imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ ながらえば またこの頃や しのばれむ 2022年12月

先日高齢の知人が2週間ほど入院した。

 

その時に以下の和歌が浮かんできた。

 

ながらへば  またこのごろや  しのばれむ  憂しと見し世ぞ  今は恋しき

 

その人の心境を思い遣ったのである。

 

小学生のころ、かるた取りとしての百人一首に親しんでいて、おおよその意味も知っているつもりでいたが、今回改めて調べて見ると、全く取り違えていることを知った。

私の認識では、年をとった今となっては、かっては憂しと思っていたこの世が大切に思えるようになったよ、だったが、実際は、更に長生きすれば、今の苦しいことも懐かしく思い出されるのだろうな。かって苦しいと思っていた世の中も、今では懐かしく思い出されるのだから、である。

小学生だったから仕方ないが、しのばれむ、の「む」が未来の推定だということを知らなかった。

 

で、改めてこの歌を気に入ったのである。

 

と言うのも、現在から見た過去の評価をもとにして、未来から見た現在の自分を評価しているからである。これは時間軸でのメタ認知の表現である。一度だけだが、入れ子の構造になっている。

メタ認知にはもう一つ別の認知方法があって、空間軸のメタ認知である。よくあるのは、天井あたりから自分のやっていることを見る、だろう。

 

常々私は人の認識獲得には幾つかの原型があって、それらを当て嵌めることによって、知識を獲得している、と思っている。ある一つの原型を繰り返して認識すると、例えばメタ認知を獲得することになる、と思う。

そういう意味で、入れ子構造は私には興味深い。

 

メタ認知に話を戻せば、千年前の人もメタ認知能力があったのか、という当たり前のことだが、それがしみじみ感慨深い。今も昔も人の能力に変わりはないのだ。にもかかわらず、多くの人のしあわせを確立するのに、膨大な時間をかけてきた。もっと早く理性的な考えが普及してもよかったのにと思う。もちろん今でも確立していないが。

 

私のことに関して言えば、メタ認知は私を何とも切ない気分にさせる。人によっては虚しいと感じるのかもしれない。自分の人生を外から見ることは、生きることの意味を問うてくるし、私が持っている価値観の正当性をも問うてきて、何ともしびれた様な麻痺したような気分にさせる。それは悪い気分ではないのである。