先日高齢の知人が2週間ほど入院した。
その時に以下の和歌が浮かんできた。
ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき
その人の心境を思い遣ったのである。
小学生のころ、かるた取りとしての百人一首に親しんでいて、おおよその意味も知っているつもりでいたが、今回改めて調べて見ると、全く取り違えていることを知った。
私の認識では、年をとった今となっては、かっては憂しと思っていたこの世が大切に思えるようになったよ、だったが、実際は、更に長生きすれば、今の苦しいことも懐かしく思い出されるのだろうな。かって苦しいと思っていた世の中も、今では懐かしく思い出されるのだから、である。
小学生だったから仕方ないが、しのばれむ、の「む」が未来の推定だということを知らなかった。
で、改めてこの歌を気に入ったのである。
と言うのも、現在から見た過去の評価をもとにして、未来から見た現在の自分を評価しているからである。これは時間軸でのメタ認知の表現である。一度だけだが、入れ子の構造になっている。
メタ認知にはもう一つ別の認知方法があって、空間軸のメタ認知である。よくあるのは、天井あたりから自分のやっていることを見る、だろう。
常々私は人の認識獲得には幾つかの原型があって、それらを当て嵌めることによって、知識を獲得している、と思っている。ある一つの原型を繰り返して認識すると、例えばメタ認知を獲得することになる、と思う。
そういう意味で、入れ子構造は私には興味深い。
メタ認知に話を戻せば、千年前の人もメタ認知能力があったのか、という当たり前のことだが、それがしみじみ感慨深い。今も昔も人の能力に変わりはないのだ。にもかかわらず、多くの人のしあわせを確立するのに、膨大な時間をかけてきた。もっと早く理性的な考えが普及してもよかったのにと思う。もちろん今でも確立していないが。
私のことに関して言えば、メタ認知は私を何とも切ない気分にさせる。人によっては虚しいと感じるのかもしれない。自分の人生を外から見ることは、生きることの意味を問うてくるし、私が持っている価値観の正当性をも問うてきて、何ともしびれた様な麻痺したような気分にさせる。それは悪い気分ではないのである。