。 ドライバーやコップや本の役割を最大限に発揮することだ。
しかし繰り返せば、ものには多くの属性がある 。 名づけはものの使いみちを限定する。つまり 宝を持ち腐れする可能性を増大させる。 小さな、おもちゃのようなナイフを缶切りと思えなかったように。
閃くとは他の属性を持っていることに気がつくことだ。 他の集合で括れるようになることだ 。 目の前の一冊の本を、脚立と同じく踏み台と言う集合や、漬物石と同じく重しと言う集合や、ガソリンと同じく燃料と言う集合に括れるようになるということだ。
一つのものやことにどれだけの属性・関係性を見れるか、つまり多くの集合で括れるか、が宝を持ち腐れしないもう一つの方法だと思う
続 宝の持ち腐れ
人が作ったものはすべて役割を示す名前がついている。 ドライバーといえばネジを回す役割を担った物だ。 スピーカーといえば電気を使って音を出す役割を担った物だ。
ソーサーはカップを乗せる役割を担ったもので、平らだからと言って目玉焼きは乗せない。
コップは、人が液体を飲むために一時的に液体を保存する役割を担ったものだ。 液体を保存できるからと言ってそれが尿瓶に使えるとは思いつかない。
おしゃれなお店で店員が 、今売れてる作家さんが作ったコップです、と言って尿瓶の形をした物を見せられれば、私たちはそれをコップとして扱うだろう。
しかし物にはいろんな属性がある。 目の前に分厚い本が一冊あるとする。 これの文字に書かれた情報に注目すれば、これは本である。 しかし形に注目すれば踏み台になる。 質量に注目すれば重しになる。 素材に注目すれば燃料になる。
宝の持ち腐れ、でも見たように、バイオリンは美しい音楽を奏でる役割を担った物だ。 私の持っているバイオリンが宝であることに気付くということは、素晴らしい音楽を奏でられることに気づくことだ。 形に注目して行司の軍配に使うことではない。
それは役割名詞の役割を最大限に発揮することだ。 ドライバーやコップや本の役割を最大限に発揮することだ。
しかし繰り返せば、ものには多くの属性がある 。 名づけはものの使いみちを限定する。つまり 宝を持ち腐れする可能性を増大させる。 小さな、おもちゃのようなナイフを缶切りと思えなかったように。
閃くとは他の属性を持っていることに気がつくことだ。 他の集合で括れるようになることだ 。 目の前の一冊の本を、脚立と同じく踏み台と言う集合や、漬物石と同じく重しと言う集合や、ガソリンと同じく燃料と言う集合に括れるようになるということだ。
一つのものやことにどれだけの属性・関係性を見れるか、つまり多くの集合で括れるか、が宝を持ち腐れしないもう一つの方法だと思う
続 宝の持ち腐れ
人が作ったものはすべて役割を示す名前がついている。 ドライバーといえばネジを回す役割を担った物だ。 スピーカーといえば電気を使って音を出す役割を担った物だ。
ソーサーはカップを乗せる役割を担ったもので、平らだからと言って目玉焼きは乗せない。
コップは、人が液体を飲むために一時的に液体を保存する役割を担ったものだ。 液体を保存できるからと言ってそれが尿瓶に使えるとは思いつかない。
おしゃれなお店で店員が 、今売れてる作家さんが作ったコップです、と言って尿瓶の形をした物を見せられれば、私たちはそれをコップとして扱うだろう。
しかし物にはいろんな属性がある。 目の前に分厚い本が一冊あるとする。 これの文字に書かれた情報に注目すれば、これは本である。 しかし形に注目すれば踏み台になる。 質量に注目すれば重しになる。 素材に注目すれば燃料になる。
宝の持ち腐れ、でも見たように、バイオリンは美しい音楽を奏でる役割を担った物だ。 私の持っているバイオリンが宝であることに気付くということは、素晴らしい音楽を奏でられることに気づくことだ。 形に注目して行司の軍配に使うことではない。
それは役割名詞の役割を最大限に発揮することだ。 ドライバーやコップや本の役割を最大限に発揮することだ。
しかし繰り返せば、ものには多くの属性がある 。 名づけはものの使いみちを限定する。つまり 宝を持ち腐れする可能性を増大させる。 小さな、おもちゃのようなナイフを缶切りと思えなかったように。
閃くとは他の属性を持っていることに気がつくことだ。 他の集合で括れるようになることだ 。 目の前の一冊の本を、脚立と同じく踏み台と言う集合や、漬物石と同じく重しと言う集合や、ガソリンと同じく燃料と言う集合に括れるようになるということだ。
一つのものやことにどれだけの属性・関係性を見れるか、つまり多くの集合で括れるか、が宝を持ち腐れしないもう一つの方法だと思う
宝の持ち腐れ
若い頃ネパールで一か月以上入院した事がある。 ある日、同室患者の見舞い客が私に缶ジュースをひとつくれた。 お礼を言って受け取ったのだけれど当時はプルトップなどなく、道具を使って缶を開けなければならなかった。 私は缶切りなどというものを持ち合わせていなかった。 毎日その缶ジュースを眺めながら過ごした。 ある時、別の患者の見舞い客が、私が缶ジュースを眺めているのに気づいて話しかけてきた、 飲まないのかと。 缶切りがないのだと笑いながら答えると、ナイフは持っていないのかと言う。 刃先を缶に当てて上から叩くのだと。 私は果物をむくために小さな、玩具のような折りたたみナイフを一つ持っていた。 こんなもので開くのかと半信半疑ながらやってみると、苦もなく穴が開いた。 ナイフが缶切りになるという発想がそもそもなかった。 そしてチャイとお湯だけの毎日からひととき解放されたのだ。
最近念願のバイオリンを買った。 弓を弦に当ててみるとギーコギーコという音がする。 この音を聞き続けていると、このバイオリンはこういう音しか出せないような気がしてくる。 しかしもしここにイツァク パールマンが来てこのバイオリンを弾いたなら、素晴らしい音を奏でるに違いない。 私は深い感動につつまれるだろう。 このバイオリンはそんな音を出せるバイオリンなのだ。
私に知識や技術がないがゆえに資源を利用できない。 さらにはその可能性に気がつかない。 宝であることに気がつかない。
持ち腐れた宝は貴重な物に限らないだろう。 身の回りにある物や事の可能性にどれだけ私は気づいているか。 宝であることに気づいているか。宝になることに気づいているか。
庭に植わった草花という宝を持ち腐れていないか。部屋の観葉植物と言う宝を持ち腐れていないか。人間社会という宝を持ち腐れていないか。家族や子供という宝を持ち腐れていないか。自分という宝を持ち腐れていないか。
すべては自分次第だと思う。