続続 宝の持ち腐れ または選択の幅

江戸時代、町民の食事は和食のみだった。 洋食もインド料理も中華料理もなかった。 さらに言えば暑い夏にアイスクリームもかき氷もなかった。 だからといって町民は自分たちの食事の幅が狭いとは思っていなかったはずだ。それは今の私たちを見ればわかる。 私たちは世界中の料理を知っている。 食べたければレストランに行くこともできるし、 レストランが遠ければ外国の調味料をネットで注文して、ネットでレシピを見ながら調理することもできる。 レトルトを注文することもできる。 だから自分たちの食事の幅が狭いとは思っていない。と言うよりも全てが揃っていると感じているだろう。 しかし200年後の人類から見たら、今の私たちの食生活の幅は限られているように見えるだろう。 私たちにとって与えられた現状がすべてであって、その外の選択肢は通常は見えない。 江戸時代の町民は和食の中に全ての選択肢を見ていたのだ。

当事者にとっては与えられた部分が常に全体として意識される。 それは、心の中に占めていた大きな不安が解決されると、それまで小さかった不安が大きくなって前の不安と同じ面積を占めるのと似ている。

1万年後の人類の食事の選択肢も、2万年後の人から見たら幅が狭いと感じるだろう。 つまり食事の幅の全てを知ることはできない。 知ることができるのは常に部分だけだ。

以上のことを前提にした上で、宝の持ち腐れの精神になぞらえれば、目の前にいくつかの選択肢が広がっている時に、その外側を意識することが、宝を見つけることにつながると思う。見えてる部分は宝を見つけるヒントなのだ。見えてる部分だけに意識を集中すると、宝が持ち腐れてしまう。

例えば、現代の食事を前提にした時、100年後に意識をずらしてみる。調理器具や調理法、加熱方法を想像してみる。今知っていることが全てではなく、その外側があるのだけれど見えてないだけだ、と知ることが宝の発見に繋がると思う。

ずらす方向はいくつかある 。前記のように時間をずらす。
他には見る場所をずらす。例えば上空から見る。
見ている人間をずらす。例えばトランプ大統領から見る。

宝の持ち腐れの主題をまとめると、
宝の持ち腐れでは、物の役割の最大化に注目した。
続 宝の持ち腐れでは、物の属性の多面さに注目した。
続続 宝の持ち腐れでは、物事に連なる外側に注目した。

つまり人生、宝だらけなのだ。