簡単なあらすじ
偶然に出会った貧しい絵描き、小説家、作曲家がパリでボヘミアンな生活を送る。絵描きの彼女の入院費を捻出するため、残り二人も持てる僅かな資産を売却して協力する。
白黒映画で、すべてフランス語で構成されている。「コントラクトキラー」1990年の舞台はイギリスで、使用言語はイギリス語であった。
絵描きを演じるこの監督常連のフィンランド人俳優がたどたどしいフランス語を話している。なので彼の設定はアルバニア人だ。
この監督の通奏低音であるコメディー色はこの映画にはない。
フランスの文化史に詳しい人なら商品の値段など映像を見れば時代がすぐにわかる仕掛けになっていると思うが、私には時代設定がいつなのかは分からなかった。オート三輪車が走っているので、1950年代前後だと思うが。第二次大戦の荒廃が見られないので、もしかしたら1930年代かも知れない。まあ私たち日本人にとってはどちらでも同じだろう。
監督の視点
監督はただボヘミアン賛歌を表現したかったのだと思う。お金や名誉より、愛や自由や友情、特に芸術の価値を称揚する。
1990年、1991年はソ連解体の危機もあって、フィンランドはマイナス成長で、不景気だった。自信を失っている自国民に、別の価値観を提示して力づけたかったのかも知れない。
また、この映画の初上映はベルリン国際映画祭だったようなので、そもそもフィンランドは眼中になかったかもしれない。この時期、ドイツ、フランスとも経済は安定して景気は良かった。だとすると景気に浮かれた西ヨーロッパの人たちにオルタナティブを提示したとも考えられる。
私の視点
絵描きはアルバニアの社会主義から逃げてきた。社会主義は御免だ、という前提がある。パリで出会った芸術家仲間は、自由こそ素晴らしい、という前提があった。監督の前提は、弱者に厳しい資本主義に批判的で、貧しい労働者に共感的だろう。そして私は、貧しい労働者は、豊かになると、やはり資本主義を礼賛するようになってしまうので、弱者にやさしい社会を作るには、別の視点が必要かもしれない、と思う。貧しい市民は実は資本家志向だった、という身もふたもない事実である。
社会が貧しいときは精彩を放っていた映画監督が、社会が豊かになると主題の路頭に迷うのは、それが原因だと思う。例えばテオ・アンゲロプロス監督のように。
絵描きの付き合っている女の入院費を捻出するために、小説家も作曲家も即座に大切な物を売却した。この場面を見た時、友情つまり利他重視というより、ああ、この人達は今を生きてるな、と思った。明日必要な物より、今必要なものを選択したのである。
この映画には働くことに縛られない自由な暮らしが描かれているが、ワクワク感がない。自由とは経済的価値からの自由だけでなく、既存の伝統的価値からも自由だろう。であれば未知の世界が見えてきて、そこに踏み込もうとするだろう。ワクワクするはずである。そこが描かれていないと思う。
彼らを見ていると、貧しさに押しつぶされそうになっている。貧しさを楽しんでいない。早晩この暮らしから脱落するだろう、と言う予感がある。脱落とは、地元に帰って家業を手伝うとか、芸術家を諦めて企業に就職して労働者になる、ということである。ボヘミアンの概念の元になったロマ(ジプシー)は、若い時だけロマなのではなく、年老いてもロマなのだ。年をとってもボヘミアンでいられるためには、日常生活を送るときに別の態度が必要だと思う。
三人の芸術家は、貧しいから一つのアパートで共同生活をした。貧しいから助け合った。貧しくなくなった時にも、同じ程度に利他行為が出来るためには、何か他の価値が必要だろう。
追記
映画の題名の意味は、ボヘミアンな生活、である。本作は「ボヘミアンな暮らしの風景」アンリ・ムルジェ1851年という小説を土台にしている。私は読んだことが無いが、ウィキペディアによると、死せる娼婦、が主題の一つになっているようだ。
ボヘミアンとは、19世紀半ばから始まる、お金や名誉と言った世俗的な価値に背を向けて、芸術、恋愛、自由、友情を大切にする人達のことだ。そのひとつの表現法として自発的な貧乏暮らしがある。もともとはロマ(ジプシー)の風俗をさしていた。なぜボヘミアンと呼ぶかと言うと、フランスではロマはチェコのボヘミア地方から来たと思われていたからのようだ。
興味深いのは、1800年代半ばに既に資本主義的価値を意識的に否定して、ひとつの形としてそれを提示し、ある程度の数の人たちがそれに共感し、実践したということだ。
フランスで工場制機械工業が始まったのは18世紀末からで、19世紀半ばには工場労働者たちの悲惨な生活が十分に普及していたのだろう。時代の流れに敏感な芸術家、ジャーナリスト、役者などがこの考え方を支持した。日本で「女工哀史」が出版されたのは1925年、つい100年前のことである。
余談
- いつも参考にするブログ、人生論的映画評論に、この映画の評が削除されていて、詳しいあらすじが書かれてある他のブログサイトを探したが、見つけられなかった。そのとき幾つかのブログの映画評を読んだが、映画の内容自体について書かれたものが一つもなく、ある場面の種明かしや題名のうんちく話ばかりで驚いた。
- この映画を観ているとき、日本の昔話で、3人の法師が協力して地獄の苦難を乗り越えて生還する、という「三人法師」というお話を思い出した。
三人で協力して苦難を乗り越える、という構造が同じなのが面白い。3という数字は人間関係において何か特別な意味を持つのかも知れない。
このお話には、三人寄れば文殊の知恵、という世界観はあるが、世俗的価値を放棄して自分の価値を優先する、というボヘミアンな世界観はない。主人公たちは法師なので、そもそも世俗的価値を放棄した人たちだとも考えられるが、この話の主人公が法師なのは、世俗の普通の人が閻魔大王などに一泡吹かせるのには話を聞く側に抵抗があり、常人を超えた力を持つ人=法師、という設定になったのだと思う。